終わらない恋について

   2.










 梵天丸との関係は、当たり前の事だが出会ってすぐに成った訳ではなかった。置かれた境遇と容姿のため、人の手の温もりを欲する年頃だというのに、その手をことごとく払い退けるような子供なのだから、それはそれは大変だった。
 この先、奥州の命運を握るだろう念願の子供でしかも男子。見目も美しい上に頭もいい。そんな子供は両親の寵愛を一身に受けて育ち──特に母親である於東の方の愛情は深かった。
 そして深かった故の反動。
 物心つく頃に彼は右目を病で失うが、決してただ失うだけではなかった。右目の機能を失い、同時に母親からの愛情を失い、機能せずはみ出る歪な眼球と同じく、行き場のない感情をその小さな胸に抱える事となった。
 苦しい病を乗り越えた後に待ち受けていた一変した世界が、幼い心に与えた影響は計り知れず、まだ彼が愚かならまだしも、賢いが故に事態を呑み込んでしまい、子供らしからぬモノの考えに拍車をかけた。
 世の中というモノは不条理で不公平で不変などはないということ。それを悟ってしまった子供は、大人の目からしてみれば何とも怖ろしい化け物にしか見えず、更に彼を孤立へと追い込んだ。

 ──確かにあの頃の梵天丸様は酷かったな。
 梵天丸を邸の中へと戻してから残っていた己の所用を済ませた小十郎は、書庫から出て来るなり誰もいない事を確認して、仕事から解放された実感を噛みしめるようにゆっくりと伸びをし、手に持っていた一冊の本に目を落とした。
 本棚の奥まったところに落ちていた書物が梵天丸に読み聞かせるのによさげな本だったため持ち出したのだ。少々湿気た匂いがするが、縁側にでも腰掛けながら一緒に本の世界の話でもしていれば、すぐにでも匂いは取れるだろう。そう彼に読み聞かせることを思っていると自然と頬が緩んでいる事に気付き、慌てて顔を引き締めて小十郎は梵天丸の部屋へと廊下を歩き始めた。
 外見は子供だ。痛々しい包帯をした子供。だが、前髪からちらちら覗く残った左目が全てを見ようと光るのだ。
 大人の心を値踏みする目に普通の者ならまず怯むだろう。そして、彼は大人と大人の世界がどれほど愚かしく脆いものか解っていながら、必要最低限の関わりを維持できる賢い子供。残ったまなこは物事の本質しか見えなくなって、大人の心を威嚇する。
 哀れに思う者は多いかも知れないが、その瞳を見て己は憧れた。この状況下でまだなお真っ直ぐ、清いままであり続けるその瞳に。絶望の中ですら、前を向き続けるだろうその瞳に。
 己は残念ながら澱みきっている。だからこそ仕える主であるとか、そういった話を抜きにしてでも彼にはありのまま、真っ直ぐ生きて欲しい。傅役云々ではなく心からそう思っている。憧れと希望の存在。そういえばいいか。
 ──それにしてもよく傍に仕える事を許可してくれたな……。
 傅役を何人も蹴ったらしい事は知っていたが、自分にその話が廻ってきた時役が欲しかったわけでもなかったので、さして気にも留めなかった。だからこそ彼と初めて会った時、城主の嫡男と歩小姓の身分として向き合う訳でも無く、そこにいる人として、一対一で彼と接したのがどうやら彼の気に召したらしい。年の離れた遊び相手と認識され、その後紆余曲折ありながらも傅役としての信頼を得た。が、
 ──違うんだ。何かが。
 信頼もされているはずで甘えもされ、それなりに関係が成っているはずだというのに見えない境界線を感じている。無論、甘えられもしている、特別な存在として認識もしてもらえ、これ以上ない事だと解っているのだが、何かが違う。
 ──……。
 彼は氷室へ行くのに用意がかかるといった。確かに距離があるので多少の旅支度は必要だが、そこまでは遠く無いので日帰りで済む。それをわざわざ。
 ──何か考えている……
