書き下ろし同人誌[甘い贅沢]に完全リンクしています。ネタバレ以前に読んでいないと解らないネタも含まれていますので、ご了承下さい。

 甘い誘惑 05


 -甘雨-









 静かな、部屋だ。
 つい先刻までの、騒がしいと説明するよりも尖った空気で満ちたアレは嘘のようで。
 己一人しかいない部屋なのだ。それは静かで当たり前だった。だが、その静けさは殊の外小十郎の身に沁みた。
「……」
 どうすればいいのかと部屋の真ん中で正座をしたまま床を眺める。春が近いとはいえ板の間は体温を確実に奪ってゆくだけで何も与えてはくれない。それでも、どうすればいいのかと答えが出ず動けない気持ちと同様、身体も石となったように動かない。そして、このまま全てが止まってしまえばという気持ちにもなって。
 その想いこそ狡いという事は百も承知だ。
「……」
 さわさわと降り注ぐ雨音に誘われるように目を閉じる。閉じた所でまた変わらないのだが。
 ただ静けさと、肌寒さが四肢の指先まで──
「!?」
 驚き、ハッと目を開ける。突然、何の前触れもなく背に感じた温もりと柔らかさに振り返ることもできず、首も動かせず、ただ視線だけを見えない自分の背を見るように小十郎はゆっくりと動かした。
 気配が全く読めなかった。人の気配に気付かないなどそれほど落ち込んでいたのかと一瞬思うが違う。これはもっと“仕方のない”理由だ。
 時折特定の人物の気配に酷く疎くなる。背中に当たる感触はその特定の人物の背。しかし、この突然現れたような気配を考慮すると、
「……権現さ」
「なんだ色気のない。しおらしく“政宗様”といえねぇか? そうすれば慰めてやったものを」
“ふんっ”と息を吐いた振動が背中を伝った後、ずしりと背中に重みがかかる。背中合わせにわざと力を入れて凭れかかられた。その行為に心が解され、自然と笑みが浮かぶ。自分は酷く現金だと。
「いかがなされましたか?」
「“いかが”がなければだめか?」
「そういう訳では──ないですが」
「なら良いだろう。それとも……こんな姿を“政宗”に見られては困る。とか?」
「……」
 答えに戸惑った。なんと答えてよいのか解らず。もっと言い換えれば、返す気力もなくなっていたと言うことが正解で。
 微笑みながら俯く。すると程なくして背にかかっていた重みがなくなり、顔を上げ振り返ろうとしたが、途端背後から覆い被さるように抱きつかれ、左耳の裏の付け根に唇を柔らかく押し付けられた。
「権っ」
「慰めてやろうか? 俺が」
「!?」
「そうすれば少しは気持ちが軽くなるだろう?」
 耳に声と息の振動が伝わり、ぞわり、毛が峙つような感覚が全身を駆け抜ける。
 別人で、同一の人物の誘い。
 小十郎は皮肉な笑みを唇に作った。
「よして下さい」
「固い奴だな」
「違います」
「?」
 抵抗しない玩具と思っていた彼は、悪戯に男の耳朶を噛もうとした瞬間に振り返られ、抱きついたまま驚いて顎を引く。
 振り返った小十郎の顔は至極真面目だった。そして真面目に一言言い放った。
「私は、貴方なら躊躇いも罪悪もなく抱く事が出来るからこそ申し上げております」
 真顔の発言に彼は少しの間面食らっていたかと思えば、プッと思わず吹き出し、振り向いたことによって見えた小十郎の頬の傷に唇を押し当てた。
「本当、肉の一片もなく食い尽くされてしゃぶり尽くされそうな顔だな」
 茶化すような言葉にも表情を変えることなく、唇が離れてゆくのをジッと眺める男に、彼はニコリと笑顔を讃えた。
