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[翡幸]獲物

 京に平和が訪れた。
 しかしコトの詳細を知っているのは、一部の都人ばかりで。
 危険が迫っていることすら知らずに過ごしていた地方の民は、噂を聞いた途端に疑心暗鬼に囚われて、いつか我が身に迫るであろう危機に怯えだす。そんな得体の知れぬ恐怖を抱え、僅かな異変にも恐れおののく日々を送っていた。

 龍神の神子は京に在る。

 噂の出所はどうあれ、確かに我らが神子殿は元の世界への帰還を望まず、今も紫姫の傍に在るわけで。
 そこへ、どうしても収まらぬ怨霊騒ぎに泣きつく者があれば‥‥。
「行きましょう!本当に怨霊かもしれないもの」
 正義感の強い神子殿に見捨てられる道理がない。
 ‥‥‥ま、この性格ゆえに彼女は白龍の神子であると思えば、それも致し方ない。
 しかも困ったことに。
「そうですね。鬼の残党がどう過ごしているとも知れませんから」
 同じく帰還を望まなかった『歩く責任感』こと天の白虎‥‥私の対を見殺しにするわけにもいかぬわけで。
 正直云えば、怠いなぁ‥‥と。
 雪の深々と積もる僻地なのだから、せめて雪解けを待って訪れればよいものを。
「行きましょう、今すぐに!!」
 はぁ‥‥。
 変なところで団結する二人を止める手立ては、ないように思えた。


「怨霊では‥‥ないようだな」
 それはそうだろう。
 そう簡単にそのような騒ぎが起こせては困る。
 しかも。
 まぁ。
 オヤクソクという展開ではあるが‥‥。
「幸鷹さんが、私を逃がす為にっ」
 野犬に襲われただとか。
 外は吹雪だとか。
「助けに行かなくちゃ」
 力の抜き所を知らない神子殿は、天然で人を動かすからタチが悪い。
「休んでいなさい。私が行くから」
 それ以外の台詞があるのなら、誰か教えてくれまいか。
「そんなっ、みんなで探せば‥‥っ」
「泰継殿、神子殿の暴走は止められるね?」
「当然だ」
「泰継さんっ!!」
「‥‥‥神子殿、私を信じることはできないかい?アレでも一応、私の対だ。助けることが適わぬのなら、私は海賊を辞めると誓うよ」
 バカな約束だ。
 助けることができない時点で、私の命もないものと容易く推測できるのに。
「‥‥‥‥本当?」
 そんな冗談のような誓いも、馬鹿げているなりに本気である以上、軽んじることはできまい。
「誓うと言ったのだよ」
「うん‥‥。信じる」
「泰継殿、このような天候だ、どこかで夜を明かす可能性もある。‥‥神子殿を頼むよ」
「これを使え。私の式神だ。夜明けを待ち、放った場所へと向かう」
 それは便利だね。
「お借りしよう。‥‥それでは出かけるよ、私の可愛い白菊‥‥心配せずに、おやすみ」
 額に口づけると、泰継殿の視線がチリリと焦げて、楽しかった。


 吹雪の中の探索は、それほど長時間に及ばずに済みそうだった。
 小一時間も歩いた辺りで、野犬の雄叫びに届く。
 それは何かに刃向かわれてキャンと鳴くような声でもあり、戦闘意欲を刺激されているような声でもある。
 まったく、手のかかる人だね。
 こうなることが予測できたというのに、どうして私はあの時‥‥君の手を離してしまったのだろう。些細な口論などは気にせず傍に在ればよかったのにと、らしくもない『後悔』などを背負うのだから。
 本当に困ったものだ。
 そんな想いばかりを抱えると知っても尚、君への執着は薄れることもなく。
 何にも縛られず、ただ自由に生きていたいだけだと心に決めていた日々すら忘れるほど、君という命に縛られて。
 ‥‥‥いっそ捨ててしまおうかと思う。
 このまま、この白い雪の中に君を捨ててしまえるなら。
 凍てつく雪の中ですら汗を掻きながら足を進めている時点で、何を考えても無駄だと知っているくせに。‥‥滑稽なものだ。
 これが『翡翠』か。
 これが、あの私なのだろうか。
「楽しいねぇ‥‥」
 人生というものも、捨てたものではない。

 しばらく歩くと、野犬の群れに囲まれた姿を認めた。
 美しいね。
 どうしてそう思うのだろうか‥‥相手は愛らしい姫君ではなく、従順な少年でもなく。
「翡翠!!何をしに来たのですっ」
 可愛げのない青年だというのに。
「君こそ、何をしているんだい。神子殿に心配をかけて」
 滴る鮮血すら、私の欲を煽って止まらない。
「‥‥っ」
「私を困らせて」
「助けろなどと言った覚えは」
「黙っていたまえ。‥‥本当に、怒るよ?」
 向き直った野性の獣に、牙を剥く。
「退け。これは私の獲物だ」
 相当苛立っていた私の視線は、空腹の野犬にも有効らしい。
 勇み足で襲いかかる一匹を縄で振り払うと、ジリジリと下がりながら、やがて口惜しそうに消えていった。
「獲物とは‥‥なんですか‥‥」
 悔しそうな呟きを笑い飛ばす。
「そのままの意味だよ。ほら、掴まりたまえ」
 手を貸した腕の中で、傷だらけの『獲物』は意識を失った。


