全てに背を向けて、ここでの最後の仕事に向かった。
「火だ!!火が出たぞ!!!」
町中が混乱の中にある。
予定していたとおりの手順で小火があがり、懸命に翻弄していた九郎を誘導すると、影のように現れた相方がその身を斬りつける。
「…………ぐ…っ」
腕の中に倒れ込んだ塊を見て、血の気が引いた。
生きている。
有り得ない……仕損じたか!?
視線を飛ばすと、顔を半分以上隠した『町一番の薬師』が笑うように目を細めた。
何か考えがあるのか…?
解らない。
解らないが、この男は信じても良いはずだと本能が告げる。
顎と視線で示された先に瀕死の男を運び込む。
[江戸遙か]町一番の
いつの間に用意されたのか初めて見るその場所は、この日の為に用意された庵なのだとすぐに解った。
上蓋のような扉を閉めると、人の声も足音も、もちろん煙なども遠く消え去り、驚くほど静かになる。中には一畳半ほどの寝床と、怪我の治療に必要な用具や薬が、簡易ながらも一通り揃っていた。
「寝かせてください」
短く言いながら、ボロ布を裂いて止血を始める。
「ぐあ…っ」
痛みに飛び起きた九郎を抱き留めて宥めると、この顔に気付いてホッと力を抜く。
「景時か……ぃ、つうっ!!」
「ジッとしていてくださいね。いくら体力自慢の君でも、これ以上血を流しては生きていられませんから」
「弁慶…っ、ぐあああっ」
壮絶な治療現場に眩暈を覚えながら、俺を信じてしがみついている九郎を支え続ける。
ゴメンね。俺たちこそが君の敵なのに。
止血と消毒。一通りの治療が済むと、九郎は縋るように俺の手を握りしめたまま、高熱を出して意識を手放した。あの傷の深さじゃ、3日は朦朧とするはずだ。
だけど……きっとそれだけだ。3日もすれば意識を取り戻す。殺せと命じられた標的を、斬りつけて救い出す行為の意味が、まだ解らない。
「すみませんね、付き合わせちゃって」
一度庵を出ていた弁慶が気配もなく戻ってきた。
「……聞かせてくれる?」
「ええ。……今、この上で、九郎の死体が片付けられています」
死体…?
「年格好の似た荒くれ者を捉えておいたので、申し訳ないのですが身代わりになってもらいました」
その為だったのか、治療の為と脱がせた服や装飾品は、あらかた消えていた。
「ごまかせるのかい?」
「ええ。頼朝様は九郎に逢ったことがありません。人伝の噂のみを信じて、幻に煽られていただけですから、きっと」
しかし……それでは、一度死んだ九郎が戻ってきた時の騒ぎは、避けられないだろう。
「おや?不安げな顔をなさって。もちろん話はこれで終わりではありませんよ?」
「勿体つけないでよ~」
おどけた俺に応えるように笑ってから、スッと温度を下げる。
「あの方には、少しお灸を据える必要があると思うんです」
いきなり核心をついた弁慶は、世間話でもするような優しい声で、訥々と語り始めた。
「こんな因果な生業に手を染める切欠が、景時にもあったでしょう。僕は昔から薬師としてこの辺りを回っていました。…昔はここも余所と変わらないほど治安が悪くてね、たとえば親を亡くした兄弟が平和に蕎麦など打てるような平和な町ではなかったんですよ」
確かに。治安の悪い地域では、女子供の切り盛りする店など格好の獲物としか言いようがない。
「荒らす方も荒らす方なら、取り締まる岡っ引きや同心もロクなのがいなくてね。皆が冗談のように『地獄の沙汰も金次第』などと言いますが、まさしくその通りとしか言えない…拷問で自白を取るような沙汰なのです。助かる道は金だけ。そんな場所を命からがら落ち延びた人達が治療に訪れては、苦渋の声を上げていくんですよ。とうとう、無実の罪を拭う為に子供を売って金を捻出した者まででるほど…」
「酷い話だね」
今のここからは想像もできないような、しかしそれを嘘と思えるほど、平和な場所を渡り歩いてきたわけじゃなく。
治安というものは、それほどまでに大切なものだと骨身に沁みている。
「ええ。……ですから僕は、あの方の命を受けることにしたのです。あの方の望みは片寄ったものではありましたが、それに従っている限り、こちらの独断で始末した癌も沙汰なく見過ごしてもらえますから」
……てことは、まさか。
「九郎も、仲間だったのか!?」
「いいえ……それは有り得ませんね。この人ほど裏の仕事に合わない人なんか探したって見つかりませんよ。それは景時もよく知っているでしょう?」
言われてみれば、その通り。
この男を動かすのは、金や名声じゃない。それが自分の心に添ったものであるか否か、それだけなのだ。たとえ人の為となろうとも、裏の仕事は矛盾が多すぎる。
「景時も相当似合わないと思いますけどね。…頼朝様に振り回されて軸を失ってしまったかのようで、見ていて少し苦しくなります」
ハハハ……と、乾いた笑いで話を促す。
軸なんか、元より俺にはなかった。人や治安を守れるほど確かな感触も何もなく、ただ…ただ生きる糧を得る為に、そしてあの方に脅されるままに。裏家業などを生業にする殆どのソレが手にしている理由しか持ち合わせていない。
切欠は、あったにせろ。
「俺の母親は、子供だった俺と…朔の、目の前で殺されてね。朔はあまりにも幼かったから覚えていないようだが、…正直言うと、これ以外に食うあてがなかったんだよ。君ほど偉い理由じゃない」
毎日の糧にすら困った自分たちに与えられたのは、その土地を治めていた…汚い男の腕だけだった。
世のクズとされるような酷い仕事でも、朔が笑顔で生きられるのならばと進んで引き受けた。そう…朔だけは汚れずに、真っ当に生きてほしかった。日に日に美しく育つ妹に欲目をかいた男こそが、実は母の仇であると、一度に知れたあの日まで。
皮肉にも、殺しの技術はその男からの依頼で育っていた。
全てを成したあと、人を殺めたこの腕で朔の手を取ることもできず、腕を買われて拾われた先…頼朝様に縋る形で、決まった金を朔へと送り、俺は今もこの世界に在る。
母が殺されたあの時に、死んでしまえなかった自分。皮肉にも生き別れた妹と同じ場所に住むことになってさえ、まだ日光の元では背を伸ばせない自分。
ただ一人、愛した人にさえ……何を差し出すこともできない、この命。
過去も今も未来も、全てが後悔の中に沈んでいる、この道。
「この仕事が終わったら、姿を消すつもりだったのでしょう?」
唐突に切り出されて二の句も継げずに苦笑いをすると、困った人だと笑いながら九郎へと視線を流す。
「すみませんが、決着が付いていません。頼朝公に関しては僕に任せて、彼を看ていてやってください。九郎が起き出してしまうと、計画が台無しですからね。……いいですか、何があっても冷静さを欠くことなく、貴方らしく振る舞ってください。逃げるのは、いつでもできますから」
意味深なセリフと厄介な仕事を残して、町一番の薬師……町一番の策士は、賑やかな町へと溶け込んでいった。
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