 あの時は了承したがやはり引っかかった。これでも随分と長い時間彼と向き合い傅役として仕えているのだ。子供らしい悪知恵が働いている時とそうでない時の区別ぐらいは付く。あれは……子供らしからぬ知恵を巡らせた時の目だ。だからこそあの魂を遠く感じ、悲しくなったのだ。
 ──一体何を考えているやら……。
「こじゅ兄〜!」
 思案に暮れる意識が、甲高い子供の声と廊下を軽快に走る足音に引き上げられて顔を上げる。梵天丸の遊び相手として、又、虎哉和尚から一緒に学問を学ぶ学友として滞在している時宗丸の声だ。
「これはこれは時宗丸様、あまり廊下を走り回るものではないですよ」
「はーい」と返事はするものの、それが口だけの返事とよく解る声色で、小十郎は思わず笑う。
 梵天丸の一つ下の従弟。血縁としては大殿・輝宗の従弟にもなり、伊達の血を正当に引く者。ただ、時宗丸はこの歳に見合った子供らしい無遠慮さを持つ子供で、小十郎としてみればひどく扱いやすく身分を忘れて弟のように接していた。すると子供というものはそういった心に敏感で、時宗丸も“梵天丸の傅役”という感覚ではなく、年の離れた兄のように接してきていた。
 とても子供らしい子供。主と一つしか変わらないはずの──その現実は胸を痛くさせる。
「……。ところでいかがされた。急いでいたようですが」
「あ! それそれ! 梵さ、氷室見に行くんだってな」
 早い情報に少し目が丸くなった。
「え、えぇ、それが……」
「いーなーいーなー、俺も見に行きたいなぁ! 休憩に小川とか入るんだろ!?」
「まぁ、その機会がございましたら」
「うわー! 超いいな! なーなー小十郎、俺も連れて行ってくれよ!」
「それは、大森の方……阿部殿がよしとされるなら」
 時宗丸は梵天丸の学友でありながら同時に証人であり客人である。城内や近辺となれば何とかなるものの、少し遠出をするとなれば話は別だ。
「やったー!」と、既に決定稿のようにその場で飛び跳ねて喜ぶ時宗丸に「ちゃんと阿部殿の許可を得られればの話でございますよ」と釘を刺すが、聞いているのかいないのか。
「時宗丸様。」
「解ってるって! 阿部だろ? あーべーあーべーっ」
 子供特有の巫山戯た応え方に、大丈夫だろうかと一気に不安になった時「だってな」と何処の文脈から続いているか解らない会話を引っ張り出された。
「はい?」
「梵にさ、氷室に行くって聞いたから俺も行きたいって言ったら、お前は絶対連れて行かんっていうんだぜ」
「はぁ」
「小十郎と二人だけで行くっていうんだ。意地悪だよなっ」
 唇を尖らせそういう時宗丸にはははと軽く笑って答えるが、氷を運ぶ者は別としても、もしかすると二人っきりでどこかへ行くという事を楽しみにされていたというのなら、これは少々主に悪い事をしてしまったかと思う。しかし、小十郎には別の言葉が引っかかった。
 子供独特の文法間違いや思い過ごしならいいのだが。
「時宗丸様、」
「なに?」
「そのお話は梵天丸様から聞かれたのですよね」
「うん。そうだよ。」
 その言葉に胸を撫で下ろすが、それは一瞬で終わった。
「あ、ちがう」
「違う?」
「くるなって言ったのは梵だけど、梵が氷室に行くって言ってたのはちがう」
「……誰から聞かれましたか?」
「んー……それはわかんねぇけど、みんな知ってるぜ」
「みんな?」
「うん。だって梵の奴、自慢気に言いふらしてんだもん。小十郎と二人っきりで氷室に行くって」
 ぽかりと口が開いた。それは呆れではなく、予感が的中したと。良くない事を計画していると。
「ありがとうございます、時宗丸様」
 そう言い残し、足早に主の部屋へと向かう。
 彼は、残念ながらそれをしないのだ。自慢気に言ってまわるなどという子供らしい行動を。つまりわざとふれて回っているという事。
 ──何を計画されてる?
