2009,07,30, Thursday
――一つの世界があった。
不死の王を斃した英雄の伝説が、“英雄の末裔”という確固たる現実の存在によって今もなお語り継がれる世界。 エルフやドワーフ、リザードマンといった多様な種族が共存し、魔法によって物理法則が制御される世界。 大神エル・アギアスという名の一柱の神によって創造されたというその世界。 だが実は、エル・アギアスによって創造されたという世界の歴史そのものが、とある存在の手によって創られたものである、ということを、仮に想像の上でも考えた者が果たしてどれほど存在したであろうか。 ――一人の男がいた。 男は、物語を作る――すなわち、“架空の世界を作り上げること”を、己の生業としていた。 「神」として定義される存在の特徴の一つに「世界を創造すること」があるというのならば、架空の世界を作り上げるその男もまた、「神」と呼ぶに相応しい者であろう。 しかし男は人間であり、人間であるからには、彼が世界に生を受けたその瞬間と、「神」と呼ばれるまでに彼という人間を育てた地が存在する―― 活気に満ちた喧騒の中、お嬢様――セルマ・フォルテンマイヤー――と私――彼女の執事である、リック・アロースミス――はその地に降り立っていた。 「随分と賑やかな街ね。首都から離れた地方都市だなんていうから、もっと寂れているのかと思っていたわ」 お嬢様のある意味辛辣、ある意味素直な驚嘆の言葉に私は答える。 「お嬢様、この街は古来より実り豊かな領地を持ち、城下町として時の政府にも次ぐ繁栄を誇ったこともあるほどに栄えた地でございます。また、街に遺された歴史ある街並みを目的に来訪する観光客も多いと伝え聞いております。ですので、地方都市とはいえ、寂れたイメージなどにはほど遠い、規模のかなり大きな街なのです」 「ふうん、思ったよりもすごい街なのね」 「もっとも、街の規模も大きく観光客の訪れも盛んですが、それゆえ遠方からの来訪者の割合が多く、システムの都合上鉄道の切符の管理を自動化する必要が無い為に、未だ改札の自動化はなされていないとか」 「街中の人は多いのにそんな部分は旧いシステムのままなんて、面白いわね。――あら」 私の説明を聞きながら頷いていたお嬢様が、ふと何かに気付いたように背後を見やった。 つられるようにお嬢様の視線を追った私の耳に聴こえて来たのは、聞き慣れないけれどどこか艶やかさを感じさせる、異国の音色だった。 お嬢様の視線の先――つまりお嬢様の背後に建つのは、この地のターミナルとして機能している建物。 ![]() その建物の内部から、人々の雑多な話し声に混じって先ほどの音色が聞こえてくる。 「これは――弦楽器の音、でしょうか?」 この国で生まれた弦楽器――名称は確か、「琴」といったか。 「貴方にもそう聞こえた? こんな場所で聞くなんて、不思議よね」 恐らくはターミナルから鉄道の発着を知らせる合図として流される音楽なのだろう。だが。 「基本的に、このような用途に用いられるのは、もっと無機質で均一化された音のはずなのですが」 「やっぱり、そうよね。どうしてこんな音色なのかしら」 「真実は分かりませんが……もしかしたら、この街が長い歴史を持った地であることと関係があるのかもしれません」 昔ながらの街並みを今もって伝えるこの街で、遠方からの来訪者を出迎える、あるいは逆にここより旅立つ者を見送る場を飾るのならば、やはり昔ながらの音色こそが相応しい――そう考えた上での選択なのだとしたら。 「この街が“古都である”ことへの誇り、と言えるのかもしれませんね」 「そう考えると、何だか素敵ね」 「ええ」 「……まさか、“古都”と“琴”をかけた洒落だったりなんか、しないわよねえ……」 そう小さく呟いたお嬢様の言葉は、聞かなかったことにするのが得策だと私は判断した。 * 「…………暑いわ…………」 じりじりと太陽が照りつけるような快晴でもなく、さりとて完全に日光が雲に遮られているとも言えない、微妙な曇天。 車から降りたお嬢様が最初に発した言葉は、それだった。 