「確か、この辺じゃなかったかな~♪」
フラフラと歩いていると、まるでオヤクソクと言いたげに打ち水を浴びた。
[江戸遙か]君は日溜まり
鼻歌なぞ口ずさみながら賑やかに歩いていた所へ…ちょっと酷いんじゃないの~?と声をかけようと顔を上げるのより一歩早く、悲鳴のような声があがる。
「うわっ、すみません!!!!」
自分のような身分の低い『侍風情』には、町人の態度も悪い。
こんな目に遭うことも稀ではないが、謝るどころか怒鳴り散らされることすらある。
「すみません、俺、ボーッとしちゃって。あの、お急ぎでなければあがってください。すぐに乾かしますからっ」
…………驚いたな。
有無を言わせず連れ込まれた先は、目的地である蕎麦屋。
しかも景気が良いとはお世辞にもいえない中、驚くほどの客入りだ。
昼時はとっくに過ぎて、打ち水をするほどの時間というのに。
「すごいね~。そんなに美味しいの?」
店に入ったとたん元気の良い娘に掴まり、奥へと引っ込んだ後ろ姿を追いながら、近くに座った客に話しかける。
「蕎麦は10人並ってトコだな。まー不味くはないよ。なんせあんな別嬪さんが運んでくれる蕎麦なら、味なんざ何とでもならぁ」
ゲスな笑い声を響かせる男共に囲まれて、その『別嬪さん』の一人に数えられているらしい身内が、奥から飛び出してきた。
「兄さん。まったく……また前も見ずに歩いていたんでしょう」
なるほど、前掛けをしてパタパタと近寄る姿は、なかなかの別嬪さんかもしれない。
「朔ってば、手酷いな~」
「そうですよ、俺が悪いんです。仕事がたて込んでいたものですから、上の空で、つい力が入りすぎてしまって…」
申し訳なさそうに俯く少年の姿を、改めてまじまじと見つめる。
濡れた裾を手拭いで丁寧に叩きながらも、真っ直ぐと伸びた背筋。几帳面に引き結ばれた唇。
「もういいよ。朔の言うとおり、ボーッとしていた俺が悪いんだから。ここまでしてもらって申し訳ないくらいだよ」
実際、この程度のことなら『歩いていれば乾く』と笑ってかわしていたところだ。
……なぜ、掴まった?
「そんなことありませんっ」
膝をついたまま、まっすぐに見上げてきた瞳。
これだ。
金縛りにかかったように、動きを封じられる。
どんな相手にも止まることなく滑り続ける軽口が、この瞳の前では止まってしまう。
今までどんな会話をしていたのかすら、一瞬のうちに忘れて…。
名前は、なんていうの?
ここで働いているの?
簡単な質問すら口に出せず、狼狽える。
こんなことは初めてだ。これが敵なら俺はもう死んでいるかもしれない。
ふわ…。
声を失った俺を許すように、慈悲深い笑顔が花開く。
「朔さんのお兄さんだったんですね。…それじゃここが、貴方のもう一つの家になるかな」
い、え……?
不思議なことを言う唇を見つめていたら、吸い寄せられるような心地になって焦ってしまう。
さっきから……何か、おかしい。
「どういうことかな?」
何でもないことのように喋るのが、こんなにも苦しいなんて。
「ふふ。うちの姉が、しょっちゅう朔さんの所に入り浸っているんですよ。なかなか賑やかだから眠れないんじゃないかと思って。…そんな時は我慢せず、ここに逃げ込んできてくださいね」
楽しそうに冗談めかしている笑顔につられて笑う。
「それは大変だ。娘さん達の華やかさは、とても男がついていけるものではないからね~」
「景時さんもそう思いますか」
笑い声に紛れて普通に呼ばれた名前に焦る。
朔が教えたのだろうと判っていたのに。
「名前、知ってたんだね」
もっと呼んでほしいだなんて……ホント、焦る。
「うわ、すみません。朔さんから伺っていて…俺、年下なのに、つい気易く」
「あ、いーのいーの。肩凝る呼び方されると困っちゃうしさ。そのままで頼むよ~。…君のことは、なんて呼んだらいいかな」
ただ名前を聞くだけのことにドギマギしている自分が滑稽だ。すぐに返ってこない言葉を待つ数瞬。頭に血が上っていくのが判る。
不自然だったか。もう少し話をしてから聞くべきだったか。何かおかしな言い回しをしただろうか。
「…げ時さん、景時さん」
肩にかかる手の重みに過剰反応する身体。
気付けば視界いっぱいに広がる真っ直ぐな瞳に射抜かれて、息をすることすら忘れてしまう。
大変なことに、今気付いた。
俺は、この人が……好き。
呆然とする。
真正面から気遣わしげに見つめてくる、日溜まりのような視線。
柔らかな陽光を想わせる笑顔。
空へ向かい真っ直ぐ伸びる竹のような佇まい。
俺の中にない、昼の陽差しを持つ君。
「突然ボーッとして……大丈夫ですか?俺のことは譲と、呼んでくださいね」
譲くん。
初めて知った名前に、これほど優しい響きを覚えるなんて。
「譲くん……」
「はい。なんですか、景時さん」
譲くん。譲くん。……もっと何度も呼びたい。
オカシイ。
人の血を浴びながら生きる、この身が。
「あ、いや……よろしくね」
オカシイ。
幸せを求めること自体が。
「ええ。よろしくお願いしますね」
オカシイ。
人を好きになるなんて。
その後、何を話したのか覚えていない。逃げ帰るように家に辿り着き、布団の中で震えていた。
求めてはならない光に焦がれる罪に、心を引き裂かれながら。
求めてはいけない人の姿が、目蓋に焼き付いて……いっそこの目を抉りだしてしまおうかと悶えながら。
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