記事一覧

[翡幸]想双歌 〜01〜

 また長い冬が来る。
 小舟から腕を伸ばして浸した塩辛い水に、秋風にすら弱くなる心を任せる。
 君のいない。ただそれだけで凍てつきそうな私の心を埋めるように、深々と降り積もる雪。ならば心も、固く凍えてしまえばよいものを‥‥‥‥‥‥。
 バカらしい。
 冬の訪れに震える姿など、誰に見せるわけもない。


 心を乱すものなど何もなかった。それは執着に値するものを知らぬ、恥ずべき無知だと知りつつも。
 鬱陶しい。
 餓鬼のように金や名誉を欲する輩となることも。
 面倒臭い。
 それを嫉んで羨んで自由を手放す民に似ることも。

 どこまでも私は私で。
 それを逃避とされたとしても、聞かぬ振りで自由を掲げて。

「貴方は逃げているだけだ。それだけの力を持ちながら!」

 真っ向から痛いことを言う子供を、なぜ眩しいと思ったか。
 それはもう、遠い潮騒の向こう。

「貴方が貴方を貫くのなら、きっとまた逢えるでしょう。その時はきっと、貴方を捕らえて見せましょう」

 去りゆく背中に‥‥‥愛しさを感じたのは。
 遠い潮騒の。

 そして私は独り、海原へ。

 月日は過ぎ去り幾度の冬が巡ろうと、君にまみえること叶わず。
 自由に縋りついた両手は、想いの糸に絡め取られ。

「君を失う自由は、私の性には合わない‥‥‥」

 呟いた己の言葉に噴き出して。
 零れた本音に。
 私を捨てた君に。
 この身を形作る全ての事柄に、笑いが止まらなくて。

 ふらり、京へ。

 それは賭け。
 君が私を忘れていれば‥‥私への執着という可笑しい熱を忘れていたなら、私は自由を手に入れる。既に失った物になど興味はないからね。
 だがしかし、君が‥‥‥私を‥‥。

 いや、その時は、君ごと攫って勝ちをいただく。
 それだけのことだ。


 幸鷹、もうすぐ京だよ。
 
 
 
 
 
--
 
小説TOP ≪ -- || 目次 || 02
 
--
 

[翡幸]伊予/翡翠

 まったくどうしたことかと笑いが込み上げる。
 この身に降りかかる火の粉が、おおよそ「らしくはない」私を生み出しては叩き壊して、また新たな私を形取る。その忙しないばかりの変化が楽しくて仕方がない。
 この腕から逃れようなどと、笑わせてくれる。
 災難だね、幸鷹。風を呼び嵐を起こして荒れ狂う海は、元を正せば私自身の咎でもあるのだが、こうなってしまっては己の手に負えるものではないのだよ。
 諦めて私のもとへおいで。
 それとも君に、私を止める手腕がおありかな。
 どちらにせよ君の中にある恋の思い出を叩き壊す私を、君は許すまい。会った途端に斬りかかられるとしても、身も蓋もなく拒絶されるとしても、それは燻る毎日とは比べようもなく魅力的なもの。
 怒りに震える君の顔をさえ焦がれてしまう心を笑い飛ばしながら、もうすぐ、君の住む都へと辿り着く‥‥。


 なんてことはない、ただの子供だった。
 仕事はできる。理論も正しい。人心を統べる術も、それなりに持ち合わせている。うら若い国主殿としては、奇跡的なまでに合格点だ。
 ここまで卓出した手腕をみせる子供が、万事に於いて優れているという例を知らない。
 仕事にかまけて生きてきたのなら、人生の楽しみをかなぐり捨てているはずで、それでは人としてつまらない。それすらも手にかけているなら、休息を知らぬ生き物なわけで、忙しなくていけない。
 さて、この男は何を落として此処まで来た?