お嬢様が浮かべた表情も、その言葉に見合ったように、不快極まりないといったもの。 「確かに、少々湿度が高いようですね。空の状態も不安定なようですし……これから雨になる可能性もありそうですね」 「こんな中途半端な天気が続くよりは、いっそ派手に土砂降りにでもなってくれた方がよっほどマシだわ」 「屋外で雨に降られるのは、勘弁願いたいところですが」 「あら、水に濡れたら涼しくなっていいじゃない」 「涼しくなるどころか、下手をすれば風邪を引きかねないと思うのですが……」 「それでいいのよ。いいえ、むしろそうでなくちゃ」 「……はい?」 お嬢様の言葉に、思わず疑問を返してしまう私。返してしまってから気付いた。この展開は、激しく嫌な予感がする。 「だってここは山の中よ? 山の中で雨に降られ、慌てて山小屋に駆け込む男女二人といえば、お決まりのシチュエーションじゃないの」 「ニヤリ」――今、お嬢様が見せた笑みを説明するならば、そんな表現が最も相応しい。 「雨を凌げる場所に駆け込んだはいいけれど、どちらも服はずぶ濡れ。濡れた服は脱いで乾かすしかないわけ。しかも雨に濡れた所為で身体は冷え切っていて、そのままではお互い風邪を引いてしまう。そんな状態でやらなければならないことといえば」 「ストップ! ストップでございますお嬢様! それ以上続けたら、ただでさえ危険領域にある“英雄の末裔”としてのお嬢様のキャラが修復不能なレベルに崩壊します! それからその含み笑いもお止めくださいませ!」 嫌な予感的中。魔法を行使するほどの魔力は持っていないのに、お嬢様に関してこういう予感はとても良く当たるんだなあ私。執事としては、かなり有用な能力なのではないか。いずれ詳しく調べ、この能力をもっと活用できるように―― 「……ではなくて! そもそもここは山中とはいっても開けた場所です。たとえ雨に降られたとしても、駆け込めるような山小屋など建ってはおりません」 「でも、あそこに建っているじゃない、それらしいものが」 「――あ」 びしりとお嬢様の指差す方向を見れば、山小屋ほどに小さくはないが、小振りな建物が確かに一つ。 「と言いますか、あの建物が本日の目的地の一つでございます、お嬢様」 「あら、じゃああの中で服を脱いで暖めあうのね。何だかんだ言って、結局リックだってそういうこと考えていたんじゃない。このエロ執事」 「ち・が・い・ま・す!」 ほんの一瞬だけ、その光景が脳裏に浮かんだ――が、慌てて打ち消す。 「今、一瞬だけ想像したでしょ?」 「……うっ」 何故そういう所だけ異常に鋭いんですかお嬢様。 「ごほん! そ、それはともかく……こちらが、本日の目的地でございます」 「あ、話題を逸らした」 「…………この湖『九頭竜湖』は、同じ名を持つ河川の流域を利用して作られた人造湖でございまして――おや。あちらをご覧くださいませ、お嬢様」 「ふぅん、まだ逸らし続けるのね。往生際が悪いわ……って、あ」 なおも私への攻勢を続けようとしていたらしきお嬢様だが、私の指し示した方向を見ては、感嘆の息を漏らさずにはおれなかったらしい。 その先にあるのは、遥か眼下に広がる湖。 対岸が確認できないほどに広がるその湖面いっぱいに湛えられた水。水面には、周囲の鮮やかな風景がくっきりと映し出されている。 ![]() 「すごい眺めね……ずっと眺めていると、そのまま吸い込まれてしまいそう」 「お嬢様が空を飛べることは承知しておりますが、あまり手すりの方には近寄らないでくださいませ。万が一、ということもありますので」 「あら、大丈夫よ。ちゃんとリックも連れて行ってあげるから」 「――――ッ!」 瞬間、かつてお嬢様と共に空で舞い――危うく墜落しかけた記憶がフラッシュバックする。 「それだけはご勘弁くださいませ。正直に申し上げまして、あの時のような恐怖は二度と味わいたくはありません」 「リックってば、本当に心配性なんだから。安心しなさい」 微笑むお嬢様。だが、眼差しだけは真剣そのものだった。「決して失敗など犯さない」という強い意志をも感じる、紅い瞳。 