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[翡幸]伊予/翡翠

 まったくどうしたことかと笑いが込み上げる。
 この身に降りかかる火の粉が、おおよそ「らしくはない」私を生み出しては叩き壊して、また新たな私を形取る。その忙しないばかりの変化が楽しくて仕方がない。
 この腕から逃れようなどと、笑わせてくれる。
 災難だね、幸鷹。風を呼び嵐を起こして荒れ狂う海は、元を正せば私自身の咎でもあるのだが、こうなってしまっては己の手に負えるものではないのだよ。
 諦めて私のもとへおいで。
 それとも君に、私を止める手腕がおありかな。
 どちらにせよ君の中にある恋の思い出を叩き壊す私を、君は許すまい。会った途端に斬りかかられるとしても、身も蓋もなく拒絶されるとしても、それは燻る毎日とは比べようもなく魅力的なもの。
 怒りに震える君の顔をさえ焦がれてしまう心を笑い飛ばしながら、もうすぐ、君の住む都へと辿り着く‥‥。


 なんてことはない、ただの子供だった。
 仕事はできる。理論も正しい。人心を統べる術も、それなりに持ち合わせている。うら若い国主殿としては、奇跡的なまでに合格点だ。
 ここまで卓出した手腕をみせる子供が、万事に於いて優れているという例を知らない。
 仕事にかまけて生きてきたのなら、人生の楽しみをかなぐり捨てているはずで、それでは人としてつまらない。それすらも手にかけているなら、休息を知らぬ生き物なわけで、忙しなくていけない。
 さて、この男は何を落として此処まで来た?

 ありふれた上に些細な好奇心だった。
 特別なものなど何も感じない、良い退屈しのぎがやってきたと笑う程度の。
 全てこの手の中で解き明かしてしまえば、後には何も残らない。女が花占いを気取って花弁を散らかすような、残酷な遊び。
 それを純粋に楽しめたのは、月が元の形を取るまでの一月程だった。
 聞いた質問に答えを渋る姿が、私への警戒心などではないのだと気付いたのが、最初の関。むしろ答えに困らぬ問いには『身を守ることを知れ』と叱りたくなるほど無防備な言葉を返す。
 それは別の‥‥もっと穏やかな質問を、幾つかやり過ごしてしまった贖罪とでもいうように、特に恥じ入ることもなく、まるで粉飾に興味など無いと言いきるように、あっさりと。
 その高潔な居住まいは好ましい。しかし無自覚な幼さが危うくて、つい引き込まれそうになる。
 そんな遊びが『遊び』と割り切れる範囲を踏み越えて、執着へと‥‥恋情へと色を変えていくのを、他人事のように感じていた。
 どうしようというわけでもない。欲するものには手を伸ばす。叶わないなら終わる。恋など、その程度のものだろう。どうせ死ぬまで生きるのならば、そこまでどう生きようかと思い悩む意味もない。
 はたしてどうかと反応を楽しみながら、身難そうな男を試すように組み敷けば。
「私に色事の経験を求めるな」
 未知への恐怖ではなく、無知を恥じらうように呟いた。
「‥‥怖ろしくはないのかい?」
 白々しく聞いたところで、それに対する疑念もなく、己を吐き捨てるように笑う。
「生娘でもあるまいし」
 経験が皆無だというのなら、それは生娘と例えてもよい所と思うが‥‥。
 わざわざ指摘して怒らせる必要もないか。
 遠慮無く手を伸ばせば、与えるままの熱を素直に感じて、戸惑いのままに縋り付く。不慣れな刺激には、取り繕うこともなく取り乱して。覚えた手順を試すように身を投げて。
 これは確かに生娘ではないね。
 無駄に恥じらうことも欲情を押し隠すこともしない、毅然とした艶姿に魅入られて。
 いつの間にか、私が君に囚われていた。
 昼間は禁欲的なまでに理路整然と仕事に取り組み、夜は己の懸隔を楽しむように舞い踊る。
 甘い言葉を知らぬ君が、視線や吐息や時折見せる油断の中‥‥言葉ではない全てで、愛を語るから。
 油断していた。
 恋に溺れることなど、この私に限って有り得るはずがないと。
 君は私以上に、この恋を必要としていると。
 だから決して離れる未来はないのだと決めつけて、それを信じていた。

「帰るのかい?」

 すっかり感情の抜けた瞳を見て、唖然とする。
 追いかけて来いとも、申し訳ないとも、切ないとも悲しいとも。おおよそ未練たる未練を感じさせない瞳は、君が押し隠しているせいというわけでもあるまい。
 君が周りの評価よりよほど素直な男だと‥‥この確信を、どう覆せばよいのか解らない。
 いっそ君を知らなければ良かったとさえ思う。
 君を誤解して、そんなはずはないと信じることができれば、これほどまでに突き落とされる気分は知らずにいられただろう。
 だから幾つかの言葉を交わす間に、君の中に感情が降りた瞬間、私はそれに形振り構わずしがみつくことしかできなかった。
 離したくないのだと。
 君が私を必要としないとして、そこで通りよく頷けるほど大人ではない。己の中に眠っていた聞き分けの悪さを苦く笑いながら、嫌がる君を抱き寄せる。
「貴様がその生き方を変えぬように、私は私であることを捨てる気がない」
 生き方になど、拘りはないよ。
「捨てようか。この海も、この名も。君が、そんな私を望んでさえくれるなら」
 ただ、こうするしか知らなかったのだと思い至って、私は初めて自分という男を理解した。
 ここで生きるのは、心地よい。
 何に興味が湧かずとも、人の無知を教えるような海原を前にしては、全てが腹に落ちる。四の五の言わずにただ生きろと、浮世の不安を叩き壊す、壮大な自然。
 それが私の持つ全てならば、君のために捨ててみせよう。
「ふざけるなっ。‥‥そんな貴方は認めない」
 だけど君は、そんな私を望まない。
 それでは、どうすればいい?

 わからないまま手放した。
 浜辺の砂が指から零れるのを止める手立てなど思いつかぬまま。

 消えた穴を埋めるように女を抱いて、その度に君を感じて。
 ある日ふと、なぜ逢いに行かぬのかと。
 何を捨てることも厭わない。無様に愛を乞うことを恥とも思わない。君への興味も執着も薄れることがない。
 ならばなぜ、私は此処に留まっているのか。
「馬鹿らしい‥‥」
 声にして笑う。
 何を捨てるも何も、君以外に何も持ってはいないじゃないか。
 生きれども生きれども、君以外に執着を感じる存在に出逢うこともない‥‥このまま燻り果てて逝くなら。
 ここまで私を壊した君を、壊しに行こう。
 綺麗なままで終わりたいと愁うほど、私は若くはない。
 君の理想の男にはなりたくない。

 さあ、君のうつつを教えておくれ。