 ありふれた上に些細な好奇心だった。
 特別なものなど何も感じない、良い退屈しのぎがやってきたと笑う程度の。
 全てこの手の中で解き明かしてしまえば、後には何も残らない。女が花占いを気取って花弁を散らかすような、残酷な遊び。
 それを純粋に楽しめたのは、月が元の形を取るまでの一月程だった。
 聞いた質問に答えを渋る姿が、私への警戒心などではないのだと気付いたのが、最初の関。むしろ答えに困らぬ問いには『身を守ることを知れ』と叱りたくなるほど無防備な言葉を返す。
 それは別の‥‥もっと穏やかな質問を、幾つかやり過ごしてしまった贖罪とでもいうように、特に恥じ入ることもなく、まるで粉飾に興味など無いと言いきるように、あっさりと。
 その高潔な居住まいは好ましい。しかし無自覚な幼さが危うくて、つい引き込まれそうになる。
 そんな遊びが『遊び』と割り切れる範囲を踏み越えて、執着へと‥‥恋情へと色を変えていくのを、他人事のように感じていた。
 どうしようというわけでもない。欲するものには手を伸ばす。叶わないなら終わる。恋など、その程度のものだろう。どうせ死ぬまで生きるのならば、そこまでどう生きようかと思い悩む意味もない。
 はたしてどうかと反応を楽しみながら、身難そうな男を試すように組み敷けば。
「私に色事の経験を求めるな」
 未知への恐怖ではなく、無知を恥じらうように呟いた。
「‥‥怖ろしくはないのかい?」
 白々しく聞いたところで、それに対する疑念もなく、己を吐き捨てるように笑う。
「生娘でもあるまいし」
 経験が皆無だというのなら、それは生娘と例えてもよい所と思うが‥‥。
 わざわざ指摘して怒らせる必要もないか。
 遠慮無く手を伸ばせば、与えるままの熱を素直に感じて、戸惑いのままに縋り付く。不慣れな刺激には、取り繕うこともなく取り乱して。覚えた手順を試すように身を投げて。
 これは確かに生娘ではないね。
 無駄に恥じらうことも欲情を押し隠すこともしない、毅然とした艶姿に魅入られて。
 いつの間にか、私が君に囚われていた。
 昼間は禁欲的なまでに理路整然と仕事に取り組み、夜は己の懸隔を楽しむように舞い踊る。
 甘い言葉を知らぬ君が、視線や吐息や時折見せる油断の中‥‥言葉ではない全てで、愛を語るから。
 油断していた。
 恋に溺れることなど、この私に限って有り得るはずがないと。
 君は私以上に、この恋を必要としていると。
 だから決して離れる未来はないのだと決めつけて、それを信じていた。

「帰るのかい?」

 すっかり感情の抜けた瞳を見て、唖然とする。
 追いかけて来いとも、申し訳ないとも、切ないとも悲しいとも。おおよそ未練たる未練を感じさせない瞳は、君が押し隠しているせいというわけでもあるまい。
 君が周りの評価よりよほど素直な男だと‥‥この確信を、どう覆せばよいのか解らない。
 いっそ君を知らなければ良かったとさえ思う。
 君を誤解して、そんなはずはないと信じることができれば、これほどまでに突き落とされる気分は知らずにいられただろう。
 だから幾つかの言葉を交わす間に、君の中に感情が降りた瞬間、私はそれに形振り構わずしがみつくことしかできなかった。
 離したくないのだと。
 君が私を必要としないとして、そこで通りよく頷けるほど大人ではない。己の中に眠っていた聞き分けの悪さを苦く笑いながら、嫌がる君を抱き寄せる。
「貴様がその生き方を変えぬように、私は私であることを捨てる気がない」
 生き方になど、拘りはないよ。
「捨てようか。この海も、この名も。君が、そんな私を望んでさえくれるなら」
 ただ、こうするしか知らなかったのだと思い至って、私は初めて自分という男を理解した。
 ここで生きるのは、心地よい。
 何に興味が湧かずとも、人の無知を教えるような海原を前にしては、全てが腹に落ちる。四の五の言わずにただ生きろと、浮世の不安を叩き壊す、壮大な自然。
 それが私の持つ全てならば、君のために捨ててみせよう。
「ふざけるなっ。‥‥そんな貴方は認めない」
 だけど君は、そんな私を望まない。
 それでは、どうすればいい?