「今度は狙い通りにキャッチできるよう、計算して落とすから」 「意図的に落とさないでくださいお嬢様っ!」 「厭だわリックったら本気にしちゃって。冗談よ、冗談」 「お嬢様が仰ると冗談に聞こえません……」 それに、先ほどのお嬢様の目は明らかに本気でした。 溜息を吐く私を、心底「面白い」と感じているかのような表情で眺めるお嬢様。どうやら私は、先刻からずっと遊ばれていたらしいということに、ようやく気付く。半端な曇天に加え、皮膚に纏わりつくような湿気を含んだ不快な天候に遭遇してしまったお嬢様の、ささやかなストレス解消、といったところだったのだろう。願わくば、そのようなストレス解消法を他の方に対しては実行しないでいただきたいものだ(※ホープは除く)。 そのお嬢様の瞳が、何かを発見したように見開かれる。 「見てリック。空が」 「晴れたようですね」 見上げた私達二人の頭上にあるのは、先ほどまでの重苦しい鉛色ではなく、抜けるような青色。 「でも残念だわ」 「何がですか、お嬢様?」 「だって、晴れてしまったらさっきのプランが実行できなくなっちゃうじゃない」 「……もう、その話からは離れませんか、お嬢様」 「うふふふふふ」 どうやらお嬢様は、単に私がからかえればそれで良かったようだ。 私は再び溜息を吐いた。 ![]() 大粒の水滴がひっきりなしに車の窓に打ちつけ、ガラスにぶつかった雨粒が発する鈍い音も絶えることなく響いている。 その様子を、お嬢様はぼんやりと眺めている。 「降り始めたのが車に乗り込んでからで幸運でした。本当に間一髪でございましたね、お嬢様」 私達が湖付近の散策を終え、車に乗り込んだとほぼ同時、叩き付けるような大雨が降り始めたのだった。そのタイミングはまさに絶妙だったといっていい。あとほんの数秒、車に乗るのが遅れていたら、今頃お嬢様はびしょ濡れになっていたのだから。 「ええ、そうね」 しかし、私の呼びかけにもどこか上の空、といった状態で答えるお嬢様。 「……お嬢様、どうかなさいましたか?」 「いいえ、なんでもないわ。ちょっと考え事をしていただけ。ねえリック」 「何でしょうか、お嬢様」 「さっきの湖の話なんだけど……」 「はい」 私をからかっていた時のような愉快さは表情から消え、そこに見えるのはただ熱を帯びた眼差し。自然、私の返答にも力が篭る。 「やっぱり左頬に傷のある人斬りがいたりするのかしら」 「それ以上言葉にすると色々と危険ですお嬢様」 主に周囲の者がお嬢様に向ける視線の変化が。 「むう。じゃあ人間なのにいつまで経っても外見が年を取らない長髪の」 「お嬢様! お嬢様ストーップ! ポーズ! 上上下下左右左右BA!」 「最後のは意味が分からないわよリック。私に自爆しろとでも言うの?」 きっちりお分かりのご様子ですね、お嬢様。 * 「美味しそうな匂いね……」 うっとりした表情でお嬢様は呟き、目を閉じる。 お嬢様の目の前に置かれた器から立ち上る、肉の旨味と加熱された油、そして濃厚なソースの入り混じった、誰しもが食欲をそそらずにおれない香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。 赤く塗られた器の中に盛られているのは、この地の名物と言われている「ソースカツ丼」。 「どうせならその土地の名物が食べたいわ」と仰ったお嬢様の為に用意した一品である。 ![]() 「お嬢様、香りを楽しまれるのは結構ですが、そろそろお召し上がりになりませんと、せっかくの作り立てが冷めてしまいます」 「ああ、そうだったわね。匂いにばかり気を取られて肝心の美味しさが損なわれたら本末転倒だわ」 お嬢様はようやく決心したのか、食器を手に取った。ちなみに、お嬢様が手に持っているのは、手に馴染んだナイフとフォークではなく、「箸」という、この地方独自の食器である。 ニヴェン式の食事作法にあまり慣れていないお嬢様の為にと、最初はナイフとフォークを用意していたのだが、お嬢様は「ニヴェンの料理ならニヴェン式の作法で味わわなきゃ」と、あくまで箸で食事することを主張したからだ。 「よいしょ、っと。