君との夜は、これで最後かもしれない。
[江戸遙か]君だけは
店仕舞の頃を見計らって、いつものように暖簾をくぐる。
「あら景さん、また変な時間に来たわねー。もうお酒くらいしかないわよ」
クスクスと笑う望美ちゃんは、前掛けを外しながら戸に向かって、さっと暖簾を下げてしまった。
「変なのが集まらないように暖簾は下げちゃうね、譲。酔っぱらいの相手は任せていいんでしょ?」
サラッと流された意味深な目配せに、曖昧に笑ってみせる。
たすきを解いて、一瞬で淑やかな町娘の顔になった蕎麦屋の看板娘さん。…まったく女の子は解らないものだ。
「もう本当に手のかかる兄でごめんなさいね、譲くん。洗い物は済ませておいたから、あとは宜しくね」
奥で外に出る支度を済ませてきたらしい朔は、待っていた望美ちゃんの手を取って自然に歩き出す。見とれるほど華やかな娘さん達は、一陣の風が抜けるように、軽やかに店を後にした。
「本当にゴメンね、いつも…こんな時間に」
「何を言うんですか。俺、景時さんが来てくれるのを待ってたんですよ」
ほんの少し頬を赤らめて、それでも真っ直ぐに見つめてくる視線が、後ろめたさを煽る。すぐに目を反らして見なかったことにしたい。そう願わずにいられないほど、濁りのない視線。それでも……目を反らすことなど、できはしない。
心を射抜く視線に、優しく微笑む光に、身動きすら取れない。
「譲くん…」
酒を飲む気にもなれない。
すっかり酔って正体を無くしたと思わせて、やっと君へと伸ばせるこの腕…。
今日で、最後かもしれない。
せめて君を、言い訳のできない腕で、抱きたい。
俺が何処へと消えたとしても、君への想いが嘘じゃなかったと…君に知っていてほしい。これは、俺のワガママ。……最後のワガママ。
「景時…さん?」
戸惑う声を奪って、深く深く口づける。
譲くんは甘い溜息をつきながら、俺を抱えるように頭を抱きしめた。
言い訳のできない逢瀬。
否、元より言い訳などできない罪だとしても。
少なからず、君からの愛情を信じている。許して癒してくれるばかりの腕ではないと……この身体に君の心が刻みついている。いつの間にか君の恋が沁みて、優しい熱をくれる。俺の勝手な思いこみではないのだと。
俺は、君を求めてもいいのだと。
「泣いて、いるんですか…」
離したくない。
「…泣いてなんかいないよ?」
君を離したくない。
「そうですか…そうですね。二階へ行きましょう、ここは寒いから」
覗き込む優しい笑顔が、水の向こうで不安げに揺れている。
温かな手に導かれて辿り着いた先。
初めて、こんなに優しく君と交わった。それは俺が求めて歪めて諦めていた、奇跡のような夢だった。
君の甘やかな吐息が部屋を満たしていく。
「景時さん……景時さ…ん」
しどけなく身を投げ出した手中の人を、今だけは…恋人と。
譲くん。
君を、恋人と呼んでもいいかな。
愛しい愛しい、俺だけの君。一生分の幸せを貰ったから、きっと俺はこの先もやっていくことができる。
どうか君は幸せになって。
君を傷つける俺を、許さなくていいから。どうか…どうか君だけは、幸せになって。