 わからないまま手放した。
 浜辺の砂が指から零れるのを止める手立てなど思いつかぬまま。

 消えた穴を埋めるように女を抱いて、その度に君を感じて。
 ある日ふと、なぜ逢いに行かぬのかと。
 何を捨てることも厭わない。無様に愛を乞うことを恥とも思わない。君への興味も執着も薄れることがない。
 ならばなぜ、私は此処に留まっているのか。
「馬鹿らしい‥‥」
 声にして笑う。
 何を捨てるも何も、君以外に何も持ってはいないじゃないか。
 生きれども生きれども、君以外に執着を感じる存在に出逢うこともない‥‥このまま燻り果てて逝くなら。
 ここまで私を壊した君を、壊しに行こう。
 綺麗なままで終わりたいと愁うほど、私は若くはない。
 君の理想の男にはなりたくない。

 さあ、君のうつつを教えておくれ。

[翡幸]伊予/幸鷹

 それは夢のような、ただ一度の恋だと信じていた。
 永遠を感じるほどに、その時の私は本気だったのだと‥‥そんな戯れ言は、終焉を迎えて初めて口にすることが叶う。
 だから貴様が目の前に現れた時。
 美しいと感じていた全てのものが、現実の沼の中に沈む幻影を、見ていた。


 眼下に広がる荒々しい海を見た時、なぜ『懐かしい』と感じてしまったのかは解らない。京で育った‥‥あまり外にも歩かなかった私には、それは馴染みのあるものではなかったはずなのに。
 突き詰めることなく「いつものことだ」と受け流す程度に、その『違和感』は私の一部となっていた。
「国主殿は、よほど海がお好きと見える」
 ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる、翡翠‥‥この海を統べる海賊の頭に『よほど私がお好きと見える』と口にせぬ反論を浮かべながら、歩み寄る。
「何か急な用事がありましたか」
 何もないだろうと予想はしても、念のため口に乗せておく。あとで『聞かなかったから話さなかったのだ』などと幼稚に策する狸に囲まれて仕事をしてきた私が、そこらの青二才と同列に並べられてはたまらない。
「用事というのが政に限定されるなら、何もないよ。私の用事は、君自身の話だからね」
 物好きな、海賊。
 知れば知るほど解らなくなる。
 この翡翠という男を知る者は全て『万事に於いて執着心の見えない男』と、口を揃えるが。
 これは『執着』といわないか?‥‥問いかけることは適わないけれど。
 正直に言えば、この男の持つ空気が嫌いではない。
 ただ、戸惑っている。
 この男の問いといえば、生まれは何処の、乳母はどんな女だの、そんな他愛のない‥‥それは国主としての私を量る言葉ではなく。
 悪気のない好奇心。邪気のない興味。
 スラスラと答えられれば、それでこの男の言う『用事』は、済むのかもしれない。
 だから戸惑っている。
 思えば、このように私自身に対する問いかけをしてきた人間は、記憶にない。まったく、完全に『初めての経験』なのだと気付いて、身震いをした。
 なぜだ。
 翡翠は特別なことを何も聞いていない。
 特別なのは『それらの質問を初めて受ける自分』の方なのだと、不意に崖から落ちるような心地になる。
 適当にはぐらかすこともできず、不安な想いが表に滲んだ途端、気付かぬほど自然に話が逸れていく。それが『気遣い』なのだと、一晩寝た後で気付くことなどザラだった。
 戸惑うほど、翡翠は優しい。
 だからこの男と言葉を交わすのは、気詰まりではない‥‥いや、端から口にするつもりなど無いのだ。素直に『初めて他人を心地よいと感じた』と、認めればいい。

 気付けば、笑っている時間が増えた。
 仕事と思えば、とても気を許せる相手ではないと気を締めていたにも関わらず。翡翠の差し出す腕も言葉も、空恐ろしいほど自然に私の中へと溶けていく。
 抵抗を‥‥‥する、必要を感じず。
 答えられない問いは、そのままでよいと。説明できない私自身を持て余すことなく、容易く抱える腕が心地よい。
 そう思えるほど、その時の私は素直にソレを愛していたように思う。

