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[江戸遙か 03] 闇を駆る者

 食べるという行為は、老若男女…善人悪人の別なく、全ての人間に共通している道楽なのかもしれない。ふとそんなことを考えたくなるほどに、譲くん達が切り盛りしている蕎麦屋は、奇妙な縁を取りもっている。

 

[江戸遙か]闇を駆る者

 

 この近辺で小さな仕事を重ねながら、闇の動きを探る日常。相棒となる男は腕の立つ薬師…名を『弁慶』という。けして隙を見せず跡を残さず…完璧な仕事をする者だ。
 そしてそんな俺たちを追う、ここいらの岡っ引きを一つに束ねているのが『九郎』という通し名を持つ若者だった。
 やり口は巧妙。勘も悪くない。なんといっても足が速い。…しかし捕り物の腕よりも警戒しなきゃならないのは、彼の持つ人望の厚さかと思う。
 今までも幾つかの町を相手に仕事を重ねてきたが、この一体の連帯感は奇妙な感覚さえある。何か異変があれば九郎へと情報が集まる…そんな仕組みを謀らずに作ってしまうのは、この男の持つ魅力の成せる業かもしれない。
「また来ていたのか、景時。お前も相当な蕎麦好きだな」
 カラカラと笑う笑顔には影が無く、本当に命をかけた修羅場をくぐり抜けてきた者かなのかと驚くほど。
「ふふふ。…九郎、本当にわからないんですか?景時さんが好きなのは蕎麦ではなくて」
「おおっと何を言いだすかな、弁慶先生~?」
 唐突な攻撃に、鼻から蕎麦を噴きそうになる。
 こんな話を譲くんに聞かれたら、二度とこの店に近づくことはできないというのに。
「照れていらっしゃるんですか? いいじゃないですか。兄弟愛というのは美しいものですよ」
「兄弟………あ、ああっ、そうだね。確かに朔のことは心配だよ~。悪い男に騙されちゃったら大変だしね~」
 冷や汗がドッと噴き出るのがわかる。確実に気付いて言っているのだろうと判ってはいるが、一々に反応してしまう自分の立場が悲しい。
「そうか。確かに朔殿ほど美しい妹子では、悪い虫がつきそうでおちおちしてはいられないな」
 生真面目に頷く九郎の言葉は、本当にそれ以上の含みを持たないことに気付いた。…ある意味、凄い。弁慶とは対局に在るのかもしれないと感心している視線の前で、痴話喧嘩のような軽口が飛び交う。
「悪い虫……貴方ではないと言い切れるのでしょうか」
「あたりまえだっ、むしろ美しい娘子とあらば誰彼構わず手を出す、お前のような奴に言われてはかなわん」
「心外だな…。僕はお付き合いする方は大切にしていますよ? 九郎のように固く考えていては、添い遂げる相手など一生見つからないでしょうね」
「うるさいっ。今はそれより大切なことがあるんだ」
「大切なこと?……あなた一人が頑張った所で、江戸から盗賊が一掃されるワケはないでしょう? ならば身を固めて血を残すことも、大切な役目かと思いますが」
「お前の頭の中は、それだけなのかっ」
「まーまーまーまー」
 止めないと、いつまででも続けていそうな雰囲気は、…仲が良いと言うべきなのか。
「ありがとうございます、景時さん。そろそろ俺が止めに入らなくちゃいけないかと聞いていたところなんですよ」
「譲くん………」
 賑やかで活気に溢れた店の空気が、一転する。
 視界の端で忍び笑いをする弁慶の姿に気付いても、取り繕うことすらできないほど、俺の目を奪う…君。
「どうかしましたか?」
 優しく瞳を覗き込んだ君は……毎夜、俺の夢に現れる。
 その柔らかな瞳を涙で濡らして、その美しい肢体をしならせて、その温かい声で悲痛な歌を奏でながら、俺の身の下に、いる。
 罪悪感に震えて……それでも俺は、君を求めて此処へと足を運ぶ。救いようのない奴だと自覚しながら、悪びれもせず君の瞳を見つめる。
「どうも、しないよ?」
 このくらいの嘘は簡単につける。
 どれほど自分が汚い人間なのかは、知っている、解っている……とっくに諦めてしまった。
「そうですか。それならいいんですけど」
 翳りのない笑顔。
 君が、この闇を知ることのないように……今はそれだけを願ってやまない。
 
 
 
 
 
 
 
