「焦ってます?」
柔らかな笑い声に驚いて視線を落とせば、頭一つ下から愛らしい上目遣いに射抜かれた。
「まさか。‥‥どうしてそう思うんだい?」
なけなしの余裕を掻き集めて、常の翡翠を演じる。
焦っている。確かに焦っているよ。記憶のカケラを取り戻すたび、外れくじを引かされるような気分で‥‥だが、なぜ君が。
感情が表に出るほど素直な性質でもないつもりだが。
「幸鷹さんが」
その名だけで止まる時の中。
無邪気な顔をした運命の女神は、鮮やかに笑う。
「別当殿が?」
「気にしていたから、なにか必要に迫られているのかなぁと思って。気のせいだったらスミマセン」
肩をすくめて笑う神子殿をクスリと笑いながら、背中に冷たい汗をかく。
予想済みとはいえ、心はひどく掻き乱れた。
やはり私とあれの間には、忘れるべきでない柵があったのだろう。それはそうだ。そうでなければ説明もつくまい。
過去の別当殿を暴いたのは、私‥‥か。
しかしまさか恋仲であったのなら、なぜ私は伊予に留まり、なぜ別当殿は京へと‥‥。
意味の解らぬ焦燥感に抱かれながら、また夜を迎える。
「幸鷹殿。話がある」
「私には無い」
「いいから聞きなさい。気に入らなければ帰るといい‥‥今夜を限りにしても構わない」
「‥‥っ」
そんな死罪を宣告されたような顔を見せなくとも。
すっかりしおれて青ざめた顔を笑わぬように、視線を逸らす。なぜ君は私の前でだけ、そうも素直なのだろうね。
それが無くした記憶であるのなら、惜しいとは思うけれど。
「記憶が戻った」
「そんなはずはない」
即答できるほど、私とソレは違うものなのか。
驚きながら先を続けた。
「嘘ではないよ。君との記憶以外なら、幾つか」
「そう、か」
ホッとしたように上がる視線を、穏やかな気持ちで見つめる。こうまで心労をかける己を煩わしくも思えば、心を砕く別当殿を嬉しく思うのも、事実。
「身勝手な男ですまないね‥‥幸鷹殿、私はこのまま残りの記憶が戻らなければよいとさえ思うのだよ」
「ひす‥‥い?」
呆けたように私を見つめる視線が愛しい。
ねえ、君もそうは思わないかい。
「何者が何を目的に奪い去ったものなのかは知らない。だが、そもそも人の心は移ろいゆくもの。ならば誓う心も一つに留るわけではないだろう、幸鷹殿‥‥。記憶はなくとも、私は君を愛しているのだから」
「なにを、馬鹿な‥‥」
「いいからお聞き。‥‥人は愚かな生き物だからね。何度白紙に戻ろうが、幾度でも惹かれ合うのが道理というものではないかい?」
「翡翠、ダメだ、お前が‥‥それは」
「失った記憶の中に在る君は、此処には居ない。私はここで重なる君をこそ、愛しているのだと‥‥告げては」
「翡翠っ!」
何かを拒絶するように必死で頭を振る君は、まるで幼い子供のようにも見える。
私の知らぬ過去、どこかで出逢った君に似ているように思う。
確証はない。面影も薄い。だが‥‥。
「幸鷹‥‥‥っ」
こんな風に、この腕に抱いた。‥‥きっとそれが私であるなら。
「あ‥‥‥あ、ああああー‥‥っ」
混乱に混乱を重ねて暴れる肢体を手放すことなど、できようはずも。
見つめる視線で縛り付けて、唇を奪う。
何も言わない君の全てを暴くように。君が独りで抱える全てを包むように‥‥。
『ゆきたか』
記憶を奪われるより僅かに前、君をそう呼んだ記憶がある。
あの時、私は伊予に居たわけではない。
なぜか京に。そして君に逢って‥‥きっと、君を追って。
絡んだ糸を手繰るように、君を抱き寄せる。