食べるという行為は、老若男女…善人悪人の別なく、全ての人間に共通している道楽なのかもしれない。ふとそんなことを考えたくなるほどに、譲くん達が切り盛りしている蕎麦屋は、奇妙な縁を取りもっている。
[江戸遙か]闇を駆る者
この近辺で小さな仕事を重ねながら、闇の動きを探る日常。相棒となる男は腕の立つ薬師…名を『弁慶』という。けして隙を見せず跡を残さず…完璧な仕事をする者だ。
そしてそんな俺たちを追う、ここいらの岡っ引きを一つに束ねているのが『九郎』という通し名を持つ若者だった。
やり口は巧妙。勘も悪くない。なんといっても足が速い。…しかし捕り物の腕よりも警戒しなきゃならないのは、彼の持つ人望の厚さかと思う。
今までも幾つかの町を相手に仕事を重ねてきたが、この一体の連帯感は奇妙な感覚さえある。何か異変があれば九郎へと情報が集まる…そんな仕組みを謀らずに作ってしまうのは、この男の持つ魅力の成せる業かもしれない。
「また来ていたのか、景時。お前も相当な蕎麦好きだな」
カラカラと笑う笑顔には影が無く、本当に命をかけた修羅場をくぐり抜けてきた者かなのかと驚くほど。
「ふふふ。…九郎、本当にわからないんですか?景時さんが好きなのは蕎麦ではなくて」
「おおっと何を言いだすかな、弁慶先生~?」
唐突な攻撃に、鼻から蕎麦を噴きそうになる。
こんな話を譲くんに聞かれたら、二度とこの店に近づくことはできないというのに。
「照れていらっしゃるんですか? いいじゃないですか。兄弟愛というのは美しいものですよ」
「兄弟………あ、ああっ、そうだね。確かに朔のことは心配だよ~。悪い男に騙されちゃったら大変だしね~」
冷や汗がドッと噴き出るのがわかる。確実に気付いて言っているのだろうと判ってはいるが、一々に反応してしまう自分の立場が悲しい。
「そうか。確かに朔殿ほど美しい妹子では、悪い虫がつきそうでおちおちしてはいられないな」
生真面目に頷く九郎の言葉は、本当にそれ以上の含みを持たないことに気付いた。…ある意味、凄い。弁慶とは対局に在るのかもしれないと感心している視線の前で、痴話喧嘩のような軽口が飛び交う。
「悪い虫……貴方ではないと言い切れるのでしょうか」
「あたりまえだっ、むしろ美しい娘子とあらば誰彼構わず手を出す、お前のような奴に言われてはかなわん」
「心外だな…。僕はお付き合いする方は大切にしていますよ? 九郎のように固く考えていては、添い遂げる相手など一生見つからないでしょうね」
「うるさいっ。今はそれより大切なことがあるんだ」
「大切なこと?……あなた一人が頑張った所で、江戸から盗賊が一掃されるワケはないでしょう? ならば身を固めて血を残すことも、大切な役目かと思いますが」
「お前の頭の中は、それだけなのかっ」
「まーまーまーまー」
止めないと、いつまででも続けていそうな雰囲気は、…仲が良いと言うべきなのか。
「ありがとうございます、景時さん。そろそろ俺が止めに入らなくちゃいけないかと聞いていたところなんですよ」
「譲くん………」
賑やかで活気に溢れた店の空気が、一転する。
視界の端で忍び笑いをする弁慶の姿に気付いても、取り繕うことすらできないほど、俺の目を奪う…君。
「どうかしましたか?」
優しく瞳を覗き込んだ君は……毎夜、俺の夢に現れる。
その柔らかな瞳を涙で濡らして、その美しい肢体をしならせて、その温かい声で悲痛な歌を奏でながら、俺の身の下に、いる。
罪悪感に震えて……それでも俺は、君を求めて此処へと足を運ぶ。救いようのない奴だと自覚しながら、悪びれもせず君の瞳を見つめる。
「どうも、しないよ?」
このくらいの嘘は簡単につける。
どれほど自分が汚い人間なのかは、知っている、解っている……とっくに諦めてしまった。
「そうですか。それならいいんですけど」
翳りのない笑顔。
君が、この闇を知ることのないように……今はそれだけを願ってやまない。
小説TOP ≪ 戻ル || 目次 || 進ム