ああもう、使うのは初めてじゃないけどやっぱり難しいわね」 苦心しながらも、お嬢様は肉を切り分けていく。 「いいえ、お嬢様の箸使いはなかなかお上手ではないかと」 「本当?」 「本当です」 私の感想が本心からのものであると信じてもらえたらしい。肉と格闘して顰め面になっていたお嬢様の表情が、ふっと緩んだ。 「そうね、結構鍛えられたものね」 お嬢様の表情と言葉に、私はとある人物のことを思い出した。 「リック、私ね」 お嬢様の穏やかな声音に、私は確信する。 「こうしてニヴェンの文化に触れていると、思い出すの。ミセス・ロックナットのことを」 ――ああ、やはり。 ミセス・ロックナットは出身こそアーク・メリアだが、単身ニヴェンに渡航し、ニヴェンで成功した人物だ。なれば、ニヴェンの文化に触れて彼女を思い出すのも決しておかしな話ではないだろう。お嬢様も、私も。 「お嬢様、もしかして、箸でお食事をなさろうとしたのも……」 「そうすれば、何だかミセス・ロックナットを身近に感じられるんじゃないかって気がしたから、かしらね。あとは、彼女を育てた国に対する敬意、というのもあるわね」 「そうでございましたか。では、心をこめてお召し上がりになるのが宜しいのかもしれませんね」 「そうね。……あ、リック」 ちょいちょい、とお嬢様が手招きする。 「何でしょうか、お嬢さ……むぐ」 呼ばれて近付いた私の口の中に、突如何かの塊が放り込まれた。咄嗟のことで何も対処できなかった私の口の中で、放り込まれた肉の旨味が、じんわりと広がっていく。美味しい――と思った。 「お嬢様、突然何を……」 「言葉の割にはしっかり食べきっていたわね。美味しかった?」 「はい、とても。……もとい、そうではなくて。あの状況で飲み込む以外の方法があったとお思いですか、お嬢様?」 「食べ物を粗末にしない執事を持てて鼻が高いわ」 私の抗議(まあ、ほとんど意味をなさない弱いものではあったが)も意に介さず、お嬢様はくすくすと笑い―― 「ミセス・ロックナットの思い出だもの、リックにも味わう権利があると思ったのよ」 そう告げたのだった。 「ところでお嬢様、お味の方はいかがでしたか?」 「うーん、そうねえ……。強いて挙げれば……濃かったわね」 「……それだけですか?」 「それだけ、という訳じゃないけど……。何だか、ニヴェンの料理というよりは、アーク・メリアのジャンク・フードの味に近い気がしたのよね」 「確かに、そのような感じでしたね」 「案外、私達の国とこの国の文化は似たようなものなのかもしれないわね」 * この地に来てから、ずっと抱いている違和感があった。今まで当然であることに何の疑問も抱かなかったものが、当然でなくなったかのような落ち着きのなさ。むろん、ここが異国であり、成り立ちからして根本的にアーク・メリアとは違っている以上、我々の国の常識を基準に考えることは無意味ではあるのだが――私の抱いている違和感は、そういうものとは明らかに別種のものであった。その違和感の正体とは――言葉、である。 「何言ってるの。貴方みたいな馬鹿丁寧さを基準にしたら、ほとんどの人種の言葉遣いに違和感を覚えるんじゃないかと思うわよ? そんな言葉遣いをするのなんて、せいぜいが貴方と同じ執事くらいじゃないの」 「いえ、私が申し上げたいのはそのような意味ではなくてですね……」 相変わらず、相手の急所を抉り取るようなお嬢様の言葉だったが、私はあえて無視して続ける。というか、気にしたらかなり痛いし。 「言葉の響き、というか、同じ単語でもイントネーションが少々変わっているように感じられるのです」 「あ、そう言われてみればそんな気がしてきたわ」 お嬢様も納得したらしい。 「ですが不思議な事に、どこか懐かしさを感じてもいるのです。馴染みのないはずなのに、何故だかとても聞き覚えのあるような」 そして、思い出すのが。 「キャロル、なのですが」 お嬢様は「あ」という顔になり、数瞬考え込み――ややあって、大きく納得した、という風に頷いた。 「それだわリック。どうしてそう感じるのか自分でもさっぱり分からないのだけど」 「私も、何故連想したのが彼女なのか、理由が分からないのです。