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[江戸遙か 02] 君は日溜まり

「確か、この辺じゃなかったかな~♪」
 フラフラと歩いていると、まるでオヤクソクと言いたげに打ち水を浴びた。

 

[江戸遙か]君は日溜まり

 

 鼻歌なぞ口ずさみながら賑やかに歩いていた所へ…ちょっと酷いんじゃないの~?と声をかけようと顔を上げるのより一歩早く、悲鳴のような声があがる。
「うわっ、すみません!!!!」
 自分のような身分の低い『侍風情』には、町人の態度も悪い。
 こんな目に遭うことも稀ではないが、謝るどころか怒鳴り散らされることすらある。
「すみません、俺、ボーッとしちゃって。あの、お急ぎでなければあがってください。すぐに乾かしますからっ」
 …………驚いたな。
 有無を言わせず連れ込まれた先は、目的地である蕎麦屋。
 しかも景気が良いとはお世辞にもいえない中、驚くほどの客入りだ。
 昼時はとっくに過ぎて、打ち水をするほどの時間というのに。
「すごいね~。そんなに美味しいの?」
 店に入ったとたん元気の良い娘に掴まり、奥へと引っ込んだ後ろ姿を追いながら、近くに座った客に話しかける。
「蕎麦は10人並ってトコだな。まー不味くはないよ。なんせあんな別嬪さんが運んでくれる蕎麦なら、味なんざ何とでもならぁ」
 ゲスな笑い声を響かせる男共に囲まれて、その『別嬪さん』の一人に数えられているらしい身内が、奥から飛び出してきた。
「兄さん。まったく……また前も見ずに歩いていたんでしょう」
 なるほど、前掛けをしてパタパタと近寄る姿は、なかなかの別嬪さんかもしれない。
「朔ってば、手酷いな~」
「そうですよ、俺が悪いんです。仕事がたて込んでいたものですから、上の空で、つい力が入りすぎてしまって…」
 申し訳なさそうに俯く少年の姿を、改めてまじまじと見つめる。
 濡れた裾を手拭いで丁寧に叩きながらも、真っ直ぐと伸びた背筋。几帳面に引き結ばれた唇。
「もういいよ。朔の言うとおり、ボーッとしていた俺が悪いんだから。ここまでしてもらって申し訳ないくらいだよ」
 実際、この程度のことなら『歩いていれば乾く』と笑ってかわしていたところだ。
 ……なぜ、掴まった?
「そんなことありませんっ」
 膝をついたまま、まっすぐに見上げてきた瞳。

 これだ。

 金縛りにかかったように、動きを封じられる。
 どんな相手にも止まることなく滑り続ける軽口が、この瞳の前では止まってしまう。
 今までどんな会話をしていたのかすら、一瞬のうちに忘れて…。
 名前は、なんていうの?
 ここで働いているの?
 簡単な質問すら口に出せず、狼狽える。
 こんなことは初めてだ。これが敵なら俺はもう死んでいるかもしれない。
 ふわ…。
 声を失った俺を許すように、慈悲深い笑顔が花開く。
「朔さんのお兄さんだったんですね。…それじゃここが、貴方のもう一つの家になるかな」
 い、え……?
 不思議なことを言う唇を見つめていたら、吸い寄せられるような心地になって焦ってしまう。
 さっきから……何か、おかしい。
「どういうことかな?」
 何でもないことのように喋るのが、こんなにも苦しいなんて。
「ふふ。うちの姉が、しょっちゅう朔さんの所に入り浸っているんですよ。なかなか賑やかだから眠れないんじゃないかと思って。…そんな時は我慢せず、ここに逃げ込んできてくださいね」
 楽しそうに冗談めかしている笑顔につられて笑う。
「それは大変だ。娘さん達の華やかさは、とても男がついていけるものではないからね~」
「景時さんもそう思いますか」
 笑い声に紛れて普通に呼ばれた名前に焦る。
 朔が教えたのだろうと判っていたのに。
「名前、知ってたんだね」
 もっと呼んでほしいだなんて……ホント、焦る。
「うわ、すみません。朔さんから伺っていて…俺、年下なのに、つい気易く」
「あ、いーのいーの。肩凝る呼び方されると困っちゃうしさ。そのままで頼むよ~。…君のことは、なんて呼んだらいいかな」
 ただ名前を聞くだけのことにドギマギしている自分が滑稽だ。すぐに返ってこない言葉を待つ数瞬。頭に血が上っていくのが判る。
 不自然だったか。もう少し話をしてから聞くべきだったか。何かおかしな言い回しをしただろうか。
「…げ時さん、景時さん」
 肩にかかる手の重みに過剰反応する身体。
 気付けば視界いっぱいに広がる真っ直ぐな瞳に射抜かれて、息をすることすら忘れてしまう。
 大変なことに、今気付いた。

