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[江戸遙か 07] 町一番の

 全てに背を向けて、ここでの最後の仕事に向かった。

「火だ!!火が出たぞ!!!」
 町中が混乱の中にある。
 予定していたとおりの手順で小火があがり、懸命に翻弄していた九郎を誘導すると、影のように現れた相方がその身を斬りつける。
「…………ぐ…っ」
 腕の中に倒れ込んだ塊を見て、血の気が引いた。
 生きている。
 有り得ない……仕損じたか!?
 視線を飛ばすと、顔を半分以上隠した『町一番の薬師』が笑うように目を細めた。
 何か考えがあるのか…?
 解らない。
 解らないが、この男は信じても良いはずだと本能が告げる。
 顎と視線で示された先に瀕死の男を運び込む。

 

[江戸遙か]町一番の

 

 いつの間に用意されたのか初めて見るその場所は、この日の為に用意された庵なのだとすぐに解った。
 上蓋のような扉を閉めると、人の声も足音も、もちろん煙なども遠く消え去り、驚くほど静かになる。中には一畳半ほどの寝床と、怪我の治療に必要な用具や薬が、簡易ながらも一通り揃っていた。
「寝かせてください」
 短く言いながら、ボロ布を裂いて止血を始める。
「ぐあ…っ」
 痛みに飛び起きた九郎を抱き留めて宥めると、この顔に気付いてホッと力を抜く。
「景時か……ぃ、つうっ!!」
「ジッとしていてくださいね。いくら体力自慢の君でも、これ以上血を流しては生きていられませんから」
「弁慶…っ、ぐあああっ」
 壮絶な治療現場に眩暈を覚えながら、俺を信じてしがみついている九郎を支え続ける。
 ゴメンね。俺たちこそが君の敵なのに。

 止血と消毒。一通りの治療が済むと、九郎は縋るように俺の手を握りしめたまま、高熱を出して意識を手放した。あの傷の深さじゃ、3日は朦朧とするはずだ。
 だけど……きっとそれだけだ。3日もすれば意識を取り戻す。殺せと命じられた標的を、斬りつけて救い出す行為の意味が、まだ解らない。
「すみませんね、付き合わせちゃって」
 一度庵を出ていた弁慶が気配もなく戻ってきた。
「……聞かせてくれる?」
「ええ。……今、この上で、九郎の死体が片付けられています」
 死体…?
「年格好の似た荒くれ者を捉えておいたので、申し訳ないのですが身代わりになってもらいました」
 その為だったのか、治療の為と脱がせた服や装飾品は、あらかた消えていた。
「ごまかせるのかい?」
「ええ。頼朝様は九郎に逢ったことがありません。人伝の噂のみを信じて、幻に煽られていただけですから、きっと」
 しかし……それでは、一度死んだ九郎が戻ってきた時の騒ぎは、避けられないだろう。
「おや?不安げな顔をなさって。もちろん話はこれで終わりではありませんよ?」
「勿体つけないでよ~」
 おどけた俺に応えるように笑ってから、スッと温度を下げる。
「あの方には、少しお灸を据える必要があると思うんです」
 いきなり核心をついた弁慶は、世間話でもするような優しい声で、訥々と語り始めた。

