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[翡幸]伊予/幸鷹

 それは夢のような、ただ一度の恋だと信じていた。
 永遠を感じるほどに、その時の私は本気だったのだと‥‥そんな戯れ言は、終焉を迎えて初めて口にすることが叶う。
 だから貴様が目の前に現れた時。
 美しいと感じていた全てのものが、現実の沼の中に沈む幻影を、見ていた。


 眼下に広がる荒々しい海を見た時、なぜ『懐かしい』と感じてしまったのかは解らない。京で育った‥‥あまり外にも歩かなかった私には、それは馴染みのあるものではなかったはずなのに。
 突き詰めることなく「いつものことだ」と受け流す程度に、その『違和感』は私の一部となっていた。
「国主殿は、よほど海がお好きと見える」
 ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる、翡翠‥‥この海を統べる海賊の頭に『よほど私がお好きと見える』と口にせぬ反論を浮かべながら、歩み寄る。
「何か急な用事がありましたか」
 何もないだろうと予想はしても、念のため口に乗せておく。あとで『聞かなかったから話さなかったのだ』などと幼稚に策する狸に囲まれて仕事をしてきた私が、そこらの青二才と同列に並べられてはたまらない。
「用事というのが政に限定されるなら、何もないよ。私の用事は、君自身の話だからね」
 物好きな、海賊。
 知れば知るほど解らなくなる。
 この翡翠という男を知る者は全て『万事に於いて執着心の見えない男』と、口を揃えるが。
 これは『執着』といわないか?‥‥問いかけることは適わないけれど。
 正直に言えば、この男の持つ空気が嫌いではない。
 ただ、戸惑っている。
 この男の問いといえば、生まれは何処の、乳母はどんな女だの、そんな他愛のない‥‥それは国主としての私を量る言葉ではなく。
 悪気のない好奇心。邪気のない興味。
 スラスラと答えられれば、それでこの男の言う『用事』は、済むのかもしれない。
 だから戸惑っている。
 思えば、このように私自身に対する問いかけをしてきた人間は、記憶にない。まったく、完全に『初めての経験』なのだと気付いて、身震いをした。
 なぜだ。
 翡翠は特別なことを何も聞いていない。
 特別なのは『それらの質問を初めて受ける自分』の方なのだと、不意に崖から落ちるような心地になる。
 適当にはぐらかすこともできず、不安な想いが表に滲んだ途端、気付かぬほど自然に話が逸れていく。それが『気遣い』なのだと、一晩寝た後で気付くことなどザラだった。
 戸惑うほど、翡翠は優しい。
 だからこの男と言葉を交わすのは、気詰まりではない‥‥いや、端から口にするつもりなど無いのだ。素直に『初めて他人を心地よいと感じた』と、認めればいい。

 気付けば、笑っている時間が増えた。
 仕事と思えば、とても気を許せる相手ではないと気を締めていたにも関わらず。翡翠の差し出す腕も言葉も、空恐ろしいほど自然に私の中へと溶けていく。
 抵抗を‥‥‥する、必要を感じず。
 答えられない問いは、そのままでよいと。説明できない私自身を持て余すことなく、容易く抱える腕が心地よい。
 そう思えるほど、その時の私は素直にソレを愛していたように思う。

「帰るのかい?」

 だから、心底意外そうに不躾に問う翡翠が、理解できずに。
「当然だろう」
 この2年。翡翠の腕に甘やかされて、気付いたはずの私自身の『歪み』すら忘れていた私は、理解できない自分こそが間違えなのだと、あらためて自覚して、途方に暮れた。
 当然だろう?
 私は国主としての任を頂いて、ここへ来た。
 終われば帰るのが‥‥‥。
「私を置いて?」
 縋るでもなく責めるでもなく、私自身の心を問うように確認する翡翠こそが『正しいのだ』と理解できてしまった自分自身が、この心を壊していく。
 失う。
 心地良い波音のような囁きを、凪いだ海のような心の平安を、荒れ狂う波のような交わりを、私という器の全てを満たしていた存在を。
 翡翠を。
 ‥‥国主の任を解かれて京への帰還を命じられた時、私の中の執着はキレイに消え失せていた。
 それは失うものだから『忘れてしまえ』と、心の中にある何かが強烈に命じている。
 全て忘れてしまえと。
 その声に従い、何もかもを受け流して、これまで通り正しく生きていけば良いのだと、決めて来たはずなのに。
『帰るのかい?』
 当然のことを当然のように問うてきた男に、己の核を打ち崩されるような衝撃を受ける。
 当然だろう。‥‥そんなはずがあるか。
 愛して『いたのだ』と、昨日の今日で過去形へとすり替えることができるなんて。
 自分自身の心が『壊れている』ことに気付いて、震えが止まらない。せめてあと5年程この男の傍に在れば、私は変われたのかもしれない。
 手遅れだ。
 私は私の生き方を捨てない。翡翠は翡翠の都合で生きていくだろう。私達の道は分かたれてしまった。
 後戻りなどという選択肢を知らない。
 これが、私だ。
「もう行く」
 席を立とうと膝を半歩ほど下げた時、あれほど居心地の良かった強引な腕に引き戻されて、泣きそうになる。
「離せ」
「どうしてそれを許すと?‥‥君らしくもない」
 自覚はしている。
「貴様がその生き方を変えぬように、私は私であることを捨てる気がない」
 止められるものなら私を止めてくれぬものかと、遠くで思う。
「捨てようか。この海も、この名も。君が、そんな私を望んでさえくれるなら」
「ふざけるなっ。‥‥そんな貴方は認めない」
 捨てるべきはどちらかと。
 変えるべきはどちらかと。
 単純な問いを、どれほど繰り返そうとも。

 変わらぬ貴方をこそ愛しているのだと。
 そして翡翠は、ここで器用に自分を曲げられぬ私にこそ惹かれるのだと。
 それが残酷な現実。
 ならば二度と、その顔を見ることは叶わない。

 仕方がないでしょう。

 涙も見せずに別れた。
 それが最後だと信じていたから、貴方を愛し続けた。

 それまでの全てを受け流して忘却の彼方に置き去っていた私に、唯一残った『傷み』という名の執着。
 ただ一つ、強烈な苦痛を伴う記憶は、夢の中で生きていたような私に『痛み』という実感を与えてくれた。
 このままそれを抱えて生きると決めた私の前に。
「おやおや、相変わらず難しい顔をして」
「なぜ貴様が此処にいる!」
 飄々と現れた伊予の海賊は。
「心配せずとも、君に会いに来たわけではないからね?」
 大事に抱えていた全てを理不尽に叩き壊しながら、凍り付くように美しい顔で、不敵に笑った。