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[江戸遙か 番外]蕎麦屋の二階

「そろそろお客さんが切れてきたわね。少し早いけど、今日は閉めようか」
「そうね。湯屋が混み始める前に行ってしまえると楽なんだけど」
 楽しげな二人の会話を聞きながら、悟られないように溜息をつく。
 今日は、来てくれなかったな…。
 暖簾を下げようと表に出たところへ、焦がれていた待ち人の姿が・・・。

 

[江戸遙か・番外]蕎麦屋の二階

 

「あれ、今日はもうおしまい?」
「いいえっ」
 下げかけた暖簾を元に戻して袖を引くと、困ったように笑いながら頭を掻く。
「無理しちゃダメだよ。俺は大丈夫だからさ」
 何が無理なものか。毎日毎日、貴方だけを待ち続けているというのに。
「あら、景さん。よかった、まだ鍋も片づけてないし、食べるものは沢山あるわよ。譲、暖簾は落としちゃうからね、何か作ってあげて」
「まあ。仕方のない兄でご免なさいね、譲くん。洗い物は済ませておいたから、あとは宜しく頼めるかしら」
「任せてください。湯屋が混みだす前に、ですよね」
「聞いていたの?恥ずかしいわ」
 朔さんは柔らかく笑いながら、先に行ってしまった姉さんの後を追って小走りに店を出ていく。
 やれやれと息を付くと、そこには所在なさげに立ちつくす景時さんの姿。
「あ、すみません、お茶も出さずに」
「いいんだよ〜。……俺こそゴメンね、変な時間に」
「そんなことありませんって。俺…貴方が来るのを待っていたんですから」
 小さく呟いた言葉は、通りの喧騒にかき消されて貴方に届かない。
「え?」
「なんでもありませんっ、座っていてください!!」
 1人で赤くなって奥に下がる。
 景時さんの食事を用意しながら、店の片づけをするために重い鍋を持ち上げようとした時、背中越しに体温を感じた。
「このくらいは手伝わせてよ」
 心臓が跳ね上がって、手に力が入らない。
「だ、大丈夫です。俺は男ですから、このくらい平気です。座っていていただけませんか。……せっかく休みに来たんですから、ここでくらい気を遣わずに休んでくれたら嬉しいです」
 鍋を元の位置に戻してから、景時さんに向き直る。
 何を悩んでいるのかは知らない。
 だけど貴方が、言葉にできないほどの荷物を肩に乗せて生きているのは判る。
 何もできないけれど、せめて止まり木のように…いっときでも貴方を休ませることはできないだろうか。いつも、そればかり考えている。
「譲くん…」
 差し伸べた手に、トンと雫が落ちる。
「景時さん?」
「ゴメン……ゴメン、譲くん。君に触れる資格なんかないのに…。許して、今だけ…こうさせて」
 背中に回された手に力一杯抱きしめられて、気が遠くなる。
 貴方は、どうしてそんなに悲しい…。
「今だけなんて寂しいこと言わないでください…」
 できることなら、こうして、いつでも貴方に寄り添っていたい。貴方を苦しめるものから遠ざけて、貴方を守ってあげたい。貴方を包んでいたい。
 そんなワガママを言って困らせるわけにもいかない。そうしたいのなら…そうできるのなら、貴方がそれを選ぶはずだから。回した指先に込めた願いを口にすることはできないけれど。
 せめて、つかの間の気紛れでも。
「景時さん、いいお酒入ってますよ。飲みませんか」