「こんな因果な生業に手を染める切欠が、景時にもあったでしょう。僕は昔から薬師としてこの辺りを回っていました。…昔はここも余所と変わらないほど治安が悪くてね、たとえば親を亡くした兄弟が平和に蕎麦など打てるような平和な町ではなかったんですよ」
 確かに。治安の悪い地域では、女子供の切り盛りする店など格好の獲物としか言いようがない。
「荒らす方も荒らす方なら、取り締まる岡っ引きや同心もロクなのがいなくてね。皆が冗談のように『地獄の沙汰も金次第』などと言いますが、まさしくその通りとしか言えない…拷問で自白を取るような沙汰なのです。助かる道は金だけ。そんな場所を命からがら落ち延びた人達が治療に訪れては、苦渋の声を上げていくんですよ。とうとう、無実の罪を拭う為に子供を売って金を捻出した者まででるほど…」
「酷い話だね」
 今のここからは想像もできないような、しかしそれを嘘と思えるほど、平和な場所を渡り歩いてきたわけじゃなく。
 治安というものは、それほどまでに大切なものだと骨身に沁みている。
「ええ。……ですから僕は、あの方の命を受けることにしたのです。あの方の望みは片寄ったものではありましたが、それに従っている限り、こちらの独断で始末した癌も沙汰なく見過ごしてもらえますから」
 ……てことは、まさか。
「九郎も、仲間だったのか!?」
「いいえ……それは有り得ませんね。この人ほど裏の仕事に合わない人なんか探したって見つかりませんよ。それは景時もよく知っているでしょう?」
 言われてみれば、その通り。
 この男を動かすのは、金や名声じゃない。それが自分の心に添ったものであるか否か、それだけなのだ。たとえ人の為となろうとも、裏の仕事は矛盾が多すぎる。
「景時も相当似合わないと思いますけどね。…頼朝様に振り回されて軸を失ってしまったかのようで、見ていて少し苦しくなります」
 ハハハ……と、乾いた笑いで話を促す。
 軸なんか、元より俺にはなかった。人や治安を守れるほど確かな感触も何もなく、ただ…ただ生きる糧を得る為に、そしてあの方に脅されるままに。裏家業などを生業にする殆どのソレが手にしている理由しか持ち合わせていない。
 切欠は、あったにせろ。
「俺の母親は、子供だった俺と…朔の、目の前で殺されてね。朔はあまりにも幼かったから覚えていないようだが、…正直言うと、これ以外に食うあてがなかったんだよ。君ほど偉い理由じゃない」
 毎日の糧にすら困った自分たちに与えられたのは、その土地を治めていた…汚い男の腕だけだった。
 世のクズとされるような酷い仕事でも、朔が笑顔で生きられるのならばと進んで引き受けた。そう…朔だけは汚れずに、真っ当に生きてほしかった。日に日に美しく育つ妹に欲目をかいた男こそが、実は母の仇であると、一度に知れたあの日まで。
 皮肉にも、殺しの技術はその男からの依頼で育っていた。
 全てを成したあと、人を殺めたこの腕で朔の手を取ることもできず、腕を買われて拾われた先…頼朝様に縋る形で、決まった金を朔へと送り、俺は今もこの世界に在る。
 母が殺されたあの時に、死んでしまえなかった自分。皮肉にも生き別れた妹と同じ場所に住むことになってさえ、まだ日光の元では背を伸ばせない自分。
 ただ一人、愛した人にさえ……何を差し出すこともできない、この命。
 過去も今も未来も、全てが後悔の中に沈んでいる、この道。

「この仕事が終わったら、姿を消すつもりだったのでしょう?」
 唐突に切り出されて二の句も継げずに苦笑いをすると、困った人だと笑いながら九郎へと視線を流す。
「すみませんが、決着が付いていません。頼朝公に関しては僕に任せて、彼を看ていてやってください。九郎が起き出してしまうと、計画が台無しですからね。……いいですか、何があっても冷静さを欠くことなく、貴方らしく振る舞ってください。逃げるのは、いつでもできますから」
 意味深なセリフと厄介な仕事を残して、町一番の薬師……町一番の策士は、賑やかな町へと溶け込んでいった。
 
 
 
 
 
 
 
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[江戸遙か 06] 君だけは

 君との夜は、これで最後かもしれない。

 

[江戸遙か]君だけは

 

 店仕舞の頃を見計らって、いつものように暖簾をくぐる。
「あら景さん、また変な時間に来たわねー。もうお酒くらいしかないわよ」
 クスクスと笑う望美ちゃんは、前掛けを外しながら戸に向かって、さっと暖簾を下げてしまった。
「変なのが集まらないように暖簾は下げちゃうね、譲。酔っぱらいの相手は任せていいんでしょ?」
 サラッと流された意味深な目配せに、曖昧に笑ってみせる。
 たすきを解いて、一瞬で淑やかな町娘の顔になった蕎麦屋の看板娘さん。…まったく女の子は解らないものだ。
「もう本当に手のかかる兄でごめんなさいね、譲くん。洗い物は済ませておいたから、あとは宜しくね」
 奥で外に出る支度を済ませてきたらしい朔は、待っていた望美ちゃんの手を取って自然に歩き出す。見とれるほど華やかな娘さん達は、一陣の風が抜けるように、軽やかに店を後にした。
「本当にゴメンね、いつも…こんな時間に」
「何を言うんですか。俺、景時さんが来てくれるのを待ってたんですよ」
 ほんの少し頬を赤らめて、それでも真っ直ぐに見つめてくる視線が、後ろめたさを煽る。すぐに目を反らして見なかったことにしたい。そう願わずにいられないほど、濁りのない視線。それでも……目を反らすことなど、できはしない。
 心を射抜く視線に、優しく微笑む光に、身動きすら取れない。
「譲くん…」
 酒を飲む気にもなれない。
 すっかり酔って正体を無くしたと思わせて、やっと君へと伸ばせるこの腕…。

