薄暗い部屋。
糸の切れた仕掛け人形のように、その人は座っていた。
そうしていれば何かが動くと信じているわけでもなく、誰かが向かえに来ると期待するわけでもなく、世界の色を忘れてしまったかのように……生きる為に必要な最低限の動きを無意識にこなして、ただ空気を見つめていた。
[江戸遙か]影を失う日
「譲くん……少しは食べないと、死んでしまいます」
差し出された薄い粥を受け取り、素直に食べ始め……すぐに、身体が拒否して吐き戻す。涙も流さずに、全て吐き戻す。
部屋に入る前に「現実を知るまで黙って見ていろ」と釘を刺された意味を知った。
ぐったりと壁に寄りかかる、やつれきった顔。
焦点の合わない瞳がスウッと宙を彷徨って、顔の8割を布で隠した俺に、止まった。
瞳の色が、戻っていく。
みるみるうちに溢れ出した涙が、まばたきもしない瞳からボロボロと溢れては落ちていく。
何を言うでもなく。手を伸ばすでもなく。
ボウッと寄りかかったまま、この瞳を凝視したまま、息を止めたまま。
「ようやく時が動きはじめたようですね。…僕は帰りますよ。出る時は気をつけてください」
振り返った弁慶の瞳も濡れていたような気がした。……判らない。濡れているのは自分の瞳だけかもしれない。
「……譲くん」
微かに名を呼ぶと、飛び上がらんばかりに身を震わせる。
そして一瞬後、跳ねるように立ち上がって。この狭い部屋を、もどかしげに駆け寄り、縋りつく。
何度も名前を呼ばれたような気がした。
声にならない悲鳴に胸を引き裂かれて……胸に空気が入らず、のたうち回りそうになる。
譲くん、譲くん、譲くん…っ。
どうして君はそんなに、そんなに健気に俺を待つの。
こんなにどうしようもない男を。
君に好かれる理由なんて知らない。全く解らない。どうして君は…っ。
苦しくて。すっかり痩せてしまった君が悲しくて。
わけもわからずに抱いた。
それ以外に君を癒す手段を思いつかずに……無理をしたら本当に死んでしまいそうな君を。
殺しても、抱きたかった。
どうあっても傍に在れないというのならば、それで君が生きられないと言うのならば、抱き殺してしまいたいとすら思った。
交わったまま、俺も逝きたい。
それで君以外の誰かが、どう傷つこうが……笑おうが、なじろうが、君だけを抱えて死にたいと思った。
どうして生き延びたのか、経緯は知らないが。
けっして俺の腕を離すまいと、強い意志で絡みついている身体を感じながら、意識を取り戻した。
今は、昼か。
それとも、夜か。
薄い屋根を叩く雨の音を聞きながら、譲くんを抱き直して布団を引き寄せる。
微かな動きにも過敏なまでに反応して泣きながら縋りついた君を、壊れるほどに強く抱える。
「俺はここにいるよ、譲くん」
信じられないというように口を開いた譲くんは、乾ききった喉をケホケホと鳴らした。
弁慶が置いていった湯飲みから白湯を含み、口移しで流し込む。
吐かないで…、お願い。
地獄のような光景を思い出して身震いする俺を、…信じられないことに、気遣うように抱き返したのは、無意識なんだろう。
その愛情の深さに眩暈を覚える。
一途に差し伸べられる優しい腕が、今はとても儚げに見える。
自分一人が消えたとて、悲しむ人など無いと信じていた。
悲しんでもらえるほどの価値などないと。
どこで野垂れ死んでも、朔が生きるのに必要な稼ぎだけを残せれば、自分の命になど責任を持たずにいられるのだと…勘違いしていた。
『死ぬより辛いことなんざ、腐るほどある』
誰かが言ってたっけ。
辛い。自分の命を失うことよりも、君を壊してしまうことの方が、ずっとずっとずっと辛い。涙も流さずに、ただ生きて…俺を待っていた君が。
死ぬより辛い。
「俺は……貴方にとって、都合の良い人間でありたかったんです」
唐突に切り出された言葉……初めて譲くんの声を聞いたような気さえする。
頷いて先を促すと、覚悟を決めたように語り始めた。
「貴方が俺を求めるなら、この身を開きたかった。貴方が話したくないような事情は、聞かずにいたかった。貴方の負担にならず、貴方にとって都合の良い人間であれば……貴方は俺から離れていかないと思った」
新たな涙が、頬を濡らす。
「狡いでしょう?…俺はただ自分の望みを叶える為だけに貴方の傍にいたんです。貴方の為なんかじゃない。身勝手な望みと悟っても、離れたくなかった。捨てられたくなかった」
「譲くん」
止まらない告白が、君を切り裂いているのが判って、胸の中に包み込む。
「わかっています、こんなワガママを言えば貴方に嫌われてしまうことなんか。だから知らない振りでいたかった。自分の気持ちなんか無いものとして、貴方だけを思いやっていたかった………馬鹿ですよね、俺」
何から否定していいのか解らなかった。
譲くんは何も悪くない。勝手なのは俺の方で、譲くんが自分を責めることなんか何もないのに。俺は勝手に譲くんが好きで。君を嫌いになんかなれるはずもなくて……好きになりすぎて、絡めた指の先から君に溶けてしまいそうで。
どうしていいのか解らない。何から伝えていいのか判らない。壊れるほどに心が愛を叫んでいる。
もう二度と離れられないと叫んでいる。
「貴方が居なくなった日、自分の影が無くなっていることに気付いたんです。貴方という光を無くして、俺は自分の影さえも探せなくなった。苦しくて苦しくて。何をしても自分を感じることができなくなって……貴方が帰ってくるまで生きていなければと思うのに、心が…身体が、生きることを拒絶する。貴方がいなければ嫌だと……もう、嫌だと…」
「わかった……わかったから、もう泣かないで。全てを話すから。もう二度と黙って君の傍から消えないと、誓うから」
勝てるはずもない。
君の愛は、空のようだ。
大きく包んで、陽差しで焦がして、温めて……突然の嵐で翻弄する。
泣いても笑っても怒っても、まっすぐな光のような君。
「全て話すから最後まで聞いて。……ううん、最初に聞いて」
「なんですか?」
真っ直ぐに射抜く光。…そんなに見つめられたら言えないよ。
目蓋に唇をあてて君をとじこめると、不安げに指を伸ばす。その一つ一つに、誓うように口づけてから、耳元で囁いた。