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[翡幸]想双歌 〜06〜

『幸鷹殿』
 やめろ。その名は捨てたはずだ。
 私を表す記号としての名ならば構わない。だが貴様に呼ばれる謂われはない。
『幸鷹殿』
 思い出すなら、私を『幸鷹』と呼び捨てた、あの声を。
 しかし耳をくすぐるその声は、あの日のままで。
『幸鷹殿』
 やめろ。‥‥‥‥やめて‥‥‥。
 理由など解らない。ただ、塗り替えられていく面影が切なかった。
 それが愛だというなら、それでいい。否定はしない。
 幼い私の情熱を諭した『海賊風情』に、私は強い憧れと恋心を抱いていたのだろう‥‥そこから逃げ出さずには生きられぬほど盲目に。まるで己を失いそうなほど強烈に。

 戸惑いを宿す視線。切なく掠れる声。苛立つような吐息と、狂おしい汗の匂い。
『名を呼ぶな』
 禁じた言葉をなじるような、深い深い口付け。
 五官の全てが、この心を乱していく。
 五感の全てに刻み込まれる。
 響き。重さ。手触り。味。造形。匂い。情。‥‥‥恋。
 なぜ思い出さない。
 そんな容易く捨て去れるものならば、なぜ私の前に現れた。
 乞うて、乞うて、乞うて。
 これほど、狂恋に満ちた私を抱いて‥‥‥なぜ何も感じないっ。

 翡翠が記憶を取り戻したら。

 今はむしろ、それが怖ろしい。
 これほどまでに惨めに縋りながら、未だ私は『お前に認められたい』と思う欲を捨てきれずにいる。無意識に‥‥私は、温かいその腕を振りきることで、その横に並ぶに相応しい者になろうとした。今ならそれが解る。
 京での出世は、いつか伊予にも届くだろう。
 それを聞いた翡翠が口惜しく思えばいい。私を手放したことを僅かにでも苦しく思えば‥‥それだけで構わないと思えるほど。

 私には、お前しかなかった。

 出世の欲もない。兄を差し置いて藤原の家を継ぐほどの野心も何もない。両親を思えばこそ、均衡を崩さぬことこそが切要で。
 ‥‥‥私は、私を殺したかった。
 私という個性が世に出ることを拒んでいた‥‥翡翠に出逢うまで。

 人を統べる能力を有り余らせて、それを決して世のために活かすことのない男に苛立つのは、どこか自分と重ねたからだ。
 力があるのならば、使えばよいものを。
 苛立ちながら、お前の事情を知ることを切望した。
『そういきり立つものでもない。人には人の事情があるのだからね。たとえそれを明言できなくとも。‥‥覚えがあるだろう、君にも』
 何も知らないくせに、なにもかもを見透かされているようで。身体だけでなく、心も丸裸にされた気がして。
 ‥‥‥それを、許した。
 恥じる気持ちもある。だがお前になら許せる気がした。同じように、その心を理解できる立場にいたいと願った。
 そうなる為に、私は私を育てる必要に迫られた。
 傍に居ては、温かい腕の中で甘えていては、一生追いつくことなどできない気がしたから‥‥離れたのだ。
 五年、十年、いや二十年かかってもいい。
 私なりのやり方で地に立つことが適えば、肩を並べることもできると信じて。

 私は結局、何を求めていたのだろう。

 あれほどの決意も志もすべて投げ捨てて、今はお前の愛を乞うている。
 私に気付けと叫びながら、このまま‥‥全て忘れたまま、ただ傍に居てほしいとすら願っている。
 矛盾だらけだ。

『幸鷹殿』

 翡翠。今のお前が厭わしいわけではない。
 ただそれを受け入れた時。‥‥あの頃の翡翠と繋がらぬ翡翠を許した時。
 お前は私を捨てる。
 私は、それに怯えているだけなのだろう‥‥。
 
 
 
 
 
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