 静かに杯を進める貴方の笑みが、ふと変わる瞬間がある。
 何かを迷いながら飲んでいた手を止めて、吹っ切れたように見上げる笑顔。
 それは……俺を抱くと、決めた顔。
 気を殺がないように、貴方が俺に気付かないように、視線を合わせずに寄り添う。
 二階へ続く急な階段を上る間、逃がさないとでも言いたげに固く手を握りしめる貴方は、さっきまでの優しい仮面を外して、ドス黒い闇を宿した瞳で俺を見つめる。
 それが貴方であるなら、愛しさしか感じない。
 正直を言うと、はじめに組み敷かれた時は恐ろしいと思った。豹変した貴方が貴方に見えなくて、俺を何かと間違えているのかと……それでも、不思議と逃げたい気持ちはなかった。そんな風に情熱の捌け口を求めているのならば、いつでもこの身を捧げたい。
 景時さん、知らないでしょう。俺は初めて逢った時から、貴方を…愛していたんです。
 まさか自分が、こんなに欲深い人間とは思わなかった。
 店の常連客と軽口を叩く貴方を見て、許せないと感じてしまうほど病的に。貴方が俺だけを見つめていてくれればいいと、どれほど願ったか。
 どれほど、呪ったか。
 乱暴に着物の紐を解く貴方に、どれほど手酷く扱われてもかまわない。
 貴方は今、俺だけを見つめて…俺だけを感じているんだから。
「は…っ……」
 強く胸を吸われてヒュッと息を飲む。
 一日中立ち仕事をしていた俺の身体は、汚くはないだろうか。気になるけれど、躊躇する姿を見せることも叶わない。
「あ、ん。……はんっ」
 貴方の舌が首筋を脇腹を背中を…俺の全てを喰らい尽くすように、時に歯を立てながら攻め上げてくる。
「うっ、あー…んはぁ……」
 声にもならない嬌声を上げて悦ぶ俺を、愉しそうに見つめる顔。
 薄暗い、狩人の顔。
「譲くんは、痛いのが好きなのかな。そんなにイイ顔をして」
「あ……景時さ、ん」
 甘い声が耳元を滑って、強く耳朶を囓る。
 全身に走ったものは痛みか快楽か。
 何度も貴方に教えられた場所が、疼いているのがわかった。
 痛くていい。
 貴方に、抱かれたい。
 気取られてはならない。こんなに欲深く求めている俺を。
 貴方が好きなように、どんな無茶な注文にでも応えるから、好きに扱える…言いなりになる人形にでもなるから。
 俺を、捨てないで。
 何も言わずに短い呼吸を繰り返す俺をどう思ったのか、優しげな声が肩越しに降り注いだ。
「そんなわけがないよね。身体が辛くなるのは困るはずだ……ほら、自分でほぐしてみせて。やり方は教えたよね?」
 後ろから腰を抱えて尻の肉を嬲りながら、クツクツと意地悪く笑う声が命じた。
 景時さんの目の前で……そんな。
 恥ずかしくて躊躇すると、舐め上げていた場所をガリッと囓って歯形を残す。
「つあっ」
「ほら、早く」
 痛みに…恐怖に屈服しているように見えているのだろう。
 その役を与えられたのなら、演じきってみせよう。
「やります、から…、痛くしないで」
 しおらしい言葉を口に乗せながら、指を沈めて中をほぐしていく。
 早く、早く貴方が欲しい。
 本当はただ『ご褒美』をもらうために、望んでしていることなのに。
「あっあっんっ、はっ……あ、景時さん、もう、もう許して」
 早く貴方を沈めて。
 体温が欲しい…独り遊びは、凍り付くほど。
「譲くん、可愛いよ」
 愛してるとは言ってくれない。ただの一度も。
 いつも貴方の言うとおりに役をこなせた時だけ、可愛いと健気だと良い子だとからかうように告げるばかりで。
 それでも。
「はぁ………いいよ、譲くん。よくほぐれて…君の中は熱くて気持ちがいいね」
 沈み込む時は、それ以上ないほど幸せな溜息をつくから。
「景時さん、んはぁ、あ、あ、景時さんっ」
 腕の中でしなりながら揺さぶられて、堪えきれずに何度も達してしまう自身を手拭いで覆いながら、貴方のそれを身体に受けて、中も外も汚されていく。背中にかかったそれを拭われるだけで、引きつりそうなほどの快感が駆け抜ける。
 いつまで続くか判らない攻め地獄に感覚が壊れて、俺の全身が…指の先まで悦楽の鍵となる。
「景時さん、もっとぉ…もっとして…」
「ふふ。はしたない子だね。そんなに欲しいなら俺の上に乗ってごらん。そう、素直だね。…壊れた君は可愛いよ」
 壊れてる。確かに、壊れている。
 何度達しても気が遠くなっても足りない、貴方が欲しい。
 俺は事の初めから、壊れている。
 ユサユサと揺さぶられながら、冷たく笑う貴方に感じている。
 もっと酷くされたい。もっと深く傷を付けられたい。貴方が消えても生きていけるように…消えない傷が欲しい。
「んああ、景時さぁん」
 下からドンと突き上げられて、目の前に星が飛ぶ。
 冷ややかな自分が『女のようだ』と笑っているけれど、どうでもいい。貴方が望むなら、どうとでも変われる。
「あー…んっ、ふっあ、ああっ、景時さん、景時さん…っ」
 もう何度目になるだろう。
 大きくしなった景時さんの身体にしがみついて、布団に倒れ込む。
 胸の中に包まれながら、二人同時に意識を手放していく。