「──いい顔だ」
 一つ間違えれば男の表情は怒りとも取れるような強い意志が覗く。それに対しもう一度、彼は満足気に笑った。
「そう、俺は“政宗”だ。だからお前にも魔が差すだろう。だが確かに罪悪も躊躇いも生まれないだろうな。お前の“政宗”ではないからな」
 そう。小十郎の目は強く、誘惑としての彼を追い払う瞳だった。それはもう既に男の心が“政宗”という存在に奪われている証拠であり、彼にしてみれば可愛らしい抵抗に見えた。
「抵抗してまで愛しいか──冥利に尽きるな」
 巫山戯た訳でもなく呟かれる声に、小十郎の緊張が解かれる。
「権現様……」
「だからお前はかわいいのだ。あぁもう、俺の方が喰らってやりたい」
「権現様っ」
 気を緩めれば又もぎゅっと抱きついて、耳元に口付けの音を軽く残す。
「安心しろjokeだ。いやjokeでもないか。……半々?」
 小十郎が呆れの溜息を吐いたところで、やっと彼は小十郎から離れる。それに合わせ彼に向かって向きを正した後、小十郎は深々と頭を下げた。
「頭を下げる事は望んでいないぞ」
「しかし」
「石頭。」
「っ」
「頭を下げるくらいならその辛気くさい顔を何とかしろ。やってられん」
「……」
 顔を上げ、改めて小十郎は彼の顔を見る。
 紛う事なき愛しい姿でありながら、葛藤は生まれない。それはまさしく誤魔化しきれない己の答えだった。
「知ってはいたが、困った男だなぁ。お前は」
「はぁ……」
「言っておくが、なにも俺は“犯れ”って言ってる訳じゃねぇぞ」
「……」
「……なんだその、疑り深い目は」
「は、まぁ、いえ……」
 ふぅと、どちらからともなく調子を合わせる溜息が漏れる。
「世の中には立前がゴロゴロしてる。そんなお綺麗な、都合の良い立前の中を渡っていくのが、おかしくも悲しいかな人の人生でもあるさ。そんな事は解ってる。どう聞いたって嘘だって言う立前を、何十何百何万と聞いてきた……そして、言ってきたんだからな」
「……」
「だからこそ、人の芯を欲するのは自然の成り行きだろう? 特に、傍に居て愛しい者の真が知りたいのは、何か間違って不自然か?」
「……いえ」
「ただ相手を知りたいだけ。その上で己も素直になりたいだけ……素直になって欲しいだけ。……間違いか?」
「……いえ……」
 降っている、柔らかい雨のように言葉が優しく降りてくる。そして沁みる。
 無意識に逸らしていた視線を不満に思ったのか、彼は小十郎の両頬を持つと、降る雨のように額と鼻先に柔らかい口付けを落とし、微笑む。
「可哀想だなぁ“政宗”は」
「はい?」
「これも出来ないんだぞ? 愛おしいからこそ施したい口付けも」
 愛しい、誘惑の塊が笑う。
 耐えられぬよう小十郎が答えず目を閉じると、その瞼に口付けて彼は手を放した。
「その罪悪も躊躇いも、お前の心が解っているからこそ愛おしさに変わるが……残念ながら“政宗”は知らない」
「……」
「さて、お前のやるべき事はなんだ? 小十郎?」
 また黙り込んでしまう。狡いと解りながら。そして彼はその態度を責める訳でなく微笑む。
 まるでその表情しか出来ないように微笑み続ける。
「“俺”の褒美は“片倉小十郎”という魂だ。それはお前の政宗も変わらない」
 くしゃり、と、彼は躊躇いなく小十郎の髪の中へと指を差し込んで頭を撫でる。
 サワサワと優しく地を潤す雨は、小十郎の胸にも降り注いでいた。









