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[翡幸]想双歌 〜11〜

 長い秋が続く。
 それが京の異変なのだと言い切るには、まだ少し早い頃。
「う〜〜〜〜」
「おやおや、何を思い悩んでいるのだろうね。我らが京の救世主殿は」
「救世主かぁ。救えなかったらオオゴトですよね‥‥」
 これは疲れていらっしゃるご様子。
「別に構わないさ。いっそ滅びてしまえばいいとは思うがね。そうだ、失う前に一見する価値のある場所へとご案内しようか」
 どうやら本日の訪問先を決めかねていたらしい神子殿は、一も二もなく私の提案に頷いた。なんとも素直な姫君‥‥‥だから、こんな面倒事にも笑って巻き込まれてしまうのだろうか。龍神もいささか人が悪い。
 山へ向かい山を囲むように、人々の祈りが込められた鮮やかな赤が並ぶ神社。

「‥‥‥ここか」

 そこで私を待ち呆けていたのは、あれほど探し求めた伊予からの記憶だった。
 今さら何の感慨もない。
 伊予の海は懐かしく、幼さを残す幸鷹の面影は今も胸を焦がすものだが‥‥。
 そこへ連れ帰ることをこそ強烈に望んでいた私は、なんと浅はかなことかと思う。それは私にとって都合の良い結末ではあるが、幸鷹にとっては?
 その心中を思えば、なんと身勝手な愛なのだろうと溜息が零れる。
「カケラが見つかったんですねっ、よかった。あと1つですね〜♪」
 あと一つ?
「まだ、あるのかい‥‥‥?」
「あれー?言いませんでしたっけ。心のカケラは4つに別れて京のアチコチに飛び散ったみたいなんです。最後の1つも無事に帰ってくると良いんですけどね〜」
 まだ何か忘れていると。
「それは、面倒だねぇ」
 溜息に混じった言葉は、どこか別の場所から響いているような気がした。

「翡翠‥‥?」
 見上げてくる眼差しは熱を孕み、色を乞うことを是非ともしない。知らぬ間に随分と潔い大人になってしまったものだと感心を覚える。
 取り戻した記憶に何を左右されるわけもない。
 だが、この身体を胸に抱けば、思い出すことはある。

『ひす‥‥‥っああ、ん‥‥んあぁっ』
『キツイかい。やはりもう少し慣らしてから』
『いいっ、大丈夫だから‥‥するなら、さっさと奪え!』
 目に涙を溜めて、それでも私に子供扱いされることを嫌った、気の強い恋人。
『っ、あ、あ、あ‥‥っ、入ってくる‥‥お前が、っあ‥‥‥』
『幸鷹‥‥幸鷹‥っ』
 快楽に戸惑い、泣いて縋ることしかできなかった、幼気な幸鷹の記憶。
 それを無惨に奪うことで、私という存在を刻みつけようとした、この身の幼い恋情。
 愛していた。
 出逢いの瞬間から、絶えることなく‥‥今も。
 満足に恋と呼べぬそれは、しかし紛れもなく純粋な恋情だったと、記憶を繰り返すほどに胸が熱くなる。

「翡翠、翡翠‥‥‥っ」

 唇を覆う情熱に引き戻される。
 これほど熱い恋人を前にしては、過去の幻を追い続けることなどできようはずもない。

 膝を跨いで自ら沈みこもうとする身体を宥めながら慣らして、腕の中で踊らせる。
 目にするそれは何物にも代え難い媚薬。
「幸鷹‥‥‥美しいよ‥‥」
「ば、馬鹿を言うなっ、ァ‥‥‥ハァ‥‥ッ」
 黙らせるように胸元に食らいつく。
 全身を朱に染めて身悶える身体も吐息も悲鳴も匂いも、全てが愛おしい。
「ゆきたか‥‥‥」
「‥‥っ、ひす‥‥ぃ」
 私達は出逢って何度、互いを呼び合ったのだろうか。

 想いは日を追う毎に愛しさを帯びて、狂いそうなほど果てしなく‥‥。
 
 
 
 
 