 景時さん……消えないで…。

 力の入らない腕で貴方の頭を抱きしめて、その儚い佇まいに震えている。
 何もいらない。
 貴方の気持ちが此処にないなら、それすらもいらない。
 ただ貴方が傍にいてくれれば。
 貴方の熱を手放すことがないなら、もうそれだけでいいから…。

[江戸遙か] ≪目次≫

これは別の時空のオハナシ。
過去の江戸と似たような別の時空の江戸。もっと過去のキャラと似たような別の時空のキャラ。だから何が起きても責任は取りませんのであしからず(笑)


江戸遙か (全11話) 景時×譲


[江戸遙か 01] 臆病な侍

[江戸遙か 02] 君は日溜まり

[江戸遙か 03] 闇を駆る者

[江戸遙か 04] 蕎麦屋の暖簾

[江戸遙か 05] 火を放て

[江戸遙か 06] 君だけは

[江戸遙か 07] 町一番の

[江戸遙か 08] 舞姫

[江戸遙か 09] 影を失う日

[江戸遙か 10] 狂乱の道化師

[江戸遙か 11] ただ傍にいて




景×譲です。要素的に弁×九も入ってきます。
望美ちゃんは譲くんの姉(将臣は出てきません)朔は普通に景時の妹だけど、景時のお母さんは別設定(幼くして死に別れたということで)

景時さんは何の因果か「裏家業」を生業とする浪人。
譲くんは蕎麦屋を切り盛りする看板娘(違)いやいや、看板娘はお嬢さん方がいますから、譲くんは景時さんだけの看板娘ってことにしておきます(娘じゃない)

とにかく不幸な景時さんが、幸せになるまでを描く!という試みなので、アレコレと振りっぱなし投げっぱなしなネタが天こ盛りですが(笑)見なかったことにしてください。話が盛り上がったら番外編を書くかもしれません。




てなことで、番外編(笑)

[江戸遙か 番外] 蕎麦屋の二階

本編は(何かの間違えで)全て景時視点にしてしまったので(後悔してます‥‥)番外は譲視点で書いてみました。健気すぎて景時に殺意を覚える塩梅になっております。ご容赦ください。

 
 
 
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[江戸遙か 11] ただ傍にいて

 向き合った相手を、刀の錆としていく。
 背後の譲くんを庇いながらの戦いは、動きづらくはあるが……研ぎ澄まされる。
 場の空気を全て手中に収め無駄な動きを無くしていけば、どれほどの手練れであろうと…連携も統率もない烏合の衆に負ける気はしない。
 あと一人。
 睨んだ時点で腰が引けた侍を斬りつけたのは、その者の背後に在る冷徹な刀だった。
「もうよい。…腰抜けが」
 ブンッと刀を振り血を落とした舞台主は、いっそ『鬼神』と呼ぶに相応しいほどの威圧感を以て正面に立つ。
「どうする、景時。やりおうてみるか」
 その声色に凍りつく。
 引き返せない。逃げる手だてもない。……どうすればいい。譲くんを助けるには、二人で生き延びるには。

 

[江戸遙か]ただ傍にいて

 

 静まりかえった部屋の中、キン…と、耳鳴りがした。

 その時、遠くから何かの気配が。
 何かを留め立てするような声。キンキンと金切り声を上げる女房の数が、なにやら身分ある者の往来を告げる。
「……………?」
 視線を解いて振り向いた頼朝様の視界に…そして俺の目に、美しい女性の姿が飛び込んでくる。
「………あら。これは何の騒ぎですの?」
「北の方様、どうか奥へお戻り下さいませっ」
「血生臭いのですわね」
「政子……何用だ」
 この方に政子と呼ばれる女性を、一人だけ知っている。
 本来なれば、視界に入れただけでも問題になろうという立場の…。
「あなた。ご確認したいことがあって参りましたの。九郎という名前を、お聞きになったことがありまして?」
 不躾な質問に、頼朝様が眉を顰める。
「下町で騒がれている男か」
「そのようですわ。妙な話を耳に挟んで、調べさせておりましたの。……貴方が殺そうとしていたとか、その者が私にとっては縁にあたる者だとか」
「………なに?」
「どうですの!? お心当たりがございますの? 私…あなたを信じて、いつもずっと待っておりましたのに…。あなたはそれが私の縁にあたると知って、御無体をなさっていたのですか」
 どこから聞いても支離滅裂な問い。
 九郎の身を案じているわけではあるまい。ポッと出た親類の名など、この女性にとってはたいした価値もないと見てとれる。……要は、待ちくたびれているのに、そんなことをして遊んでいたのかと……そういう意味合いなのではないか。
 一見しただけで『他愛のないワガママ』と知れるそれに、しかし、おいおいと泣き崩れる身体を支えて、どこか慌てる後姿。
 言葉少なに宥めながら消えていく…鬼神であった者の…姿を確認して、そっと屋敷を後にした。
 追われることもなく。