 俺は、この人が……好き。

 呆然とする。
 真正面から気遣わしげに見つめてくる、日溜まりのような視線。
 柔らかな陽光を想わせる笑顔。
 空へ向かい真っ直ぐ伸びる竹のような佇まい。
 俺の中にない、昼の陽差しを持つ君。
「突然ボーッとして……大丈夫ですか?俺のことは譲と、呼んでくださいね」
 譲くん。
 初めて知った名前に、これほど優しい響きを覚えるなんて。
「譲くん……」
「はい。なんですか、景時さん」
 譲くん。譲くん。……もっと何度も呼びたい。
 オカシイ。
 人の血を浴びながら生きる、この身が。
「あ、いや……よろしくね」
 オカシイ。
 幸せを求めること自体が。
「ええ。よろしくお願いしますね」
 オカシイ。
 人を好きになるなんて。

 その後、何を話したのか覚えていない。逃げ帰るように家に辿り着き、布団の中で震えていた。
 求めてはならない光に焦がれる罪に、心を引き裂かれながら。
 求めてはいけない人の姿が、目蓋に焼き付いて……いっそこの目を抉りだしてしまおうかと悶えながら。
 
 
 
 
 
 
 
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[江戸遙か 01] 臆病な侍

 闇を駆ける者。
 求めることを諦めて、業に従うばかりの悲しい男がいた。
 闇に溶け存在を消した姿で、罪のない者を殺める…それすら己の意志になく、ただ命じられるまま求められるままに人を金を…全てを奪い、闇に生きる者。
 その瞳に光はなく、ただ生きるのみ。
 そのはずだった。
 出逢いの妙が運命の軸を叩くまでは…。

 

[江戸遙か]臆病な侍

 

「この辺りでの仕事は初めてですか。それでは僕が案内を務められるといいんですけどね」
 人当たりの良い笑顔で憂いなく囁く顔を、驚いて見つめる。
 それはこの辺りで頼りにされている薬師の大先生…貧乏な者からは必要以上に金を取らず、しかし金を持て余す身分の者からも信頼され大金を積まれる腕の持ち主だ。
 まさか裏家業になど関わるはずもない。
 何かの間違えかと思いとぼけて見せると、気を悪くした風もなく邪気のない笑顔で否定された。
「疑う材料がありませんよ。頼朝公からは貴方の素性と今回の仕事内容が届いています。もしも僕が味方でないのなら、それこそゆゆしき事態と思いませんか」
 確かにその通りだ。
 しかし…裏の顔を持つ以上、表の顔というものは誰しも持つものといえ、ここまで陰のない見事な顔を持つ人間を知らなかった。
「いや~、吃驚しちゃったな。朔から噂を聞いてたお偉い先生が、まさか、ね」
「それを言うなら僕の方が驚きましたよ。朔さんには常日頃からお世話になっています。こちらの家業も因果な商売でして、患者の重なる日などは無償で手伝いに来てくれる娘さん達の手が、どれほど有り難いものか…。あの人は、陰のない優しい娘さんですね」
 腹違いではあるが大切な自慢の妹を、手放しで褒められて悪い気のするはずがない。しかも一つの土地で長く続けていられるということは、それだけ腕がたつということだ。
 久々に戻った故郷での仕事は、せめて相棒に恵まれたと確信して、胸を撫で下ろす。
 本当は、帰ってきたくなどなかったのだ。
 闇に身を落とした自分を知らず優しく迎えてくれた故郷で、また自分は罪を重ねねばならない。
 罪の息苦しさに身悶えながらも、腹が鳴る。
 人間とはどこまで身勝手な生き物なのだろうと呆れて笑いながら、朔が働いている蕎麦屋へと足を運んだ。

 どんなに苦しくとも、死を選ぶことすらできない。
 自分を庇って死んだ母の最後の言葉が、己を戒めていた。

『景時、生きなさい。死ぬほど辛いことなんざ、腐るほどある。……生きなさい。血反吐を撒いても生きなさい。命ある限りは、母の後を追うことを許しません』
 
 
 
 
 
 
 
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