 今日で、最後かもしれない。

 せめて君を、言い訳のできない腕で、抱きたい。
 俺が何処へと消えたとしても、君への想いが嘘じゃなかったと…君に知っていてほしい。これは、俺のワガママ。……最後のワガママ。
「景時…さん?」
 戸惑う声を奪って、深く深く口づける。
 譲くんは甘い溜息をつきながら、俺を抱えるように頭を抱きしめた。
 言い訳のできない逢瀬。
 否、元より言い訳などできない罪だとしても。
 少なからず、君からの愛情を信じている。許して癒してくれるばかりの腕ではないと……この身体に君の心が刻みついている。いつの間にか君の恋が沁みて、優しい熱をくれる。俺の勝手な思いこみではないのだと。
 俺は、君を求めてもいいのだと。
「泣いて、いるんですか…」
 離したくない。
「…泣いてなんかいないよ?」
 君を離したくない。
「そうですか…そうですね。二階へ行きましょう、ここは寒いから」
 覗き込む優しい笑顔が、水の向こうで不安げに揺れている。
 温かな手に導かれて辿り着いた先。
 初めて、こんなに優しく君と交わった。それは俺が求めて歪めて諦めていた、奇跡のような夢だった。
 君の甘やかな吐息が部屋を満たしていく。
「景時さん……景時さ…ん」
 しどけなく身を投げ出した手中の人を、今だけは…恋人と。
 譲くん。
 君を、恋人と呼んでもいいかな。
 愛しい愛しい、俺だけの君。一生分の幸せを貰ったから、きっと俺はこの先もやっていくことができる。
 どうか君は幸せになって。
 君を傷つける俺を、許さなくていいから。どうか…どうか君だけは、幸せになって。

 愛してる。一生、君だけを…愛してる。
 
 
 
 
 
 
 
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[景譲]甘い恋の日

 湯煎で溶かしたチョコレートは、アルコールを入れると固まらない。その上に混じり気のないビターチョコを重ねたら、外側がカリッとして、中身はトロッとした大人の味。
 ブランデーもダークラムも合うけど、相手を想えば、やっぱりスッキリと香りの良いオレンジキュラソー。
 今年一番の自信作。
 いや、今まで作った中で、たぶん一番。
 毎年なぜか、なんとなく作ってしまうのは、喜んでくれる人が確かにいるからだけど。
 今年は、いつもの比じゃない。

 景時さんは、きっと喜んでくれる。きっと、喜ばせる。

 手渡した時の照れた笑顔。封を解く時の期待感。箱を開ける時の鼓動。勿体ぶって小さく含む唇。嬉しそうに上がる頬。
 全部欲しい。
 一番の笑顔で、美味しいと言わせたい。

 たかだかチョコレートを作るだけで、こんなに本気になる自分は、どうかと思う。
 女の子の行事なのかもしれない。
 可愛い少女がやれば微笑ましい光景なのかもしれない。
 ほんの少し心をくすぐる劣等感。
 それでも。
 ただ、自信を持てる「料理」で…貴方を笑顔にしたいだけ。
 ムキなる自分は、少し愛しい。


 カチャ


 玄関の鍵が小さく立てる音を聞いて、前掛けを外す。
「美味しそうな匂いがするね〜♪」
 楽しそうな足取りで近づく気配に向き直る。
「ただいま、譲くん」
 行事の意味を知ってて、全身で期待して広げる腕に、飛び込んで。
「おかえりなさい、景時さん」
 幸せな瞬間を一番の特等席で眺める贅沢。

 差し出した包みに、心底嬉しそうに照れ笑いする貴方。
 無言でリボンをゆっくりと解く、子供みたいな瞳。
 箱を開ける前、無意識で胸に当てた指。
「わぁ」
 小さい歓声と、食べてもいいの?と見つめる顔。
 鼠みたいに小さく囓るから、作りたてのチョコレートが指を汚して。
 慌てて全部口に入れるもんだから、言葉にもならずに。
「んー…!!」
 身振り手振りで、美味しい美味しい美味しい!!なんて伝えてくれる。
 一番の笑顔。

 俺は、今また、貴方を好きになった。

 バレンタインのチョコレート。…好きですなんて、言えない。
 もう、好きですじゃ、足りない。
 愛しくて恋しくて貴方の全てが欲しくて。
 指先を汚した甘いものを舐め取ると、少し驚いた顔の貴方が、すぐにクスッと笑った。
 片付ける暇もなかったキッチンの、固まらないチョコレートを指に絡めて……俺の唇につけては舐め取り、はだけた首筋を、胸元を、脇腹を、汚しては…キスをして。
 全身から、甘い匂いと…気化したアルコール。
「んはぁっ」
 いきなり沈みこんだ質量に背を反らすと、覗き込んだ顔が幸せそうに笑った。
「ほら、まだあるよ、譲くん」
 差し出された甘い指に……貴方に酔いながら。
 一番に幸せな、甘い恋の日を過ごした。