「上手く逃げられましたか? 逃げられましたよね。しばらくあの屋敷は、内部の業火を鎮めるのに、てんてこまいでしょうから」
 狐に抓まれたような気分で蕎麦屋の暖簾をくぐると、いつの間に釈放されたのか、望美ちゃんと朔の姿。そして九郎と……弁慶と。
「か~げ~さぁん?」
 恨まし気な声に、身を震わせる。
「な、何かな、望美ちゃん」
「なにかなじゃないわよーっ、譲を置いて一体どこへ消えてたの!!私や朔がどれほど心配したと思ってるのよっ。譲が壊れるかと思ったじゃないの、この唐変木!!」
 後ろでそうだそうだと頷く妹君にさえ、自分の身を案じられていなかったかと思うと……少々情けない気分にもなるけれど。
「ご……ゴメンねぇ…」
 つい、謝ってしまう自分は、変えようもない。
「その辺にしてください。心配をかけてすまなかったとは思いますが、景時さんが悪いわけじゃ」
「いや、絶対コイツが悪い!!!!」
 異口同音。
 満場一致。
「反省してるよ~。さ、譲くん」
 逃げよう?
 目と目で交わした合図と同時に、外へと駆けだす。

「どこへ行くんですか」
「どこでもいいよ~。静かな所……君を、独り占めできる場所なら、…どこでも」
「それなら二階に逃げ込めばよかったのに。階段、上から外せますよ?」
「そ~れは知らなかったな~。じゃ、明日からは外しちゃおうね」
「朝になったら解放してくださいねっ」
「ん~~。ど~しよっかな~」
 アハハ…と笑いながら、長屋の陰で唇を奪う。
 空き家を見つけて鍵を下ろして、着物を……上から下まで順序もなく剥いでしまう。
 晒された空気と羞恥心に身震いした譲くんを、何も着けずに抱えて、そのまま抱いて…。薄い壁の向こうで子供をどやす声なんか聞きながら、声を殺して混じり合って。
 見つめて……溶け合って。
 人形のように受け止めていた譲くんは、もうそこには居なかった。
 もどかしげに肌を求める腕が、愛しくて愛しくてたまらない。言葉ではなく、その身の全てで愛を語る仕草に脳髄を溶かされて、息をすることすら忘れそうになる。

 何もかもを失ってしまった。
 生きてきた道も、仕事も、収入も、鎖も、後悔も……君以外の全てを手放して、情けないほど一人。糸のない凧のような自分。
 だから君の手の中に在りたい。
 離さないで……風に攫われぬように、いつでも抱いていて。

 生きたいと願う。
 強烈なまでに、生きたいと願う。

 君と……ふたりなら。

 突き上げる熱に身を反らした、この腕の中の奇跡を、もう二度と泣かせることのないように…もう二度と傷つけることのないように。
 命をかけて守るから。
 大切な人を大切にする為に、……必ず。

「景時さん……」
 夢のように柔らかく呼ばれたそれが、自分の名だと気付いて……驚く。
「なぁに、譲くん」
 夢のように甘く囁いたそれが、自分の声だと気付いて……狼狽える。
「よかった。あなたと、逢えて」
 柔らかく柔らかく笑ったまま、眠りに落ちた君を。

 恋人と、呼ぶよ。
 
 
 
 
 
 
 
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[江戸遙か 10] 狂乱の道化師

 洗いざらいぶちまけてしまうと、なぜか自分の抱えているものは、たいした重みを持たないような気持ちになるから不思議だ。
 今までは本気で逃げようとしなかった。
 いつか死ぬ日のために命を使っていたからなのだろう。
 君を守りたいと…君と生きたいと本気で望めば、恐いものなど何もないような気持ちになる。