ただ私が思うに、この地の言葉から感じる精神性が、キャロルの持つものと似ているからなのではないか、と」 「貴方の言わんとしたいことはよく分かったわ。確かに、ここでボケたらものすごい勢いでツッコミとか入りそうだものね」 脳裏に「あたしは芸人じゃなーいっ!」と怒り心頭のキャロルの顔が浮かんだが、気にしないことにした。 * 「………………リック、一つ質問があるのだけど、いいかしら?」 「はい、何でしょうかお嬢様」 目の前に並べられた料理を前に、お嬢様は複雑な顔をして私に問いかけてきた。 「この料理は、この地の名物なのかしら?」 「いいえ、違います。というより、そもそもこの国の料理ですらありません」 街の大通りから少々奥に入り込んだ、細い裏通りに面した建物内に小ぢんまりと構えられたこの店は、この国から数千kmは離れた国の郷土料理を扱っているのだそうだ。 ![]() 私の返答に、むう、と唸り、額を手に当てるお嬢様。 「……リック。私は『行った場所で名物を口にしなければ、そこに旅行したことにはならない』なんて強固な拘りを持っているわけじゃないわよ。それにしてもこの選定はどうかと思うのよ。大体、どうしてこの店を選んだわけ?」 「それが実は、私自身にもよく分からないのです。ですが何故か、『この地を訪れた際にはこの店の料理を食べるように』という電波が、強烈に私の脳内に入り込んできまして……」 瞬間。 ぴしり、と電撃が走ったような衝撃が、お嬢様の背後を走ったかのように見えた。お嬢様の動きが止まる。 やがて、ゆっくりとお嬢様が口を開いた。 「リック。私も今、何故か突然『この地に来たからには絶対にこの店で食べなければならない』という気がしてきたわ」 「理解していただけましたか、お嬢様」 お嬢様の瞳から感じるのは、使命感。 「ええ。もしかしたら私達は、この店で食事を取る為にこの街にやって来たのかもしれないとまで思えてきたわね」 「流石にそこまでは……」 ……いや。そう言われると私も段々そんな気がしてきたぞ。しかし、何故かその理由を深く追求するという気分になれなかった。 「では、いただくわ」 そうしてお嬢様は、ようやく盛られた料理に手をつけ始めたのだった。 一品目。 「羊肉の唐揚げでございます」 ![]() 子羊の肉を細長く切り、多目の油でじっくりと揚げた一品は、肉が柔らかく、独特の風味がある。 「柔らかくて食べやすいわ。お酒のつまみにするのもいいかもしれないわね」 二品目。 「豆苗の炒め物でございます」 「トウミョウ?」 「豆苗とは、エンドウマメの若芽のことでございます。摘まれた新芽に、軽く火を通して作られております」 ![]() 目にも鮮やかな緑はともすれば苦味を感じさせそうな濃い色ではあるが、口にしてみればそのようなことはなく、むしろほのかに甘みすら感じさせる料理である。 「これは、食べ始めると止められなくなる味ね」 三品目。 「チンゲンサイとイカの卵とじでございます」 ![]() ざく切りにされたイカとチンゲンサイに卵を絡めたこの料理は、イカの弾力性とチンゲンサイのしゃっきりとした歯応え、とろりとした卵の三者の食感のバランスが素晴らしい。 四~五品目。 「生春巻きとナシゴレン(インドネシアの炒飯)でございます。生春巻きは、二種類のソースをつけてお召し上がりください」 ![]() 柔らかな春巻きにくるまれているのは、青々として確かな歯応えのある新鮮な生野菜。辛味を担当するチリソース、甘味を受け持つマンゴーソースは、単品でも両方同時でも絶品である。 からりと仕上がったナシゴレンは、絡められた香辛料が肉の旨味を引き出している。 六品目。本日最後のメニューである。 「ミークワ(マレーシア風麺)、でございます」 ![]() 「……見た目からして、何だか辛そうなんだけど……」 「いえ、実際はそれほど辛くはありません」 むしろ、唐辛子以外の素材の味が強く表れ、非常にコクのある、まったりとした味わいになっている。 コースの締めの一品に相応しい、後味の良い麺である。 