「帰るのかい?」

 だから、心底意外そうに不躾に問う翡翠が、理解できずに。
「当然だろう」
 この2年。翡翠の腕に甘やかされて、気付いたはずの私自身の『歪み』すら忘れていた私は、理解できない自分こそが間違えなのだと、あらためて自覚して、途方に暮れた。
 当然だろう?
 私は国主としての任を頂いて、ここへ来た。
 終われば帰るのが‥‥‥。
「私を置いて?」
 縋るでもなく責めるでもなく、私自身の心を問うように確認する翡翠こそが『正しいのだ』と理解できてしまった自分自身が、この心を壊していく。
 失う。
 心地良い波音のような囁きを、凪いだ海のような心の平安を、荒れ狂う波のような交わりを、私という器の全てを満たしていた存在を。
 翡翠を。
 ‥‥国主の任を解かれて京への帰還を命じられた時、私の中の執着はキレイに消え失せていた。
 それは失うものだから『忘れてしまえ』と、心の中にある何かが強烈に命じている。
 全て忘れてしまえと。
 その声に従い、何もかもを受け流して、これまで通り正しく生きていけば良いのだと、決めて来たはずなのに。
『帰るのかい?』
 当然のことを当然のように問うてきた男に、己の核を打ち崩されるような衝撃を受ける。
 当然だろう。‥‥そんなはずがあるか。
 愛して『いたのだ』と、昨日の今日で過去形へとすり替えることができるなんて。
 自分自身の心が『壊れている』ことに気付いて、震えが止まらない。せめてあと5年程この男の傍に在れば、私は変われたのかもしれない。
 手遅れだ。
 私は私の生き方を捨てない。翡翠は翡翠の都合で生きていくだろう。私達の道は分かたれてしまった。
 後戻りなどという選択肢を知らない。
 これが、私だ。
「もう行く」
 席を立とうと膝を半歩ほど下げた時、あれほど居心地の良かった強引な腕に引き戻されて、泣きそうになる。
「離せ」
「どうしてそれを許すと?‥‥君らしくもない」
 自覚はしている。
「貴様がその生き方を変えぬように、私は私であることを捨てる気がない」
 止められるものなら私を止めてくれぬものかと、遠くで思う。
「捨てようか。この海も、この名も。君が、そんな私を望んでさえくれるなら」
「ふざけるなっ。‥‥そんな貴方は認めない」
 捨てるべきはどちらかと。
 変えるべきはどちらかと。
 単純な問いを、どれほど繰り返そうとも。

 変わらぬ貴方をこそ愛しているのだと。
 そして翡翠は、ここで器用に自分を曲げられぬ私にこそ惹かれるのだと。
 それが残酷な現実。
 ならば二度と、その顔を見ることは叶わない。

 仕方がないでしょう。

 涙も見せずに別れた。
 それが最後だと信じていたから、貴方を愛し続けた。

 それまでの全てを受け流して忘却の彼方に置き去っていた私に、唯一残った『傷み』という名の執着。
 ただ一つ、強烈な苦痛を伴う記憶は、夢の中で生きていたような私に『痛み』という実感を与えてくれた。
 このままそれを抱えて生きると決めた私の前に。
「おやおや、相変わらず難しい顔をして」
「なぜ貴様が此処にいる!」
 飄々と現れた伊予の海賊は。
「心配せずとも、君に会いに来たわけではないからね?」
 大事に抱えていた全てを理不尽に叩き壊しながら、凍り付くように美しい顔で、不敵に笑った。

[翡幸]獲物

 京に平和が訪れた。
 しかしコトの詳細を知っているのは、一部の都人ばかりで。
 危険が迫っていることすら知らずに過ごしていた地方の民は、噂を聞いた途端に疑心暗鬼に囚われて、いつか我が身に迫るであろう危機に怯えだす。そんな得体の知れぬ恐怖を抱え、僅かな異変にも恐れおののく日々を送っていた。

