「そろそろお客さんが切れてきたわね。少し早いけど、今日は閉めようか」
「そうね。湯屋が混み始める前に行ってしまえると楽なんだけど」
楽しげな二人の会話を聞きながら、悟られないように溜息をつく。
今日は、来てくれなかったな…。
暖簾を下げようと表に出たところへ、焦がれていた待ち人の姿が・・・。
[江戸遙か・番外]蕎麦屋の二階
「あれ、今日はもうおしまい?」
「いいえっ」
下げかけた暖簾を元に戻して袖を引くと、困ったように笑いながら頭を掻く。
「無理しちゃダメだよ。俺は大丈夫だからさ」
何が無理なものか。毎日毎日、貴方だけを待ち続けているというのに。
「あら、景さん。よかった、まだ鍋も片づけてないし、食べるものは沢山あるわよ。譲、暖簾は落としちゃうからね、何か作ってあげて」
「まあ。仕方のない兄でご免なさいね、譲くん。洗い物は済ませておいたから、あとは宜しく頼めるかしら」
「任せてください。湯屋が混みだす前に、ですよね」
「聞いていたの?恥ずかしいわ」
朔さんは柔らかく笑いながら、先に行ってしまった姉さんの後を追って小走りに店を出ていく。
やれやれと息を付くと、そこには所在なさげに立ちつくす景時さんの姿。
「あ、すみません、お茶も出さずに」
「いいんだよ〜。……俺こそゴメンね、変な時間に」
「そんなことありませんって。俺…貴方が来るのを待っていたんですから」
小さく呟いた言葉は、通りの喧騒にかき消されて貴方に届かない。
「え?」
「なんでもありませんっ、座っていてください!!」
1人で赤くなって奥に下がる。
景時さんの食事を用意しながら、店の片づけをするために重い鍋を持ち上げようとした時、背中越しに体温を感じた。
「このくらいは手伝わせてよ」
心臓が跳ね上がって、手に力が入らない。
「だ、大丈夫です。俺は男ですから、このくらい平気です。座っていていただけませんか。……せっかく休みに来たんですから、ここでくらい気を遣わずに休んでくれたら嬉しいです」
鍋を元の位置に戻してから、景時さんに向き直る。
何を悩んでいるのかは知らない。
だけど貴方が、言葉にできないほどの荷物を肩に乗せて生きているのは判る。
何もできないけれど、せめて止まり木のように…いっときでも貴方を休ませることはできないだろうか。いつも、そればかり考えている。
「譲くん…」
差し伸べた手に、トンと雫が落ちる。
「景時さん?」
「ゴメン……ゴメン、譲くん。君に触れる資格なんかないのに…。許して、今だけ…こうさせて」
背中に回された手に力一杯抱きしめられて、気が遠くなる。
貴方は、どうしてそんなに悲しい…。
「今だけなんて寂しいこと言わないでください…」
できることなら、こうして、いつでも貴方に寄り添っていたい。貴方を苦しめるものから遠ざけて、貴方を守ってあげたい。貴方を包んでいたい。
そんなワガママを言って困らせるわけにもいかない。そうしたいのなら…そうできるのなら、貴方がそれを選ぶはずだから。回した指先に込めた願いを口にすることはできないけれど。
せめて、つかの間の気紛れでも。
「景時さん、いいお酒入ってますよ。飲みませんか」
静かに杯を進める貴方の笑みが、ふと変わる瞬間がある。
何かを迷いながら飲んでいた手を止めて、吹っ切れたように見上げる笑顔。
それは……俺を抱くと、決めた顔。
気を殺がないように、貴方が俺に気付かないように、視線を合わせずに寄り添う。
二階へ続く急な階段を上る間、逃がさないとでも言いたげに固く手を握りしめる貴方は、さっきまでの優しい仮面を外して、ドス黒い闇を宿した瞳で俺を見つめる。
それが貴方であるなら、愛しさしか感じない。
正直を言うと、はじめに組み敷かれた時は恐ろしいと思った。豹変した貴方が貴方に見えなくて、俺を何かと間違えているのかと……それでも、不思議と逃げたい気持ちはなかった。そんな風に情熱の捌け口を求めているのならば、いつでもこの身を捧げたい。
景時さん、知らないでしょう。俺は初めて逢った時から、貴方を…愛していたんです。
まさか自分が、こんなに欲深い人間とは思わなかった。
店の常連客と軽口を叩く貴方を見て、許せないと感じてしまうほど病的に。貴方が俺だけを見つめていてくれればいいと、どれほど願ったか。