[江戸遙か 05] 火を放て

「景時さん、何にしますか?」
「ええっ、あー…ゴメンね、ボーッとしちゃって」
 相当ハッキリと夢の中にいた俺をからかいもせず、不安げな瞳が包む。
「また……傷が、増えてますね」
 そっと耳元に落ちる声。着物の中に隠した傷を、探り当てる君。
 違ウ。ソノ瞳デ、実際ニ見タカラ…。
「よく解るね~。ほら、俺って鈍くさいからさ。木の枝に引っかけちゃって」
「……っ」
 嘘だと言ったのだろう。だけど声に出すことは叶わない。
 君ハ夢ノ中デ、俺ニ抱カレル。
 そう。現実へと侵食してきてしまった、儚い世界で…。
 同情か優しさか、俺を受け止めてくれた譲くんは、何を問うこともなく…深く酔った俺が『酔いと共に記憶を手放している』と信じて、朝が来ても何事もなかったふりで俺の傍に在る。
 その優しさに甘えて、何度か体温を分け合った。

 

[江戸遙か]火を放て

 

 すっかり気付いた顔の、朔と望美ちゃん。
 ゴメンね。きっと君たちが考えている関係は、もっと甘くて優しいものだろうに。

 いつも、荒みきった心に任せて、酷い抱き方をする。
 驚くほど強靱な精神力を持ってる譲くんが、それでも涙を零すほど、しつこく長く手荒に…無我夢中で抱き続けて。なのになぜか力尽きた俺を労るように着物を直し、懐に潜り込んで眠りにつく君。同情だと解っているのに……まさか、愛されているのではないかと勘違いしたくなる程に、優しすぎる君。
 いけない。
 命令が下れば、九郎だろうと望美ちゃんだろうと手にかけねばならない、こんな最低な立場にある俺が、人としての幸せなどを求めるなんて。まさか君に愛されるなんて。…そんなことがあっていいはずがない。
 俺を、嫌いになって。
「景時さん、冷めてしまいますよ?」
「え、ああ~っ、美味しそうだね、ありがとうっ」
 どうか早く、俺から逃げて。
「景時さんの傷が癒えるように、気持ちを込めて打ちましたから」
 頼むから…お願いだから…。
「嬉しいな~。譲くんは本当に良い子だね」
「もう。子供扱いしないでくださいよ」
 ……優しく、しないで。

「入口でイチャつくの、やめてくださいねー。お客さん達、ドン引きですよ?」
「弁慶さんっ、す、すみません…っ」
 パタパタと走り去る後ろ姿に、ようやくホッとして一息つくと、視界に入った薬師先生が目配せをしてきた。
 依頼、か…。
 無表情で承諾すると、薬師先生の顔からいつもの柔らかい笑みが消え、…今回の依頼が気の重いものであることを知らせる。
 背筋に走る緊張。
 譲くんは、まさか譲くんを巻き込むようなことには、まさか。
 今すぐにでも問い質したい衝動を抑えて、味のしない食事を済ませる。
『気持ちを込めて打ちましたから』
 ゴメン、譲くん。君の気持ちをゆっくりと味わうことすら、できそうにない。
 愛してる。悲しいほど俺は君を愛している。
 それを自覚したのなら、せめて愛する君から離れて生きたい。人の血で汚れたこの道を君が知ることのないように……けして君を巻き込むことのないように。
 暗い気分で店を出る。
 そのまま落ち合い場所へと向かい、世間話のように依頼を聞いた。
 あまりにも惨い、依頼を。

「どうしてそんな話になるのかな~。彼がどーにかなったところで、この町に利益なんかないでしょ?彼がいるから治安が守られてるんじゃないの」
 依頼は、九郎の暗殺と屋敷への火付け。
「どうやらもう少し個人的な趣のようですね…。それが正義の力であれ、彼に人心が集まることを…望んでおられないのです」
 主語の抜けた言葉を眈々と紡ぐ口調は、いつもと変わらない。
 それでも……。
「やりたくないんだろう?……いくら、あの方の命令とはいえ」
「当然ですね。この町に住んでいれば根っからの悪党でも遠慮したい仕事かと思いますよ。…ですが、上からの依頼です」
「ああ」
 解っている。逃げられないのは知っている。
 此処ハ、ソンナ世界ダ。

