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[翡幸]想双歌 〜07〜

「焦ってます?」
 柔らかな笑い声に驚いて視線を落とせば、頭一つ下から愛らしい上目遣いに射抜かれた。
「まさか。‥‥どうしてそう思うんだい?」
 なけなしの余裕を掻き集めて、常の翡翠を演じる。
 焦っている。確かに焦っているよ。記憶のカケラを取り戻すたび、外れくじを引かされるような気分で‥‥だが、なぜ君が。
 感情が表に出るほど素直な性質でもないつもりだが。
「幸鷹さんが」
 その名だけで止まる時の中。
 無邪気な顔をした運命の女神は、鮮やかに笑う。
「別当殿が?」
「気にしていたから、なにか必要に迫られているのかなぁと思って。気のせいだったらスミマセン」
 肩をすくめて笑う神子殿をクスリと笑いながら、背中に冷たい汗をかく。
 予想済みとはいえ、心はひどく掻き乱れた。
 やはり私とあれの間には、忘れるべきでない柵があったのだろう。それはそうだ。そうでなければ説明もつくまい。
 過去の別当殿を暴いたのは、私‥‥か。
 しかしまさか恋仲であったのなら、なぜ私は伊予に留まり、なぜ別当殿は京へと‥‥。
 意味の解らぬ焦燥感に抱かれながら、また夜を迎える。

「幸鷹殿。話がある」
「私には無い」
「いいから聞きなさい。気に入らなければ帰るといい‥‥今夜を限りにしても構わない」
「‥‥っ」
 そんな死罪を宣告されたような顔を見せなくとも。
 すっかりしおれて青ざめた顔を笑わぬように、視線を逸らす。なぜ君は私の前でだけ、そうも素直なのだろうね。
 それが無くした記憶であるのなら、惜しいとは思うけれど。
「記憶が戻った」
「そんなはずはない」
 即答できるほど、私とソレは違うものなのか。
 驚きながら先を続けた。
「嘘ではないよ。君との記憶以外なら、幾つか」
「そう、か」
 ホッとしたように上がる視線を、穏やかな気持ちで見つめる。こうまで心労をかける己を煩わしくも思えば、心を砕く別当殿を嬉しく思うのも、事実。
「身勝手な男ですまないね‥‥幸鷹殿、私はこのまま残りの記憶が戻らなければよいとさえ思うのだよ」
「ひす‥‥い?」
 呆けたように私を見つめる視線が愛しい。
 ねえ、君もそうは思わないかい。
「何者が何を目的に奪い去ったものなのかは知らない。だが、そもそも人の心は移ろいゆくもの。ならば誓う心も一つに留るわけではないだろう、幸鷹殿‥‥。記憶はなくとも、私は君を愛しているのだから」
「なにを、馬鹿な‥‥」
「いいからお聞き。‥‥人は愚かな生き物だからね。何度白紙に戻ろうが、幾度でも惹かれ合うのが道理というものではないかい?」
「翡翠、ダメだ、お前が‥‥それは」
「失った記憶の中に在る君は、此処には居ない。私はここで重なる君をこそ、愛しているのだと‥‥告げては」
「翡翠っ!」
 何かを拒絶するように必死で頭を振る君は、まるで幼い子供のようにも見える。
 私の知らぬ過去、どこかで出逢った君に似ているように思う。
 確証はない。面影も薄い。だが‥‥。
「幸鷹‥‥‥っ」
 こんな風に、この腕に抱いた。‥‥きっとそれが私であるなら。
「あ‥‥‥あ、ああああー‥‥っ」
 混乱に混乱を重ねて暴れる肢体を手放すことなど、できようはずも。

 見つめる視線で縛り付けて、唇を奪う。
 何も言わない君の全てを暴くように。君が独りで抱える全てを包むように‥‥。

『ゆきたか』

 記憶を奪われるより僅かに前、君をそう呼んだ記憶がある。
 あの時、私は伊予に居たわけではない。
 なぜか京に。そして君に逢って‥‥きっと、君を追って。

 絡んだ糸を手繰るように、君を抱き寄せる。

 幸鷹。
 きっと私達は最初から、何も失くしてなどいないのだよ。
 
 
 
 
 
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