 だから、驚いた。

 食事を取りはじめて、3日も経たないうちに回復した君の若さにも驚いたけれど、君が、俺を置いて、頼朝様の元へ向かったのだと気付いた時は。
 驚きすぎて………寝込むかと、思った。

 

[江戸遙か]狂乱の道化師

 

「若さと書いて、無謀と読めばよいのですか」
 呆れ顔の弁慶は、俺が置いていった九郎の隠れ家で……耳かきなんぞされている。平和すぎて意味が解らない。
「姉君を助けに向かったのだろう、それほど無謀なことなのか?」
 あまりの台詞に驚いて声も出ない。
 望美ちゃんといい、朔といい、譲くんといい、九郎といい。相手の規模が解らないのかと呆れるべきか、恐い物知らずの若さと褒め称るべきか。
 理解する余力がない時は無視をするに限る。…この点において弁慶とは気が合うらしく、ひとまず胸を撫で下ろした。
「しかし不味いですね。朔さんたちは保障できますが、譲くんには放免される謂われがありません。捕らえられたが最期という気もしますが」
「そんな怖いこと言わないでよ~」
「まあ、単身で向かわずに僕のところに寄ってくれたのは、英断だと思いますよ。………助けましょう」
「頼むよ」

 長く付き合いがあるとはいえ、依頼主の身辺については詳しくない。
 今すぐにでも飛んでいきたい気持ちはあろうとも、失敗するわけにはいかないのだから、小細工をする必要はあった。
「屋敷の間取りは解ります。身辺については………おおよそ、五十」
「ごっ、五十ぅ~?」
 九郎のあげる素っ頓狂な声に生真面目に頷きながら、弁慶の目が険しくなる。
「どんなに豪勢な屋敷でも、警護は二十もあれば足りるだろう。五十人もどこに入るというんだ」
「そうですね……目に見える場所であれば、交代を含めても三十に満たないかと思います。あとは…」
「在るといえば在る。無いといえば無い。動きの見えない連中が、ね~」
「隠者か………」
 闇を取り締まるような役目にあっても、九郎も所詮は昼の人。言葉は知っていようとも、その存在を実感することなど無いのだろう。…だからこそ、隠者と呼ばれるのだが。
「別に屋根裏に隠れてるばかりじゃないんだよ。普段は普通に町で暮らしている、俺みたいのもいるしね」
「お前も隠者か!?」
 そんなに目を丸くしなくても。
「ちょっと違うけど、まぁ、似たようなもんだよ。……そろそろ、自分が置かれてる立場が解ってきたんでしょ?」
 どこまで話したのかと弁慶を盗み見ると、憂いのない顔でニッコリ微笑んだ。
「九郎のことはいいんですよ。今は譲くんを救出することだけ考えましょう」
「その役目、加わることは許されないか」
 くると思った。
 つい顔を見合わせてしまった俺たちは、どちらからともなく笑いだし、弁慶は肩を揺すったまま九郎の膝を叩いた。
「もちろんですよ。使えるものは全て使うのが、僕の流儀ですからね。……かなり危険な配役になりますが、お願いできますか」
「当然だ」

 使えるものは全て………確かにそう言っていた。

 しかし、これは…。
 もしや町一つをそのまま使う気なのか?

 呆れるほどに弁慶の思惑通りに動いていく人の群れを…空恐ろしく思いながら、屋敷へと潜入した。
 死んだはずの九郎が生きていた。
 あの火事以来すっかり混乱の中にあった人々が、鰯の群のように蠢いている。
「ま、ちょうど、例の『お灸』の準備が調ったところですから。ふふふ……期待していてくださいね」
 内容について詳しく聞いている時間はなかったが、援護されていることは解る。…騒ぎの真相を確認に向かったのだろう、屋敷内は閑散とした空気さえ流れていた。
 物陰から背後を取り、まずは一人。
 隣の茂みに音を立て注意を逸らし、また一人。
 この人数ならば、焦らずに順を追ってさえいけば自分一人で潜入することなぞわけもない。
 どうか無事でいて。
 祈るような想いで奥へと進むと、いつか深層部へと辿り着いた。