 このまま連れ帰るには、少々荷が重い。
 泰継殿の心遣いもあることだしと、途中に見た山賊の隠れ家らしき小屋まで担いで歩く。
「まったく‥‥手のかかる子供だ」
 生きていて良かったと泣き崩れそうな自分を笑い飛ばす。
 これが死ねば、私は自由だというのに‥‥‥そんな自由など、爪の先程も望んでいない自分に呆れる。
 しかし、それが真実なれば。

 辿り着いた小屋は既に破棄されたものらしく、薪の一つも残されていない廃墟だった。それでも雨風は凌げる。朝までの借宿としては上等な部類だろう。
「それでは泰継殿、朝には頼むよ?」
 式神を外に放って、幸鷹の様子を見る。
 傷を洗い流して持参した薬で毒気を抜く。‥‥これで効かぬのならば、命は保証できないが。
「このくらいの傷で終わるのならば」
 終わってしまえと薄く笑う。
 それまでの縁ならば、仕方もない。
「ひ‥‥す、い‥‥」
「なんだい?幸鷹」
 それが譫言と知りながら、髪を撫でる。
「翡翠‥‥来る、な‥っ」
 夢の中でまで可愛げのない。
「来るな‥‥翡翠、お前を‥‥失い、たく‥ない‥‥」

 これだから、困る。
 この男は、こういう恥ずかしい台詞を、死期に晒されて初めて口にするものだから。
 心底、腹が立つ。

 パチンッ

「‥‥翡翠‥‥‥?」
 加減をせずに頬を張った衝撃で目を覚ました生意気な男を、腕に抱き込む。
「独りで夢を見るものではないよ‥‥ほら、私はこんなに凍えている。その火照った身体で暖めてくれるのだろう?」
 傷のせいで熱を持った身体と、どれほど身に力を入れようと歯の根の合わぬ身体。君の趣向にそぐわなくとも、合わせておくのが道理ではないかと、冷ややかに睨み付ける。
「‥‥‥下手な真似をするんじゃないぞ」
「知らないね。そんな気力があれば、君の意識が戻る前に奪うだろうよ」
 腕を弛めて袖から腕を抜く。
 露わになった半身を晒して君を招けば、不本意な顔の君が習って服を弛める。着物を肩に羽織っただけの姿で腕の中に降りた君は、ブツブツと言い訳をしながら、この凍えた身体を暖めた。

「翡翠‥‥‥冷たい」
 それは、謝罪の言葉なのかもしれない。
「傷は痛むかい」
「ンッ」
 ペロリと舐め上げると、‥‥‥‥‥ハァア‥‥ッ。と燃えるような吐息を吐く。
「やめ‥‥ひす、いっ」
 苦痛に耐える顔がたまらなく色っぽくて、何度か繰り返してみる。
「無事に京まで辿り着いたら、大人しく抱かれてくれるかい?」
「そん、な‥‥、ぁあっ」
「了解するまで続けてあげようか」
「や‥‥めろ。っ‥‥んあぁっ」
 なんて色っぽい声を出すんだろうねぇ、傷口を舐めているだけなのに。
 本当に、このまま貫いてしまいたいほどだ。
「あっ、やめ‥‥わかった、から‥‥‥やめて‥っ」
「本当かい?」
「つあぁ‥‥っ、ん‥‥嘘ならば、奪えばいい」
「それでは意味がないのだよ」
 奪うことくらい、すぐにでもできた。
 それをしなかったのは。
「君から私を求めてくれなくては、ね?」
 言い訳をあげよう。
 君の命を救ったからと‥‥あの時の約束だからと‥。
 だから、君から求めてごらん。
「調子に乗る、な」
「私を失いたくないのだろう?」
「っっ」

「それほど隠していたい本音ならば、夢になど見るものではない」

 辛そうに、眉をひそめている君は‥‥何度も目を閉じて、苦しんだり、諦めたり。暇を持て余した私が髪を撫でるのを無意識に悦びながら。
 それほどまでに自分の心に集中して。‥‥さて、結論は?
「ん‥‥‥‥っ」
 言葉にしないまま、深い口付けが降りてきた。
 不意打ちとはいえ‥‥不本意なほど、心臓が跳ね上がる。
「私の身体など、好きにしろ。‥‥お前が求めるなら、くれてやる」
「それが答えかい?」
「男に抱かれたい男があるかっ、私は、ただ‥‥お前の傍に在りたいだけだ‥」
 情けないほど小さくなっていく告白は可愛いばかりで。
 まったく、君という人は。
「そうだね‥‥それでは、素直に頂こうか」
「今は、無理だっ」
「当然だろう、もうすぐ夜が明ける。コトの最中に踏み込まれるのは無様だからねぇ?」
 続きは京に戻ってから。
 いや、いっそ攫ってしまおうか。白く凍てつく世界とは無縁の、穏やかなあの海へと。
「翡翠‥‥眠い‥‥」
「眠ればいい。私が守っていてあげるよ」
「ん‥‥‥傍に‥‥‥いて‥‥」

 扉の外に気配を感じて、服を直す。
 そのまま引き渡した幸鷹は、しばらく傷に苦しんで、私はあろうことか足の指に霜焼けなどをこさえて。
「私も、若くはないねぇ‥‥」
 やはり暖かい伊予の海に、ワガママな恋人を連れて行こうと決めた。