 龍神の神子は京に在る。

 噂の出所はどうあれ、確かに我らが神子殿は元の世界への帰還を望まず、今も紫姫の傍に在るわけで。
 そこへ、どうしても収まらぬ怨霊騒ぎに泣きつく者があれば‥‥。
「行きましょう!本当に怨霊かもしれないもの」
 正義感の強い神子殿に見捨てられる道理がない。
 ‥‥‥ま、この性格ゆえに彼女は白龍の神子であると思えば、それも致し方ない。
 しかも困ったことに。
「そうですね。鬼の残党がどう過ごしているとも知れませんから」
 同じく帰還を望まなかった『歩く責任感』こと天の白虎‥‥私の対を見殺しにするわけにもいかぬわけで。
 正直云えば、怠いなぁ‥‥と。
 雪の深々と積もる僻地なのだから、せめて雪解けを待って訪れればよいものを。
「行きましょう、今すぐに!!」
 はぁ‥‥。
 変なところで団結する二人を止める手立ては、ないように思えた。


「怨霊では‥‥ないようだな」
 それはそうだろう。
 そう簡単にそのような騒ぎが起こせては困る。
 しかも。
 まぁ。
 オヤクソクという展開ではあるが‥‥。
「幸鷹さんが、私を逃がす為にっ」
 野犬に襲われただとか。
 外は吹雪だとか。
「助けに行かなくちゃ」
 力の抜き所を知らない神子殿は、天然で人を動かすからタチが悪い。
「休んでいなさい。私が行くから」
 それ以外の台詞があるのなら、誰か教えてくれまいか。
「そんなっ、みんなで探せば‥‥っ」
「泰継殿、神子殿の暴走は止められるね?」
「当然だ」
「泰継さんっ!!」
「‥‥‥神子殿、私を信じることはできないかい?アレでも一応、私の対だ。助けることが適わぬのなら、私は海賊を辞めると誓うよ」
 バカな約束だ。
 助けることができない時点で、私の命もないものと容易く推測できるのに。
「‥‥‥‥本当?」
 そんな冗談のような誓いも、馬鹿げているなりに本気である以上、軽んじることはできまい。
「誓うと言ったのだよ」
「うん‥‥。信じる」
「泰継殿、このような天候だ、どこかで夜を明かす可能性もある。‥‥神子殿を頼むよ」
「これを使え。私の式神だ。夜明けを待ち、放った場所へと向かう」
 それは便利だね。
「お借りしよう。‥‥それでは出かけるよ、私の可愛い白菊‥‥心配せずに、おやすみ」
 額に口づけると、泰継殿の視線がチリリと焦げて、楽しかった。


 吹雪の中の探索は、それほど長時間に及ばずに済みそうだった。
 小一時間も歩いた辺りで、野犬の雄叫びに届く。
 それは何かに刃向かわれてキャンと鳴くような声でもあり、戦闘意欲を刺激されているような声でもある。
 まったく、手のかかる人だね。
 こうなることが予測できたというのに、どうして私はあの時‥‥君の手を離してしまったのだろう。些細な口論などは気にせず傍に在ればよかったのにと、らしくもない『後悔』などを背負うのだから。
 本当に困ったものだ。
 そんな想いばかりを抱えると知っても尚、君への執着は薄れることもなく。
 何にも縛られず、ただ自由に生きていたいだけだと心に決めていた日々すら忘れるほど、君という命に縛られて。
 ‥‥‥いっそ捨ててしまおうかと思う。
 このまま、この白い雪の中に君を捨ててしまえるなら。
 凍てつく雪の中ですら汗を掻きながら足を進めている時点で、何を考えても無駄だと知っているくせに。‥‥滑稽なものだ。
 これが『翡翠』か。
 これが、あの私なのだろうか。
「楽しいねぇ‥‥」
 人生というものも、捨てたものではない。

