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[江戸遙か 01] 臆病な侍

 闇を駆ける者。
 求めることを諦めて、業に従うばかりの悲しい男がいた。
 闇に溶け存在を消した姿で、罪のない者を殺める…それすら己の意志になく、ただ命じられるまま求められるままに人を金を…全てを奪い、闇に生きる者。
 その瞳に光はなく、ただ生きるのみ。
 そのはずだった。
 出逢いの妙が運命の軸を叩くまでは…。

 

[江戸遙か]臆病な侍

 

「この辺りでの仕事は初めてですか。それでは僕が案内を務められるといいんですけどね」
 人当たりの良い笑顔で憂いなく囁く顔を、驚いて見つめる。
 それはこの辺りで頼りにされている薬師の大先生…貧乏な者からは必要以上に金を取らず、しかし金を持て余す身分の者からも信頼され大金を積まれる腕の持ち主だ。
 まさか裏家業になど関わるはずもない。
 何かの間違えかと思いとぼけて見せると、気を悪くした風もなく邪気のない笑顔で否定された。
「疑う材料がありませんよ。頼朝公からは貴方の素性と今回の仕事内容が届いています。もしも僕が味方でないのなら、それこそゆゆしき事態と思いませんか」
 確かにその通りだ。
 しかし…裏の顔を持つ以上、表の顔というものは誰しも持つものといえ、ここまで陰のない見事な顔を持つ人間を知らなかった。
「いや~、吃驚しちゃったな。朔から噂を聞いてたお偉い先生が、まさか、ね」
「それを言うなら僕の方が驚きましたよ。朔さんには常日頃からお世話になっています。こちらの家業も因果な商売でして、患者の重なる日などは無償で手伝いに来てくれる娘さん達の手が、どれほど有り難いものか…。あの人は、陰のない優しい娘さんですね」
 腹違いではあるが大切な自慢の妹を、手放しで褒められて悪い気のするはずがない。しかも一つの土地で長く続けていられるということは、それだけ腕がたつということだ。
 久々に戻った故郷での仕事は、せめて相棒に恵まれたと確信して、胸を撫で下ろす。
 本当は、帰ってきたくなどなかったのだ。
 闇に身を落とした自分を知らず優しく迎えてくれた故郷で、また自分は罪を重ねねばならない。
 罪の息苦しさに身悶えながらも、腹が鳴る。
 人間とはどこまで身勝手な生き物なのだろうと呆れて笑いながら、朔が働いている蕎麦屋へと足を運んだ。

 どんなに苦しくとも、死を選ぶことすらできない。
 自分を庇って死んだ母の最後の言葉が、己を戒めていた。

『景時、生きなさい。死ぬほど辛いことなんざ、腐るほどある。……生きなさい。血反吐を撒いても生きなさい。命ある限りは、母の後を追うことを許しません』
 
 
 
 
 
 
 
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