「お口に合いましたでしょうか、お嬢様?」 「ええ、とっても美味しかったわ。異国の地でまた違う国の料理を食べる、というのも案外楽しい経験ね」 満足気なお嬢様の表情に、私の頬もつい緩みがちになる。 「ちなみに、初心者の方には、伝えた金額に応じてメニューをおまかせで作ってくれるコースがお勧めでございます」 「誰に向かって話しているの、リック?」 「あ、いえ、つい何となく」 * その地には広大な庭園があった。 夏という季節を象徴するかのような強い日差しも、青々と茂った庭園の木々の下にまでは入り込むことはできず、枝葉の落とした影は、気持ちの良い空間を作り出していた。 あちこちから聞こえてくる水のせせらぎの音も、聴覚から涼しさを感じさせてくれる。 「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備えている」を意味するその広大な庭園の名は、「兼六園」という。 「日差しは強いけれど、ここにいると涼しいわね」 街中の喧騒は庭園に一歩足を踏み入れた途端に消え、代わりに出現したのは木々と石で構成された、森閑な世界。 ![]() 「まあ、人の多さは街中と変わらないけれど。むしろ場所によっては、ここの方が人の密度は高いんじゃないかしら」 「この庭園は名高い観光名所ですから。そればかりは致し方ないかと」 お嬢様の仰る通り、周囲には大勢の人。人。さらに人。 しかしそれでも、庭園の空気は街中とは違ったものに感じられる。 「お嬢様、この庭園の面積はとても広いようです。まずはどちらに向かいましょうか?」 「そうね……。それじゃあ、あちらから回ってみましょうか」 お嬢様の指す方向に進路を定め、私達は庭園の散策を開始した。 のだが。 ――二つ目。 しばらく散策をしていて、気になることがあった。 「お嬢様、あちらは徽軫灯籠(ことじとうろう)でございます」 ![]() 水面に架かる石橋を琴に見立てた景観は、この園の中でも有名である。 「ここから見ると、灯籠と橋がいい位置に収まっているのね」 「冬になると、また違った趣になるという話です」 ――三つ目。 お嬢様に説明しながらも、一旦気になりだしたことは、どうしても頭の隅から離れてはくれない。 ![]() 「この園内の噴水は、この国に現存する最古のものだと言われております」 「涼しげで気持ちいいわね。でも、どうやって水を噴き上げているのかしら」 「仕組としてはごく単純なもののようですね」 「ふうん。単純な機構のものほど長期間機能が保たれる、というのも考えてみればなかなか奥深い話よね」 ――四つ目。やはり、多い。 「……さっきからどうしたの、リック?」 私の様子を不審に思ったのか、お嬢様がふいに尋ねてきた。 「申し訳ございません、お嬢様。少々気になることがございまして」 「あら、何?」 「先ほどから、土産物の店が妙に目に付く気がしてならないのですが……」 やはり有名な観光地であるから、観光客を相手にした商売も、それに応じて多い、ということなのだろうが。 「しかもご丁寧にも、それぞれ微妙に品揃えが違うようです」 「随分とよく見ているわね。そういう所がリックらしいけれど」 ……それは、褒め言葉と受け取って宜しいのでしょうか。 「しばらく歩き続けたからそろそろ休憩したいわね。幸い、リックの言った通り、腰を落ち着けて休憩できる場所もそこかしこにあるようだし」 「では、休憩にいたしましょうか」 「そうね。それじゃあ――あそこはどうかしら」 そう言って、お嬢様が示したのは、「時雨亭」という名の小さな屋敷であった。 ![]() 点在する休憩所の中でも、この店の構えは特に、他の店にはない雰囲気を持っていた。何でも、過去に園内に建っていた屋敷を再建し、休憩所に利用することにした、という話なのだそうで、ならば他の店との雰囲気が違うというのも頷ける。 入口で注文を済ませ、私はお嬢様と共に屋敷に入った。 ![]() ほどなくして運ばれてきた茶菓子と抹茶を口にし、私は一息ついた。 