 そこで初めて、いらない歓迎を受けていることに気付く。

 柱に括り付けられた譲くんが、陰から様子を伺っている俺に気付いて険しい目をする。
 罠です。逃げて。
 祈るように閉じられた瞳。
 逃げ場のない袋小路を思わせる、屋敷の造り。
「どうした、景時。襖を開けて中に入ればよかろう?」
 譲くんの反応を見ている。相手の声は、向こうの壁を叩いて戻ってくる。
 ということは…こちらに背を向けて。
 ひょっとすると、すぐ近くに控えているのかもしれない。

 ここで襖を開ければ、四方から斬りつけられるか、八方から矢が飛ぶか。
 裏切り者の始末などに時間をかけるのは、それだけ頼朝様が楽しんでいるからと解ってしまう。気付かれずに辿り着いたと思っていたのは自分だけで『全てが手の内だったのだ』と笑われて……それでもこの戸を開けるのは、とんだ茶番としか言いようがない。

 死ぬことが、今、初めて怖い。
 譲くんの目に、自分の死に様を晒すことが、なにより怖い。

 それでも飛び込まずにいられようか。
 戻る場所など何処にもない。罠と知りつつ狂い舞う、道化にもなろう。
 指をかけた瞬間、この襖に罠があることを知る。
 パンッ!
 小気味の良い音を立てて襖を開け放ち、思いきり後ろへ飛ぶ。
 天井から雨のように振った矢に、譲くんの悲鳴。
 廊下を助走に、畳へと突き刺さった矢を飛び越える。
「譲くんっ!!」
 一瞬で縄を焼いて振り返ると、血に飢えた顔の浪人が三人、ニヤニヤと笑っている。
 その奥に、舞台主の姿。
 人を殺したいと思ったことは、一度もなかった。
 全てが命令。
 全てが他人の意志。
 なればこそ己を許せていた節もあるけれど。

 人が人を切ることに、たいした理由はないのだと知る。
 死にたくない。
 君の前で、死ぬわけにはいかない。

 狂乱の紅を纏う……道化師となろう。
 
 
 
 
 
 
 
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[江戸遙か 09] 影を失う日

 薄暗い部屋。
 糸の切れた仕掛け人形のように、その人は座っていた。

 そうしていれば何かが動くと信じているわけでもなく、誰かが向かえに来ると期待するわけでもなく、世界の色を忘れてしまったかのように……生きる為に必要な最低限の動きを無意識にこなして、ただ空気を見つめていた。

 

[江戸遙か]影を失う日

 

「譲くん……少しは食べないと、死んでしまいます」
 差し出された薄い粥を受け取り、素直に食べ始め……すぐに、身体が拒否して吐き戻す。涙も流さずに、全て吐き戻す。
 部屋に入る前に「現実を知るまで黙って見ていろ」と釘を刺された意味を知った。
 ぐったりと壁に寄りかかる、やつれきった顔。
 焦点の合わない瞳がスウッと宙を彷徨って、顔の8割を布で隠した俺に、止まった。

 瞳の色が、戻っていく。

 みるみるうちに溢れ出した涙が、まばたきもしない瞳からボロボロと溢れては落ちていく。
 何を言うでもなく。手を伸ばすでもなく。
 ボウッと寄りかかったまま、この瞳を凝視したまま、息を止めたまま。
「ようやく時が動きはじめたようですね。…僕は帰りますよ。出る時は気をつけてください」
 振り返った弁慶の瞳も濡れていたような気がした。……判らない。濡れているのは自分の瞳だけかもしれない。
「……譲くん」
 微かに名を呼ぶと、飛び上がらんばかりに身を震わせる。
 そして一瞬後、跳ねるように立ち上がって。この狭い部屋を、もどかしげに駆け寄り、縋りつく。
 何度も名前を呼ばれたような気がした。
 声にならない悲鳴に胸を引き裂かれて……胸に空気が入らず、のたうち回りそうになる。
 譲くん、譲くん、譲くん…っ。
 どうして君はそんなに、そんなに健気に俺を待つの。
 こんなにどうしようもない男を。
 君に好かれる理由なんて知らない。全く解らない。どうして君は…っ。

 苦しくて。すっかり痩せてしまった君が悲しくて。
 わけもわからずに抱いた。
 それ以外に君を癒す手段を思いつかずに……無理をしたら本当に死んでしまいそうな君を。
 殺しても、抱きたかった。
 どうあっても傍に在れないというのならば、それで君が生きられないと言うのならば、抱き殺してしまいたいとすら思った。
 交わったまま、俺も逝きたい。
 それで君以外の誰かが、どう傷つこうが……笑おうが、なじろうが、君だけを抱えて死にたいと思った。


