依頼の内容により、自分でも厄介だと思うほど神経が尖る時がある。
そんな時に朔のいる家に戻るのは、殊の外気苦しい。
どうしてだか神経の研ぎ澄まされた妹君は、どれほど周到に隠そうとも、沈む心に気付いてしまう。気付いた上で、笑いの中に押し隠そうとすることを責めもせず、そっと隣に在ろうとする。
………優しすぎる。
この優しさは、心疚しい者にとっては拷問のようだと……言えない。まさかそんなことは言えない。
[江戸遙か]蕎麦屋の暖簾
一晩かけた仕事を終え、誰もいない昼間に家へと帰り、休む。外は賑やかな時間だったが、疲れ切った身体は何の障害もなく眠りに落ちた。ひとまず疲れはとれたが、闇の中で「人」を「物」に変えた感触が消えるまで……せめてもう一晩、一人になれるものなら…。
息苦しい緊張の中、なのになぜ此処へと足を向けてしまったのだろう。
逢イタイ…。
見慣れた暖簾の前で足を止めると、中から強い力で手を引かれた。
「何やってるんですか、景時さん」
息が止まるかと思った。
返事がしたい。…それを願ってしまうほど、言葉がなかった。
「……朔さんの言うとおりですね。これじゃ心配するわけだ」
「朔…?」
「ええ。朔さんは昼時に一度家に帰ったんですけど、気付かなかったでしょう。貴方がとても酷い顔色で…深く眠っていたと、塞いでいました」
「死んでるかと思ったって~?」
おどけて聞いた声に、一瞬、怒ったような…困ったような顔をして、唇を尖らせる。
「ふざけすぎです。本当に心配していたんですよ、俺だって」
心配、していた?
なぜだろう。心がスゥっと軽くなる。
誰からのどんな優しい言葉も鬱陶しくしか思えない、こんな時にですら。君からの優しさは…君からの労りは、心深く沁みてくる。
「少し飲んでいきませんか。嫌なことがあった時は、酒が一番の薬になります」
思えばこの時、優しさに絆されることなく、踵を返して逃げてしまえば良かったのだ。
君の優しさに縋ったばかりに、君を……傷つけてしまうと、知っていたなら。
知っていたなら。
夜明け前の闇の中、正気に戻った自分が声無く叫んでいた。
悪夢が現実になる瞬間を知る。
隣にそっと寄り添う、譲くんの肢体。
涙の痕跡。
大腿を汚す白濁した欲望。
酷いことをしてしまったと一目で解る惨状の中、なぜか…その寝顔だけは、穏やかなものだった。
まるで成すことを成したとでもいうように満たされた、安らかな寝顔。
記憶を辿る。思い出したくもないなどという場合ではない。余計なことを喋っていたなら、彼の身が危ういのだ。
勧められるがまま深酒をした俺に、呆れ顔で手を振る、朔と望美ちゃんの姿。
「二階に上がれますか。布団は用意してありますから」
優しい言葉に浮かれて、戯けながら階段を上がっている時に…足を踏み外しそうになって。……そうだ。譲くんに支えられて。身体がピタリと密着して。
タガが、外れた。
引きずりあげるように強引に腕を引いて、階段を上がった。
そして布団に譲くんを押し付けて……貫いた。
夢のように泣かせて、何度も何度も欲情を叩きつけて。
夢のように…?
違う。夢とは違った。
はじめは痛みに苦しんでいた譲くんが、いつの間にか優しくこの身を掻き抱いて、身体の苦しみすら許しながら……泣いていた。何一つ説明しなかった俺の傷みを抱いて、涙さえ忘れた俺の為に、泣いていた。
恐る恐る…もう一度、その寝顔を見る。
菩薩を想わせる深い笑みのまま、規則正しい寝息を繰り返す、無防備な寝顔。
怖ろしい。
許されてしまったら……俺は、どうしたらいい?
拒まない君を、欲のままに求めてしまいそうな自分。汚れた腕で、許されるがままに…君を求めてしまいそうな自分を、止める術はあるのか。
ギリギリと歯を噛みしめながら、手拭いでその身を清めた。
起きる気配すらない君を、まだ欲しいと思う。
救いようのない、果てのない情欲。
君が許すというのなら、地獄へと堕ちようとも…。
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