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[翡幸]想双歌 〜10〜

 相変わらず勝手な奴だと思う。
 確かに休みと言えるような休日は取っていない。お前の元を離れた日から、私にはそれなりに目指すところがあり、身体を休めることはしても心休まる日など一日たりとありはしなかったのだ。自然、仕事に逃げるようにもなる。
 そこをついて、まるで鬼の首を取ったかのように「それみたことか」と笑うが、そもそもこれでは休みになどなるわけがない!
 息を継ぐ間もないほど追い上げられて、あの世の縁を見るほど昇天を繰り返して。
 私を抱き殺す気かっ。
 しかしそれを伝えることは白旗を振るような気分でもあり、たまらなく屈辱的だった。
 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて「少しは運動でもしては如何か」とのたまう翡翠を想像するだけで、鳥肌が立つほど腹立たしい。

 なれば受けて立とう。

 自分が如何に愚かな勝負を挑んでいるかは重々承知している。しかしこんなにもクダラナイ意地の張り合いが、どうにも楽しいのだから始末に悪い。それが私と翡翠の温度なのだろうと思えば、どれほどまでに馬鹿げている話も愛おしいと感じることが既に病なのではないかと‥‥‥まったく。
 ムキになる自分は楽しい。
 負けじと子供のような顔をする翡翠が愛しい。
 誘うような瞳に身を投げて、この身の深奥でお前を捕らえよう。

 深く差し貫かれたまま背を抱かれ、唇に触れた指を、舌先で弄ぶ。クチュクチュと淫猥な音を響かせて長い指の谷間を舐め取ると、翡翠が僅かに息を飲む。そのまま腕を取り、その付け根までを追うように舌を這わせた私の耳に、燃えるような溜息が届いた。
 思わず首筋に絡みつく。
 もどかしく繰り返す熱い息が嬉しくて、中にソレを挿れたまま無理矢理に姿勢を変えれば、無茶をした私にも、それを許した翡翠にも、拷問のような快楽が襲いかかった。
 互いを抱きながら、それをやりすごす。
 不意に見せたバツの悪い笑みが、妙に現実的で、腕の中のそれが私の夢や想像などではないことを語る。
 思えばこんなに素直な気持ちで交わるのは、初めてのことかもしれない。

 触れ合える今が愛しい。
 私を抱くために硬く屹立する肉さえも。
「翡翠‥‥‥っ」
 暴かれるばかりで、大人しく『されるがまま』になっていたのは、お前がそれを望んでいると思ったからだ。
 私が求めれば、翡翠は悦んでその身を任せることに、ようやく気付く。

 素直に欲しがる私を笑っているのか。
 与えられる快楽を悦んでいるのか。
 どちらにせよ、人形のように『揺さぶられるまま』というのは性に合わない。
「っあ、‥‥ゆき‥っ」
 突然の抱擁は、抱きしめられたというよりも、しがみつかれたと言えば近いだろうか。
 締め付けて擦り上げて追いあげる。
 獣のように黙々と腰を振る翡翠からは、いつものように皮肉気な笑みは零れず、燃えるように熱い視線が私の肢体を舐め回していた。
 見せつけるように踊る。
 視界から煽るように。瞼に私を刻みつけるように。
「‥‥幸‥、‥‥幸鷹‥っ」
 こんな翡翠は知らない。今まであれほど怖れ戸惑っていた気持ちが凪いでいく。求めていた幸福は、こんなに近くに存在していたことに気付いて、それまで必死で堪えていた涙が音を立てるように零れていった。

 翡翠の記憶が戻ろうと何も終わらない。
 終わらせない。
 私は、もう逃げないから。


 気の済むまで貪り続けた身体はタールのように重くて、私達は身体を巻き付けたまま、昏々と眠り続けた。
 この時はまだ、己の中に心を揺るがす謎が隠れていることを知りもせずに‥‥。
 
 
 
 
 
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[翡幸]想双歌 〜09〜

 差し込む朝日に混じる雨の音。
 瞼の向こうに絡みつく視線を感じて、目覚めることを止めてしまう。
 私の顔に何かついているのかい?
 そうでないなら‥‥まるで、君は私を愛しているかのようだ。
 幸せそうな含み笑いを噛み殺しながら、飽くことなく私を見つめている。優しげで甘やかな吐息を零しながら‥‥。