 せめて君だけは、巻き込むことのないように…。
 
 
 
 
 
 
 
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[江戸遙か 04] 蕎麦屋の暖簾

 依頼の内容により、自分でも厄介だと思うほど神経が尖る時がある。
 そんな時に朔のいる家に戻るのは、殊の外気苦しい。
 どうしてだか神経の研ぎ澄まされた妹君は、どれほど周到に隠そうとも、沈む心に気付いてしまう。気付いた上で、笑いの中に押し隠そうとすることを責めもせず、そっと隣に在ろうとする。
 ………優しすぎる。
 この優しさは、心疚しい者にとっては拷問のようだと……言えない。まさかそんなことは言えない。

 

[江戸遙か]蕎麦屋の暖簾

 

 一晩かけた仕事を終え、誰もいない昼間に家へと帰り、休む。外は賑やかな時間だったが、疲れ切った身体は何の障害もなく眠りに落ちた。ひとまず疲れはとれたが、闇の中で「人」を「物」に変えた感触が消えるまで……せめてもう一晩、一人になれるものなら…。
 息苦しい緊張の中、なのになぜ此処へと足を向けてしまったのだろう。
 逢イタイ…。
 見慣れた暖簾の前で足を止めると、中から強い力で手を引かれた。
「何やってるんですか、景時さん」
 息が止まるかと思った。
 返事がしたい。…それを願ってしまうほど、言葉がなかった。
「……朔さんの言うとおりですね。これじゃ心配するわけだ」
「朔…?」
「ええ。朔さんは昼時に一度家に帰ったんですけど、気付かなかったでしょう。貴方がとても酷い顔色で…深く眠っていたと、塞いでいました」
「死んでるかと思ったって~?」
 おどけて聞いた声に、一瞬、怒ったような…困ったような顔をして、唇を尖らせる。
「ふざけすぎです。本当に心配していたんですよ、俺だって」
 心配、していた?
 なぜだろう。心がスゥっと軽くなる。
 誰からのどんな優しい言葉も鬱陶しくしか思えない、こんな時にですら。君からの優しさは…君からの労りは、心深く沁みてくる。
「少し飲んでいきませんか。嫌なことがあった時は、酒が一番の薬になります」

 思えばこの時、優しさに絆されることなく、踵を返して逃げてしまえば良かったのだ。
 君の優しさに縋ったばかりに、君を……傷つけてしまうと、知っていたなら。
 知っていたなら。
 夜明け前の闇の中、正気に戻った自分が声無く叫んでいた。

 悪夢が現実になる瞬間を知る。

 隣にそっと寄り添う、譲くんの肢体。
 涙の痕跡。
 大腿を汚す白濁した欲望。
 酷いことをしてしまったと一目で解る惨状の中、なぜか…その寝顔だけは、穏やかなものだった。
 まるで成すことを成したとでもいうように満たされた、安らかな寝顔。
 記憶を辿る。思い出したくもないなどという場合ではない。余計なことを喋っていたなら、彼の身が危ういのだ。

 勧められるがまま深酒をした俺に、呆れ顔で手を振る、朔と望美ちゃんの姿。
「二階に上がれますか。布団は用意してありますから」
 優しい言葉に浮かれて、戯けながら階段を上がっている時に…足を踏み外しそうになって。……そうだ。譲くんに支えられて。身体がピタリと密着して。
 タガが、外れた。
 引きずりあげるように強引に腕を引いて、階段を上がった。
 そして布団に譲くんを押し付けて……貫いた。
 夢のように泣かせて、何度も何度も欲情を叩きつけて。

 夢のように…?

 違う。夢とは違った。
 はじめは痛みに苦しんでいた譲くんが、いつの間にか優しくこの身を掻き抱いて、身体の苦しみすら許しながら……泣いていた。何一つ説明しなかった俺の傷みを抱いて、涙さえ忘れた俺の為に、泣いていた。
 恐る恐る…もう一度、その寝顔を見る。
 菩薩を想わせる深い笑みのまま、規則正しい寝息を繰り返す、無防備な寝顔。
 怖ろしい。
 許されてしまったら……俺は、どうしたらいい?
 拒まない君を、欲のままに求めてしまいそうな自分。汚れた腕で、許されるがままに…君を求めてしまいそうな自分を、止める術はあるのか。
 ギリギリと歯を噛みしめながら、手拭いでその身を清めた。
 起きる気配すらない君を、まだ欲しいと思う。

 救いようのない、果てのない情欲。
 君が許すというのなら、地獄へと堕ちようとも…。
 
 
 
 
 
 
 
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