ちなみに、何故私まで一緒になって休憩しているかというと、「注文しなければ屋敷に入れない」という雰囲気が屋敷から強固に発せられていたからである。ならばと私は最初は入店を控えようとしたのだが、お嬢様が「滅多にない機会なんだから貴方も入るべきよ。そうして慣れない作法に戸惑うリックの姿が見られたら見物だしうふふふふ」と言い出した為に、半ば強引に注文をさせられたのだった。後半はできれば聞かなかったことにしたい。 屋敷は完全なニヴェン式建築。直線のみで構成された内装に、屋敷内全体の空気がぴんと張り詰めた感覚さえ覚える。けれど時間の流れは、むしろ外界よりもゆったりと。屋敷の内部だけが世界から切り離されたかのような、静謐な世界がそこにはあった。 ![]() 「ねえ、リック」 屋敷の裏庭に面した縁側に座っているお嬢様が、ふいに口を開いた。 「何でしょうか、お嬢様」 「ここは、良い所ね」 本心からそう思っているというのが分かる、お嬢様の言葉。 お嬢様がこの地を楽しんでいるというならば、お嬢様に使える執事である私にとってもまた、無上の幸福だ。 ゆえに私は答える。 「そうですね、お嬢様。ええ、本当に」 「できればここにはまた来たいものね。そうね……次は、違う季節に」 私の答えはまた同じ。 「はい、お嬢様。また、いずれ」 * ![]() この地で取る最後の食事はやはり、この地での名物にするのがベストな選択だろう。 「まさに“最後の晩餐”というやつね」 「お嬢様、それではまるで、人生最後の食事のような意味合いになってしまいます」 「あら、似たようなものじゃない。帰ったらまたいつもの公務に忙殺される日々に逆戻りだと思うと、気分はまるで処刑台に向かう死刑囚だわ」 「お嬢様……」 「あーあ。楽しい時というのは、本当に過ぎるのが早いものね」 溜息。 確かに、お嬢様の現在の気分は、常にお嬢様をお傍に控えている私には嫌というほど理解できる。“英雄の末裔”として常に民衆の希望であり続けなければならない生活が、どんなに息苦しいものか。そして、そんな息苦しさから解き放たれ、自由に過ごすことのできたこの数日間が、どれだけ開放感に満ち溢れていたものか。 「ですが、お嬢様。楽しい時に終わりは付き物ですが、苦しい時とてそれは同じこと。永遠に続くわけではございません。ならば、また今日のように楽しく過ごせる日が来るのも、決して遠い未来のことではないかと」 「……そうね。そうよね。ありがとう、リック」 私の言葉に、お嬢様の表情は和らいだ。 「じゃあ、またすぐに来れるように、スケジュール調整を頼むわね。あ、そうだわ。今度は他の皆も連れてきましょう。大勢で過ごせば、きっともっと楽しくなるわ」 「お嬢様……」 「そういうことだから、よろしくね、リック」 「承知いたしました、お嬢様」 「そうだわリック。私、一度行ってみたい場所があったのよ。今度はそちらにも行けないかしら。何でも、そこを“聖地”と呼ぶ人もいるらしいと聞くし」 「お嬢様が行きたいと仰るのでしたら私はそのように調整いたしますが……それは何処のことでしょうか、お嬢様?」 「ええと、確か、『秋葉原』と言ったかしら」 「お嬢様、そこはお嬢様にとってはむしろ魔都です! というかリアルに真の神に遭遇しかねません! そこに行かれるのだけは考え直してくださいませ!」 「むう。じゃあ、池ぶ……」 「そちらもできればご遠慮いただきたいと!」 「そこはリックの同業者がたくさんいるって聞いたのに……」 「……面白がっておられますね、お嬢様」 「当たり前じゃない。リックは反応が素直だから面白いわ。私の中で二番目に」 「……予想はできますが、ちなみに一番目はどなたなのでしょうか?」 「ホープ」 「やっぱり……」 * 「神」と呼ぶに相応しい彼が世界に生を受けたその日は、ゴルトロックでの暦に換算すると――篭手月(7月)の30日。 「神」となるまでに彼を育てたその地の名は、「金沢」という―― ゴルトロックという“世界”を真に創り上げた彼の名を―― 東出祐一郎、という。
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