 しばらく歩くと、野犬の群れに囲まれた姿を認めた。
 美しいね。
 どうしてそう思うのだろうか‥‥相手は愛らしい姫君ではなく、従順な少年でもなく。
「翡翠!!何をしに来たのですっ」
 可愛げのない青年だというのに。
「君こそ、何をしているんだい。神子殿に心配をかけて」
 滴る鮮血すら、私の欲を煽って止まらない。
「‥‥っ」
「私を困らせて」
「助けろなどと言った覚えは」
「黙っていたまえ。‥‥本当に、怒るよ?」
 向き直った野性の獣に、牙を剥く。
「退け。これは私の獲物だ」
 相当苛立っていた私の視線は、空腹の野犬にも有効らしい。
 勇み足で襲いかかる一匹を縄で振り払うと、ジリジリと下がりながら、やがて口惜しそうに消えていった。
「獲物とは‥‥なんですか‥‥」
 悔しそうな呟きを笑い飛ばす。
「そのままの意味だよ。ほら、掴まりたまえ」
 手を貸した腕の中で、傷だらけの『獲物』は意識を失った。


 このまま連れ帰るには、少々荷が重い。
 泰継殿の心遣いもあることだしと、途中に見た山賊の隠れ家らしき小屋まで担いで歩く。
「まったく‥‥手のかかる子供だ」
 生きていて良かったと泣き崩れそうな自分を笑い飛ばす。
 これが死ねば、私は自由だというのに‥‥‥そんな自由など、爪の先程も望んでいない自分に呆れる。
 しかし、それが真実なれば。

 辿り着いた小屋は既に破棄されたものらしく、薪の一つも残されていない廃墟だった。それでも雨風は凌げる。朝までの借宿としては上等な部類だろう。
「それでは泰継殿、朝には頼むよ?」
 式神を外に放って、幸鷹の様子を見る。
 傷を洗い流して持参した薬で毒気を抜く。‥‥これで効かぬのならば、命は保証できないが。
「このくらいの傷で終わるのならば」
 終わってしまえと薄く笑う。
 それまでの縁ならば、仕方もない。
「ひ‥‥す、い‥‥」
「なんだい?幸鷹」
 それが譫言と知りながら、髪を撫でる。
「翡翠‥‥来る、な‥っ」
 夢の中でまで可愛げのない。
「来るな‥‥翡翠、お前を‥‥失い、たく‥ない‥‥」

 これだから、困る。
 この男は、こういう恥ずかしい台詞を、死期に晒されて初めて口にするものだから。
 心底、腹が立つ。

 パチンッ

「‥‥翡翠‥‥‥?」
 加減をせずに頬を張った衝撃で目を覚ました生意気な男を、腕に抱き込む。
「独りで夢を見るものではないよ‥‥ほら、私はこんなに凍えている。その火照った身体で暖めてくれるのだろう?」
 傷のせいで熱を持った身体と、どれほど身に力を入れようと歯の根の合わぬ身体。君の趣向にそぐわなくとも、合わせておくのが道理ではないかと、冷ややかに睨み付ける。
「‥‥‥下手な真似をするんじゃないぞ」
「知らないね。そんな気力があれば、君の意識が戻る前に奪うだろうよ」
 腕を弛めて袖から腕を抜く。
 露わになった半身を晒して君を招けば、不本意な顔の君が習って服を弛める。着物を肩に羽織っただけの姿で腕の中に降りた君は、ブツブツと言い訳をしながら、この凍えた身体を暖めた。