どれほど、呪ったか。
乱暴に着物の紐を解く貴方に、どれほど手酷く扱われてもかまわない。
貴方は今、俺だけを見つめて…俺だけを感じているんだから。
「は…っ……」
強く胸を吸われてヒュッと息を飲む。
一日中立ち仕事をしていた俺の身体は、汚くはないだろうか。気になるけれど、躊躇する姿を見せることも叶わない。
「あ、ん。……はんっ」
貴方の舌が首筋を脇腹を背中を…俺の全てを喰らい尽くすように、時に歯を立てながら攻め上げてくる。
「うっ、あー…んはぁ……」
声にもならない嬌声を上げて悦ぶ俺を、愉しそうに見つめる顔。
薄暗い、狩人の顔。
「譲くんは、痛いのが好きなのかな。そんなにイイ顔をして」
「あ……景時さ、ん」
甘い声が耳元を滑って、強く耳朶を囓る。
全身に走ったものは痛みか快楽か。
何度も貴方に教えられた場所が、疼いているのがわかった。
痛くていい。
貴方に、抱かれたい。
気取られてはならない。こんなに欲深く求めている俺を。
貴方が好きなように、どんな無茶な注文にでも応えるから、好きに扱える…言いなりになる人形にでもなるから。
俺を、捨てないで。
何も言わずに短い呼吸を繰り返す俺をどう思ったのか、優しげな声が肩越しに降り注いだ。
「そんなわけがないよね。身体が辛くなるのは困るはずだ……ほら、自分でほぐしてみせて。やり方は教えたよね?」
後ろから腰を抱えて尻の肉を嬲りながら、クツクツと意地悪く笑う声が命じた。
景時さんの目の前で……そんな。
恥ずかしくて躊躇すると、舐め上げていた場所をガリッと囓って歯形を残す。
「つあっ」
「ほら、早く」
痛みに…恐怖に屈服しているように見えているのだろう。
その役を与えられたのなら、演じきってみせよう。
「やります、から…、痛くしないで」
しおらしい言葉を口に乗せながら、指を沈めて中をほぐしていく。
早く、早く貴方が欲しい。
本当はただ『ご褒美』をもらうために、望んでしていることなのに。
「あっあっんっ、はっ……あ、景時さん、もう、もう許して」
早く貴方を沈めて。
体温が欲しい…独り遊びは、凍り付くほど。
「譲くん、可愛いよ」
愛してるとは言ってくれない。ただの一度も。
いつも貴方の言うとおりに役をこなせた時だけ、可愛いと健気だと良い子だとからかうように告げるばかりで。
それでも。
「はぁ………いいよ、譲くん。よくほぐれて…君の中は熱くて気持ちがいいね」
沈み込む時は、それ以上ないほど幸せな溜息をつくから。
「景時さん、んはぁ、あ、あ、景時さんっ」
腕の中でしなりながら揺さぶられて、堪えきれずに何度も達してしまう自身を手拭いで覆いながら、貴方のそれを身体に受けて、中も外も汚されていく。背中にかかったそれを拭われるだけで、引きつりそうなほどの快感が駆け抜ける。
いつまで続くか判らない攻め地獄に感覚が壊れて、俺の全身が…指の先まで悦楽の鍵となる。
「景時さん、もっとぉ…もっとして…」
「ふふ。はしたない子だね。そんなに欲しいなら俺の上に乗ってごらん。そう、素直だね。…壊れた君は可愛いよ」
壊れてる。確かに、壊れている。
何度達しても気が遠くなっても足りない、貴方が欲しい。
俺は事の初めから、壊れている。
ユサユサと揺さぶられながら、冷たく笑う貴方に感じている。
もっと酷くされたい。もっと深く傷を付けられたい。貴方が消えても生きていけるように…消えない傷が欲しい。
「んああ、景時さぁん」
下からドンと突き上げられて、目の前に星が飛ぶ。
冷ややかな自分が『女のようだ』と笑っているけれど、どうでもいい。貴方が望むなら、どうとでも変われる。
「あー…んっ、ふっあ、ああっ、景時さん、景時さん…っ」
もう何度目になるだろう。
大きくしなった景時さんの身体にしがみついて、布団に倒れ込む。
胸の中に包まれながら、二人同時に意識を手放していく。
景時さん……消えないで…。
力の入らない腕で貴方の頭を抱きしめて、その儚い佇まいに震えている。
何もいらない。
貴方の気持ちが此処にないなら、それすらもいらない。
ただ貴方が傍にいてくれれば。
貴方の熱を手放すことがないなら、もうそれだけでいいから…。