   ■□■


 最後に花押をしたため筆を置いた時、ぎちっと身体の関節が鳴ってはたと我に返った。今何時かと珍しく設置した時香盤を覗く。慣らした白い灰の中で、燃え尽きた抹香の真新しい灰が丁度昼だと教えてくれる。
 普段は時香盤など使わずとも小十郎が頃合いを見計らい、声をかけてくるのだが、それとは別に気分転換にでもなるかと使用してみた。すると思った以上に抹香の配合が気分と合ったらしく、随分と集中して仕事をこなせた。その証拠のように机の端に置いてあった盆の上には、済ませた書類が見事な山となって積み上がっていた。“ま、やりゃぁ出来んだよ”と自画自賛しつつ……溜息が零れた。
 ──ただの現実逃避じゃねぇか。
 現実逃避に仕事を選んだのはいい選択だろう。しかしそれが捗るのは健康的なのか、非健康的なのか。
「……」
 朝、小十郎の顔をまともに見ることが出来なかった。
 何があった訳ではないが、勝手に自分の作った想いのドツボへ落ち込んでしまい、どうしても顔を見ることが出来なかった。
 感情を押し付けようとしていた自分の浅ましさに合わせる顔がなかった。運良く……と言うべきかどうかは解らないが、小十郎の方もあまり政宗の方を窺い見なかった気がする。
 そして、その現実を忘れるための仕事がそれはもう捗って捗って。
「……」
 やり遂げた仕事の量を見て“はぁ”と溜息が零れる。つまり、そこまでして忘れたいほど……
 ──重症。
 他人事のように結論付けて、どこでなく前を見る。本当の所は結論が出た訳でもなく、すぐさま自分の気持ちが何とかなるものではない。ただ何を優先したいのかと言えば、自分の中に芽生えた感情と同様に相手の感情も尊重したいという思い。からこそ、己が大事としなければならないのは、自分の感情に振り回されないこと。
 自分の中に生まれた初めての感情を乗りこなそうとするなど無理な話だと薄々気付いてはいるが、想うからこそやり遂げたかった。
 初めての、恋なのだ。そして無意識のうちに温め続けた恋なのだ。大胆にも臆病にもなる。
 ぶんぶんと頭を大げさに振って惑う意識を振り払い、深呼吸をして気合いを入れ直す。別に嫌われた訳では無い。まだ何も始まってすらいないのだ。まだ何も。疑うのも結論も早いのだと自分に言い聞かせる。
 気分転換もかね、声がかかる前に厨でも覗こうかと障子に目をやり、ドキリと心臓が跳ねた。
 雨のため暗い外ではあるが、薄明るい光を受けて障子にぼんやりとした人影が映っている。輪郭はぼやけているものの、背筋をピンと伸ばし座っている事がよく解る。
 誰か解った。
「小十郎っ!?」
 がたっと慌てて障子の方へと身体を向けたおかげで体勢を崩してしまい、四つん這いのようになって障子を仰ぎ見る。しかしよくよく何を慌てているのか。そしてそこに小十郎が現れたという“いつもの日常風景”で心躍らせている自分が冷静でないことを察し、政宗は慌てて姿勢を正し「こほん」と息を吐いた。
「小十郎、どうした。用があるなら入れ」
 冷静に障子の影に言うが、影はピクリとも動かない。
「? 小十郎?」
「……」
 小十郎に間違いはないはずだ。影の形も、気配も。そして別人であればすぐに訂正が入るはず。
 薄曇りのぼんやりとした光からできた影。だからといってそれを自分が見間違える事などない。
「小十……」ともう一度呼びかけて気付いた。気付いて、唇を引きつらせるように政宗は笑った。
「──もう一人の小十郎か」
「……」
 返答はなかった。だがそれが正解だと確信した。
 溜息が零れる。途端肩の力が抜け、自分が酷く緊張していてそして期待していたことを物語った。
「なんだ、用があるなら入って来いよ」
 そう言っても影は動く気配もなく無言のまま。正体が解ったというのにまだ黙っていることに「おい」と痺れを切らして声を上げて……もう一つ解った。
「……あぁ。そうだな。お前なら昨日の夜のこと知ってるよな」
「──」
 息を呑むような気配に、笑みとして上げたはずの唇が歪む。
「だーよな。知ってるよな」
 また溜息が零れる。すると静まり返った部屋の中に、サワサワと雨音が染み入った。
「滑稽だろ?」
「そんなことは、」
 声が“小十郎”だった。
 当たり前の現象に、胸がきゅっと締め付けられたような気がした。
 苦しくて、なのに否定が心地よくて。
 好きなのだ。それくらい、好きなのだ。
「あのな、小十郎。俺な……俺…………俺は、本当に“小十郎”の事が好きらしいんだ」
「──ハッ」
「でな、好きだから……押し付けたくないんだ。お前は、本当に情深いから、絶対に流されるだろ? そんなので気持ちを得たくない」
「政宗様、小十郎は──」
「作らなくていい。普通に考えて」
「そうではなくっ」
 政宗の言葉を否定する勢いで言葉を発した影は、途中でその台詞を切った。切って、少し呼吸を整えて、慎重に言葉を選ぶように語り始めた。
「政宗様」
「ん?」
「私も、そしてこちらの小十郎も、どちらも狡くて──汚いのです」
「?」
「汚くて……しかも貴方の傍に居れば居るほど特に己の黒さと汚さを実感する。だから少しでも貴方の傍に居ることが適うように繕い続けて常となってしまったのです。……その心をどうか許してやっていただきたい」
「何言ってる。お前は、」
「汚いですよ。それはそれは真っ黒だ」
 ゆらり、障子の影が不自然に揺らめく。何故かその影が、政宗の目からは炎のようにも見えた。
「繕うことに慣れたのです。貴方の傍に居たいがため、無理をし白く繕う事に慣れるほど。それほど貴方を──恋い慕っているのです」
 想い人と同じ声というのは別人だと解っているのに、カッとうなじに熱が灯る。
 頭の中で何度か別人だと言い聞かせ、自分自身を落ち着かせるように政宗は手で髪を掻き上げて梳いた。
「そんなことは」
「貴方が心痛めるのは、この小十郎も苦しいのです」
 閃いたように目を見開く。
 確かに別人だ。しかしこの障子の向こうの影は“小十郎”でもあるのだ。別人でありもう一人の自分が愛する・愛されている小十郎なのだ。
「──thanks.」
 やっと自然と笑みが作れた。
 別人で、同じで。もう一人の自分と愛しい者。
「貴方の前にこの身を晒しても慰めにならない事は百も承知でしたが……」
 ふるふると政宗は首を振る。
 そこに居てこちらへと声をかける訳でなく、ともすれば気付かれぬままただ居ようとしたのだろう。それはまさしく、おのが小十郎が今まで自分に注いでくれていた愛情を思い出させた。
 ただただ見返りも何も望まず注がれた甘い愛情。
 愛されている。愛している。
 そこには得るものも失うものもないはずで。
「ありがとう、小十郎」
 政宗は笑う。満ちる想いに自然と笑みが浮かんで。
「──愛してる」
 そう“小十郎”へと呟いた。





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