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[翡幸]想双歌 〜02〜

 夏の終わり。
 打ち水よりも確実に大地を冷やしていく夕立が、先を急ぐ足を嘲笑うように行き過ぎるのを待つ。
 都会らしく整備された道を行く人は、皆疲れ切った顔で。
 座り込む人は皆、虚空の向こうの何かに縋り宙を見つめ、この世の全てを拒絶するように黙り込んでいる。
 生温かい風。
 だのに心は冷たく閉ざされていく。

 こんな日は決まって、暖かかった、あの海を思い出す。

 認めたくなどない。
 しかしここに足りないものは全て、あの地に存在したように思う。
 薄ら笑いを浮かべながら腹を探る言葉ではなく、もっと直接的な感情。浅はかな夢のような自由。風のように軽やかな‥‥。
 そうだ。あの地を具現化したような男がいた。
 ねじ曲がった根性とは対照的なほど、サラサラと長い髪。皮肉混じりの言葉に乗せられた真実は、なぜか心地よく心に響いて‥‥。
 翡翠。
 お前なら、今の京を何と言って笑うだろう。
 現実を受け入れて自らの力で変えていく程度の強かさも持たない、この腐った大地を。
 その中で独り踊る、無力な私を。

 噛み合わせた奥歯が、ギリギリと鳴る。
 馬鹿げたことだ。
 類を見ぬほどイイカゲンな、あの男の面影に縋るなど。
 ‥‥‥だが、翡翠。お前の意見を聞きたい。お前の皮肉を、お前の視点を、お前の、声を‥‥。

 早足に歩く。
 無心に歩く。

 京の中にいてはならない。公衆の面前で訳もなく不安に潰れるなど、許される立場ではない。些細なものであれ、私が崩れることは人々に今以上の不安を上乗せしてしまう。
 心を病んでいる、今の京を‥‥‥それでも私は愛している。
 苦しくて苦しくて苦しくて。
 それでも何か言い訳が欲しくて、後を追う部下に「見回りだ」と告げる。町外れの里に。ただ、胸に詰まった重い物を吐き出すためだけに。

「おやおや。この世の終わりのような顔をしておいでだ」

 背筋に走った悪寒のようなそれは、羞恥心。
 この男にだけは晒すまいと決めた顔を正面から見据える‥‥翡翠色の、髪。
 意地の悪い瞳が浮かべる、僅かに気遣わしげな気配。
「‥‥‥‥なぜ‥‥」
「なぜだろうねぇ。気付けば此処に居たわけだが」
 こんな時に限って。
 こんな。
 お前に逢いたくて、逢いたくなくて、お前のことばかり考えて、お前のことなど頭になくて、私が、私が私ではない時にっ。

 お前に逢うなら、もっと完璧な私であれば良かったものをっ。

 いつもはもっと涼しげな顔をして、真面目に仕事をしているっ。
 京の真ん中で、颯爽と仕事をこなしているっ。
 お前のことなど思い出す余裕もないほど実務に追われて。

 お前なんか、きらいだ!!!!!!

 子供のように叫んでしゃくりあげそうになる自分を、なんとか制御して、キツく睨み付けることしかできなかった。
 そんな私を満足げに見つめた海賊が、世にも奇妙な笑みを浮かべたのは‥‥‥まるで泣いているように、諦めたような笑みを零したのは。
 錯覚だといい。

「終わったかい。‥‥役目とやらは」
「さらに増えた」
「おやおや。朽ちた都と心中する覚悟なのかい?」
 朽ちた都。
 やはり、そう見えるか?
「それはここに住む者が決めることだ」
「そう。‥‥それでは、君は?」
 私は?
「そう、悪いことばかりでもない」
 京の民が信じる龍神とやらが、万能かどうかは知らない。
 だが。
 お前には、逢えた。
 今でなければダメだと思う時に、見事なほどに。

 これを希望と呼ぶのならば。


「風向きは、変わる‥‥」


 その時、何かが舞い降りた。
 ふうわりと優しい風が吹いて、首筋に焼け付くような痛みが‥‥。見れば翡翠も喉元を押さえて。
 わからない。
 それは予感と呼ぶに相応しい、曖昧な感覚。
「翡翠」
 一度だけ、名を呼ぶ。
 お前と私の運命が再び絡み合った事実を、確認するように。

 そのまま踵を返した背中に、微かな呼び声が掠る。
「ゆきたか‥‥」
 揶揄したように響く、官職の名ではなく。

 ‥‥‥‥幸鷹‥‥‥。

 まるでそれが、大切な名であるかのように。
 
 
 
 
 
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