 息をしているだけで幸せな気分だと言えば、君は笑うだろうか。

 不意に、柔らかな感触が降りた。
 まるで神聖な誓いのように、まんじりとも動かず押しつけられた唇に降参する。
 やられたね。
「おはよう」
「起きましたか。そろそろ出仕の支度を‥‥‥っ?」
 このまま帰れるなどと、本気で思うのだろうか。
 おあつらえむきに朝日は翳り、雨足は増していく‥‥まるで君を足止めするように。
「別当殿も一日くらいは神隠しに遇うといい」
 どうせ足腰も満足に動くまい?
 乱れた足元の着物を割り、膝の裏から股尻までを一気に撫で上げる。
「翡翠、貴様‥‥っ」
 それは胸ぐらを掴んでいるのか、胸元に甘えているのか。はたまた、私の着物を乱して‥‥誘っているのか。そう言えば顔を赤くして怒るのだろう。それが濡れ衣だとしても、図星を突いているのだとしても。
 狡い人だね。
 本気で拒絶するつもりなら、いくらでもやりようはあるだろうに。
 どんな理由が欲しい?
「今日は雨だよ。人の往来も少ない」
「ならば河川の氾濫に気を配らねばなるまい」
 面倒な人種だね‥‥。
「京の危機も治安の悪化も今に始まったことでなし、一日くらいは待っていてくれないものかねぇ」
「そんな悠長なことを言っている場合ではっ」
 悠長か、ならば聞くが。
「‥‥‥‥いつから休んでいない?」
「は?」
「神子殿の世界では、五日や六日働けば一日くらいは休みを取るのが決まり事となっているらしいよ。私に言わせればそれでも働きすぎなくらいだが」
 君のような仕事人間には、強制的な休日も不可欠だろう。
「何を」
「さて。いつ以来だい?」
 予想通りでないことを祈るが、そうもいくまいね。
「物忌みの、時は‥‥‥」
「家で仕事をしていては同じことだよ」
 言葉に詰まって沈黙する肩を押して、上から覆い被さるように口付けで縛り付ける。
「伊予以来‥‥かな?」
 呟いた言葉に唇を尖らせる君を、少し憎らしく思う。

 もういいよ。私のせいにしてしまいなさい。

 確かに伊予にいたはずの君を思い出せない自分に腹も立つが。
「‥‥‥ふ、うぅ‥‥ぅっ」
 戸惑う身体を強引に割り開けば、怖ず怖ずと絡みつく‥‥この腕の中の君を抱けるのは今だけ、この私だけならば。
 すれ違う運命すらも愛おしい。
「幸鷹‥‥愛しているよ」
 記憶を取り戻せば言えなくなりそうな言葉は全て、君に捧げてしまおう。
「‥ひ‥‥す、い‥‥?」
 魂に、誓いを立てるように。

 もう二度と、君と離れる未来を選ばぬように。
 
 
 
 
 
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[翡幸]想双歌 〜08〜

「幸鷹‥‥‥っ」
 余裕のない腕に抱き留められた時、もうダメだと感じた。
 もう、お前を拒めない。
 錯綜する記憶の中、探し求めた面影が手を振る幻影を見て、心が壊れそうになる。
「あ‥‥‥あ、ああああー‥‥っ」
 言葉にならない声を上げる間も、そんな私を持て余すことなく包みこむ腕に守られていた。

 見つめる瞳から伝わる温度。重なる唇から流れ込む想い。
 気付けば私は、やはりあの頃の私ではなく。
 そうだ。
 あのまま始めても、あの時の続きを歩めるわけではなかったのに。
「‥‥‥ひすい‥‥‥」
 頬を撫でて名を呼べば、記憶の中のそれからは想像もできない雫が、溢れた。

 無表情の頬を伝う涙。

 拭うことも隠すことも恥じることもせず、ただ滾々と湧き出る感情の雫を受けながら、吐息のように愛が溢れていく。
 私にとっての貴方がどんなものかは、この際どうでもよいのだ。
 意地や誇りは我が身のものなのだから。
「翡翠」
 目を閉じて、唇を押しつける。
 私は何も知らない。
 ただ与えられる快楽に踊るばかりで夜は更けてゆくものと教えた、貴方との夜以外‥‥何一つの知識もありはしないけれど。
 貴方の全てを受け止める自信ならある。
「私でいいのかい」
「当然だ」
 私も焼きが回ったものだな。こんな男がこの世に二人と居てなるものか。
 船の上を『我が家だ』と言い切った笑顔も、男であるこの身を何より愛しげに抱く腕も、皮肉気な言葉も、意地の悪い眼差しも、二人とない。‥‥‥ここにしか存在しない。
 抱える腕の強さに、想いを込める。
 私の迷いが不安にさせたのなら、もう躊躇うことはしない。

