声をかけるつもりなどなかった。
少なくとも、噂に聞くこの地の惨状を調べ尽くすまでは。そしてその中で幸鷹が背負う重圧を量るまでは。‥‥‥私は、君を連れ去るつもりで、ここまで来たのだからね。
だというのに。
声を殺して涙も落とさず、わなわなと震える肩に触れたくて‥‥。
「おやおや。この世の終わりのような顔をしておいでだ」
噛みつくように上がった顔から、一筋の光が跳ねた。
反射的に手で受けたそれは、透明な雫。
気分が悪い。
それが都であれ人であれ悲劇であれ、私以外の何者かに泣く君など、許せるべくもない。
「‥‥‥‥なぜ‥‥」
「なぜだろうねぇ。気付けば此処に居たわけだが」
このまま船に積んでしまおうか。
泣こうが喚こうが、その肩に負う全てを踏みつけて、君だけを攫ってしまおうか。
それができるなら、なぜにこうまで君を案じているのか。
まったく不愉快な話だ。不愉快な上に、冗談のような話だ。
‥‥これでは、笑うしかない。
残念だね、幸鷹。
君が私を捕らえることは不可能だよ。
捕らえられるのも楽しいかとは思っていたのだがね‥‥。
たった今、それは決してしまった。
君は私の獲物だ。
私という存在を思い出したか覚えていたか、幸鷹の瞳はあの頃と何も変わっていなかった。
きっとまたここでも、悪いものには悪いと告げ、長いものには巻かれず、叩かれながらも強かに生きてきたのだろう。
随分と、ふてぶてしい顔になった。
凛々しく立ちはだかる姿には、やはり興味をそそられる。君は何を感じて、何を見据えて生きてきたのだろうねぇ。
目を隠し耳を塞いで連れ去るのは、いかにも惜しい。
瞬きをする間にも、君を欲しがる心は「君を暴きたい欲求」に塗り替えられていく。
ばかばかしいほどに、愛しさばかりが溢れて。
「終わったかい。‥‥役目とやらは」
それを果たすために、私を捨てたのだろう?
「さらに増えた」
「おやおや」
ここまで腐敗した国で、言葉を失くした民を率いて、どれほどの事ができると?‥‥それでは君は、傷ついてばかりだろうに。
「朽ちた都と心中する覚悟なのかい?」
「それは、ここに住む者が決めることだ」
京の価値など、信じてもいないくせに。
「そう。‥‥それでは、君は?」
それほどに君が愛する都は‥‥君が愛する家族は、君を誑かし裏切り続けているのだと、いつか知ることになるのだとしても‥‥?
幸鷹は不意に泳がせた視線で、風を見つめていた。
何かに気付いたような柔らかな笑顔で。
「そう、悪いことばかりでもない」
無意識に、まるで無邪気な子供のように、まっすぐな瞳をして。その先にある風にすら嫉妬を覚えるほど、優しい声で。
「風向きは、変わる‥‥」
夢見るように言う。
一陣の風が木の葉を揺らして、紅葉色の帯を作る。
‥‥何かが、近づいていた。
このまま此処にいては、なにかとてつもない面倒事に巻き込まれそうな予感と。幸鷹の頬に差す、希望の朱色。