 どうして生き延びたのか、経緯は知らないが。
 けっして俺の腕を離すまいと、強い意志で絡みついている身体を感じながら、意識を取り戻した。
 今は、昼か。
 それとも、夜か。
 薄い屋根を叩く雨の音を聞きながら、譲くんを抱き直して布団を引き寄せる。
 微かな動きにも過敏なまでに反応して泣きながら縋りついた君を、壊れるほどに強く抱える。
「俺はここにいるよ、譲くん」
 信じられないというように口を開いた譲くんは、乾ききった喉をケホケホと鳴らした。
 弁慶が置いていった湯飲みから白湯を含み、口移しで流し込む。
 吐かないで…、お願い。
 地獄のような光景を思い出して身震いする俺を、…信じられないことに、気遣うように抱き返したのは、無意識なんだろう。
 その愛情の深さに眩暈を覚える。
 一途に差し伸べられる優しい腕が、今はとても儚げに見える。

 自分一人が消えたとて、悲しむ人など無いと信じていた。
 悲しんでもらえるほどの価値などないと。
 どこで野垂れ死んでも、朔が生きるのに必要な稼ぎだけを残せれば、自分の命になど責任を持たずにいられるのだと…勘違いしていた。
『死ぬより辛いことなんざ、腐るほどある』
 誰かが言ってたっけ。
 辛い。自分の命を失うことよりも、君を壊してしまうことの方が、ずっとずっとずっと辛い。涙も流さずに、ただ生きて…俺を待っていた君が。
 死ぬより辛い。
「俺は……貴方にとって、都合の良い人間でありたかったんです」
 唐突に切り出された言葉……初めて譲くんの声を聞いたような気さえする。
 頷いて先を促すと、覚悟を決めたように語り始めた。
「貴方が俺を求めるなら、この身を開きたかった。貴方が話したくないような事情は、聞かずにいたかった。貴方の負担にならず、貴方にとって都合の良い人間であれば……貴方は俺から離れていかないと思った」
 新たな涙が、頬を濡らす。
「狡いでしょう?…俺はただ自分の望みを叶える為だけに貴方の傍にいたんです。貴方の為なんかじゃない。身勝手な望みと悟っても、離れたくなかった。捨てられたくなかった」
「譲くん」
 止まらない告白が、君を切り裂いているのが判って、胸の中に包み込む。
「わかっています、こんなワガママを言えば貴方に嫌われてしまうことなんか。だから知らない振りでいたかった。自分の気持ちなんか無いものとして、貴方だけを思いやっていたかった………馬鹿ですよね、俺」
 何から否定していいのか解らなかった。
 譲くんは何も悪くない。勝手なのは俺の方で、譲くんが自分を責めることなんか何もないのに。俺は勝手に譲くんが好きで。君を嫌いになんかなれるはずもなくて……好きになりすぎて、絡めた指の先から君に溶けてしまいそうで。
 どうしていいのか解らない。何から伝えていいのか判らない。壊れるほどに心が愛を叫んでいる。
 もう二度と離れられないと叫んでいる。
「貴方が居なくなった日、自分の影が無くなっていることに気付いたんです。貴方という光を無くして、俺は自分の影さえも探せなくなった。苦しくて苦しくて。何をしても自分を感じることができなくなって……貴方が帰ってくるまで生きていなければと思うのに、心が…身体が、生きることを拒絶する。貴方がいなければ嫌だと……もう、嫌だと…」
「わかった……わかったから、もう泣かないで。全てを話すから。もう二度と黙って君の傍から消えないと、誓うから」
 勝てるはずもない。
 君の愛は、空のようだ。
 大きく包んで、陽差しで焦がして、温めて……突然の嵐で翻弄する。
 泣いても笑っても怒っても、まっすぐな光のような君。
「全て話すから最後まで聞いて。……ううん、最初に聞いて」
「なんですか?」
 真っ直ぐに射抜く光。…そんなに見つめられたら言えないよ。
 目蓋に唇をあてて君をとじこめると、不安げに指を伸ばす。その一つ一つに、誓うように口づけてから、耳元で囁いた。

「愛してる。……君だけを、死ぬまで愛してる」
 
 
 
 
 
 
 
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