 翡翠の指が触れるのを待つ数瞬に、焦れる。
 いっそ私がお前を抱いてしまえたらいいのにとさえ思う。
 そんなことができるわけでも、そんなことをしたいわけでもないのだが、愛しさを自覚した途端、どうしてこれほどまでに飢えてしまうのか。
 独りで居ることが不自然なほど、その熱が恋しい。どうにかなってしまいそうだ。
「翡翠、あ‥‥っ、ヤ、そこ‥‥っ」
「それでは止めさせたいのか求めているのか解らないよ」
「言わせたいのか」
「そうだね‥‥無粋な願いかもしれないが」
 皮肉気な笑顔に、翡翠の不安が見え隠れする。そんな顔をさせたくなくて、わざと卑猥な言葉を選んで瞳を覗き込む。
「欲しい。翡翠‥‥お前に翻弄されたい」
 思うより挑戦的に響くそれに驚きながら、反応を伺う余裕さえ消し飛ぶほどの視線に射抜かれる。
「後悔させたいね‥‥」
 情欲に掠れた声が流れ込むのと、耳朶に熱い痛みを伴うのは、殆ど同時だった。
 背筋を走る快楽を持て余す間にも首筋へ背中へ脇腹へと蠢きながら移動する唇に、ただ啼くことしかできない。声を出し続けていなければ、気が触れてしまいそうだ。
 堪えることなく嬌声を上げると、それまで苦しくて堪らなかった愛撫が蜜のような甘さを帯びて、脳髄をドロドロに溶かしていった。
「イく‥っ、もう‥‥んあぁっ、早くっ‥‥ぅ」
「一度出してしまいなさい。まだ眠らせてやれそうにない」
「ア、ア、‥‥‥アァアアアッ」
 言うが早いか吸い付いた舌先の刺激に、呆気なく果てる。
 攣りそうなほど爪先に力を込めて、腰の辺りに散る髪に指を絡ませて、口内に放つソレを飲み下す音を聞く。
 一度、二度、三度‥‥ギュッと吸い付く感覚の後、もう一度。
「‥‥すまない」
「何故だい?‥‥美味しくてタマラナイよ、それが君の欲望なら」
「馬鹿を言うな」
 軽口ならば幾らでも出るが、腰には全く力が入らない。
 それを知ってか、腰に回した腕が無理に姿勢を変えて‥‥常ならば殴りつけているほど羞恥を煽る格好にさせられた。
 無理に抱き上げられた腰は有り得ぬほど高く上がり、それを支える足に力が入らぬせいで、押しつけられた肩に重心がかかる。
「ひあ‥‥っ」
 文句を言う間もなく、熱い舌が蕾をこじあけて無理矢理に犯していく。
 恥辱すらも悦楽を煽る要素にしかならず、溢れる唾液が布団を濡らしていくのを感じながらも、声を抑えることすらままならない。
「可愛いよ、幸鷹殿」
 そんな言葉を口惜しいとすら思えない自分は異常だ。
 乱れた私に幻滅しないのなら、もっと激しく暴かれたいと願ってしまうなんて。
 快楽に疼く箇所が悲鳴を上げる。
 早く貫かれたいと、翡翠の熱を待ち続けている。
 はやく、埋めて。
 快楽は切なさばかりを煽る‥‥。
「翡翠、早く‥‥っ」
「‥‥‥‥たまらないね。壊れてしまいそうだ」
 今さら馬鹿なことを言うな。見事に全壊した私を‥‥こんな、隠すべき秘所を全て見せつけて、果てたはずの欲望を滾らせる恋人を前にして。
 壊れてしまえ。
「はやく‥‥おまえに、犯されたい‥‥」
 ゴクリと唾を飲む音が聞こえた。
 殺気の混じる沈黙が、二拍。
「手加減は、できないよ‥‥‥?」
 望むところだ。
「う、ああああああっ‥‥あ、あ、ああああー‥‥っ」
 涙が溢れるのは、酷い刺激のせいだと解る。悲鳴は悦びのせいだと。腹の中を翡翠が突き上げるたび、頭の皮まで淫欲に支配される。
 射精感もないままに先走りが流れて太股を伝う。
 限界まで続いた悲鳴に喉は嗄れ、掠れた声で、それでも啼き続けた。


 意識を飛ばしたまま、泥のように眠った。
 重い体に容赦なく降り注いだ朝日は、無邪気なほど油断しきった顔で眠る翡翠の姿を照らして‥‥‥そんな眺めにさえ幸せを感じて泣き出しそうな自分を、持て余していた。
 