「翡翠‥‥‥冷たい」
 それは、謝罪の言葉なのかもしれない。
「傷は痛むかい」
「ンッ」
 ペロリと舐め上げると、‥‥‥‥‥ハァア‥‥ッ。と燃えるような吐息を吐く。
「やめ‥‥ひす、いっ」
 苦痛に耐える顔がたまらなく色っぽくて、何度か繰り返してみる。
「無事に京まで辿り着いたら、大人しく抱かれてくれるかい?」
「そん、な‥‥、ぁあっ」
「了解するまで続けてあげようか」
「や‥‥めろ。っ‥‥んあぁっ」
 なんて色っぽい声を出すんだろうねぇ、傷口を舐めているだけなのに。
 本当に、このまま貫いてしまいたいほどだ。
「あっ、やめ‥‥わかった、から‥‥‥やめて‥っ」
「本当かい?」
「つあぁ‥‥っ、ん‥‥嘘ならば、奪えばいい」
「それでは意味がないのだよ」
 奪うことくらい、すぐにでもできた。
 それをしなかったのは。
「君から私を求めてくれなくては、ね?」
 言い訳をあげよう。
 君の命を救ったからと‥‥あの時の約束だからと‥。
 だから、君から求めてごらん。
「調子に乗る、な」
「私を失いたくないのだろう?」
「っっ」

「それほど隠していたい本音ならば、夢になど見るものではない」

 辛そうに、眉をひそめている君は‥‥何度も目を閉じて、苦しんだり、諦めたり。暇を持て余した私が髪を撫でるのを無意識に悦びながら。
 それほどまでに自分の心に集中して。‥‥さて、結論は?
「ん‥‥‥‥っ」
 言葉にしないまま、深い口付けが降りてきた。
 不意打ちとはいえ‥‥不本意なほど、心臓が跳ね上がる。
「私の身体など、好きにしろ。‥‥お前が求めるなら、くれてやる」
「それが答えかい?」
「男に抱かれたい男があるかっ、私は、ただ‥‥お前の傍に在りたいだけだ‥」
 情けないほど小さくなっていく告白は可愛いばかりで。
 まったく、君という人は。
「そうだね‥‥それでは、素直に頂こうか」
「今は、無理だっ」
「当然だろう、もうすぐ夜が明ける。コトの最中に踏み込まれるのは無様だからねぇ?」
 続きは京に戻ってから。
 いや、いっそ攫ってしまおうか。白く凍てつく世界とは無縁の、穏やかなあの海へと。
「翡翠‥‥眠い‥‥」
「眠ればいい。私が守っていてあげるよ」
「ん‥‥‥傍に‥‥‥いて‥‥」

 扉の外に気配を感じて、服を直す。
 そのまま引き渡した幸鷹は、しばらく傷に苦しんで、私はあろうことか足の指に霜焼けなどをこさえて。
「私も、若くはないねぇ‥‥」
 やはり暖かい伊予の海に、ワガママな恋人を連れて行こうと決めた。

[翡幸]生まれ落ちた日

 絡んだ指が翡翠の熱を伝える。
 滑らかに動く悪戯な指。
 ぎこちなく固まる私をものともせず、深く複雑に絡み合う指。

「‥‥っ、翡翠」

 からかうだけなら、やめてほしい。
 これ以上近づけば‥‥私は。

「幸鷹、おめでとう。
 ‥‥君がこの世に生まれ落ちた意味を、教えようか」
「は?」
「君は私に出逢う為に生まれてきてくれたのだろう?
 だから、異なる時空に生を受けても、この引力がある限り、私は君の許へと、君は私の許へと引かれ合ってしまう」
「馬鹿をいうな」
「そう?‥‥それなら、私から離れてごらん」

 簡単なことだと笑いたい。
 なのに‥‥絡む指が解かれる度、何かに縛られて。
 ただ静かに佇んでいるだけの翡翠から離れることができない理由を、己の心にすら説けぬまま。


「翡翠」
 呼びかけても、見つめ返して笑うだけ。
 泣き出すまいと腹に力を入れながら、憎たらしい瞳を睨み付ける。
「翡翠、今日は私の誕生日を祝いに来たのではなかったか」
「そうだね‥‥君が、それを望むなら」
「寒い」
「?」
「冗談でも誕生日の祝いだというのなら、こんなに寒い場所で立ち尽くすような興は辞めていただこうか」
 憮然と言い放つと、呆気にとられた顔でクスクスと笑いだした。
「それはすまなかった。‥‥では行こうか。私の全てで暖めてさしあげるよ、別当殿」

「‥‥‥‥‥当然だ」

ページ移動