 
 
 
 
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小説TOP07 || 目次 || 09
 
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[翡幸]想双歌 〜07〜

「焦ってます?」
 柔らかな笑い声に驚いて視線を落とせば、頭一つ下から愛らしい上目遣いに射抜かれた。
「まさか。‥‥どうしてそう思うんだい?」
 なけなしの余裕を掻き集めて、常の翡翠を演じる。
 焦っている。確かに焦っているよ。記憶のカケラを取り戻すたび、外れくじを引かされるような気分で‥‥だが、なぜ君が。
 感情が表に出るほど素直な性質でもないつもりだが。
「幸鷹さんが」
 その名だけで止まる時の中。
 無邪気な顔をした運命の女神は、鮮やかに笑う。
「別当殿が?」
「気にしていたから、なにか必要に迫られているのかなぁと思って。気のせいだったらスミマセン」
 肩をすくめて笑う神子殿をクスリと笑いながら、背中に冷たい汗をかく。
 予想済みとはいえ、心はひどく掻き乱れた。
 やはり私とあれの間には、忘れるべきでない柵があったのだろう。それはそうだ。そうでなければ説明もつくまい。
 過去の別当殿を暴いたのは、私‥‥か。
 しかしまさか恋仲であったのなら、なぜ私は伊予に留まり、なぜ別当殿は京へと‥‥。
 意味の解らぬ焦燥感に抱かれながら、また夜を迎える。

「幸鷹殿。話がある」
「私には無い」
「いいから聞きなさい。気に入らなければ帰るといい‥‥今夜を限りにしても構わない」
「‥‥っ」
 そんな死罪を宣告されたような顔を見せなくとも。
 すっかりしおれて青ざめた顔を笑わぬように、視線を逸らす。なぜ君は私の前でだけ、そうも素直なのだろうね。
 それが無くした記憶であるのなら、惜しいとは思うけれど。
「記憶が戻った」
「そんなはずはない」
 即答できるほど、私とソレは違うものなのか。
 驚きながら先を続けた。
「嘘ではないよ。君との記憶以外なら、幾つか」
「そう、か」
 ホッとしたように上がる視線を、穏やかな気持ちで見つめる。こうまで心労をかける己を煩わしくも思えば、心を砕く別当殿を嬉しく思うのも、事実。
「身勝手な男ですまないね‥‥幸鷹殿、私はこのまま残りの記憶が戻らなければよいとさえ思うのだよ」
「ひす‥‥い?」
 呆けたように私を見つめる視線が愛しい。
 ねえ、君もそうは思わないかい。
「何者が何を目的に奪い去ったものなのかは知らない。だが、そもそも人の心は移ろいゆくもの。ならば誓う心も一つに留るわけではないだろう、幸鷹殿‥‥。記憶はなくとも、私は君を愛しているのだから」
「なにを、馬鹿な‥‥」
「いいからお聞き。‥‥人は愚かな生き物だからね。何度白紙に戻ろうが、幾度でも惹かれ合うのが道理というものではないかい?」
「翡翠、ダメだ、お前が‥‥それは」
「失った記憶の中に在る君は、此処には居ない。私はここで重なる君をこそ、愛しているのだと‥‥告げては」
「翡翠っ!」
 何かを拒絶するように必死で頭を振る君は、まるで幼い子供のようにも見える。
 私の知らぬ過去、どこかで出逢った君に似ているように思う。
 確証はない。面影も薄い。だが‥‥。
「幸鷹‥‥‥っ」
 こんな風に、この腕に抱いた。‥‥きっとそれが私であるなら。
「あ‥‥‥あ、ああああー‥‥っ」
 混乱に混乱を重ねて暴れる肢体を手放すことなど、できようはずも。

 見つめる視線で縛り付けて、唇を奪う。
 何も言わない君の全てを暴くように。君が独りで抱える全てを包むように‥‥。

『ゆきたか』

 記憶を奪われるより僅かに前、君をそう呼んだ記憶がある。
 あの時、私は伊予に居たわけではない。
 なぜか京に。そして君に逢って‥‥きっと、君を追って。

 絡んだ糸を手繰るように、君を抱き寄せる。

 幸鷹。
 きっと私達は最初から、何も失くしてなどいないのだよ。
 
 
 
 
 
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