 子供がしなくてもよい考えに至りやすい彼が苦しい。無意識に、手に持っていた書物をギュッと握りしめてしまう。
 廊下の角を曲がった先の彼の部屋を眺める。障子を閉め切って鬱々な雰囲気を醸すことの多い部屋だが、夏という事もあり全開で、中で梵天丸が書見台に向かい背筋を伸ばして本を読んでいる姿が見て取れた。
「失礼いたします。小十郎にございます」
 部屋の入り口へ着くなり、素早く片膝を付き頭を下げて口上を述べると「入れ」と声高いがキリリとした声が部屋へと招き入れた。
「はっ」
「仕事は済んだのか?」
 くるりと、位置は変えず、梵天丸は部屋の中へ入ってくる小十郎に対し優美に向きを変える。まったくもってこの歳で物腰は生まれながらの殿様だと痛感する。
「はい、」
 心の焦りを表に出さぬように心がけながら近くまで歩み寄り正座をすると、彼は少し不思議そうな顔をした。
「それは?」
「は?」
 彼の視線の先を追い、たどり着いた自分の手元に慌てる。
 無意識に握りしめていたせいで、読み聞かせて上げようと思っていた本は少し丸まりくたびれていた。
「あ、いえこれは、面白い書物を見つけましたので、よろしければ若と……」
 よれた本を申し訳なさそうに伸ばしながらそう説明する小十郎に「ふぅん」と気のない返事をし、彼はその本から視線を上げた。
「残念ながら本題はその本ではないようだな」
「ハッ、……いえ……」
 言いようのない静けさが辺りに満ちた。
 己は、問おうとしていた。彼の考えていることを。“だが”である。本来その問いは、この歳の子供に無粋なものだ。それを何の迷いもなくしようとしていた。
 それは自分が間違っているのか、それともそんな問いをさせる彼が間違っているのか。
 ──いや、違う。
 どちらも間違っていない。彼だからこそ行おうとする行動を、自分は彼だからこそ問いかけ、理解したいのだ。
 整えた書物から顔を上げ、小十郎は改めて梵天丸へと向きを正した。
「若」
「なんだ?」
「氷室への件、ふれて回っているそうですな」
「……なんだ? 都合でも悪かったか? お前は内緒にしろとも言っていなかったぞ?」
「勿論、秘密にして行うことでもありますまい。ただ」
「ただ?」
「何をお考えで?」
 口を真一文字に結び、凄むように見つめる。“子供”に対する表情でないことも分っている。それでも、
「考え? お前と初めて氷室という所へ行くのだぞ? それを自慢してもいいだろう。なにかおかしな事があるか?」
 至極真っ当な、納得出来る意見。だが小十郎が視線を弛めることはなかった。その納得できる意見に彼の心がないと感じたからこそ己はここに居る。
 まるで真剣の勝負だ。それこそ命をかける勢いで彼に挑まなければ、彼は心を見せることはない。その心中を察したように、彼も視線を逸らすことなく全てを捉えようとする隻眼で小十郎の双眸を見つめる。
 彼を射あてる勢いで挑まなければ、決して彼は──
 睨み合いとも言える間合いの中、大きな一つ目を閉じ「ふう」と彼は静寂に溜息を零した。
「主の行動に疑問を覚え、それを口にする──か。確かにお前はただ愚直ではない出来た家臣だ」
「……」
 少し姿勢を崩した彼に対し姿勢を正し、改めて頭を下げる。どうやら勝敗は小十郎へと上がったようにも見えるが。
「何を疑問に思った?」
「日を要すとおっしゃった事、出かけることを自慢げにふれて回った事、時宗丸様を連れて行かないと明言されたこと」
「ふむ」と、小十郎の言葉を検証しながら梵天丸は小さな脚で胡座をかき、改めて家臣を見つめた。
「しかしおかしな所はなにもないぞ? 俺には俺の用意もある。氷室という初めての場所に行けるとなれば心も躍る。時宗は煩いからな、たまには静かに行動したい」
 まるで念の入った問題の答え合わせのように感じる。小十郎の出す答えが合っているかどうかの最終確認と言うべきか。
「おかしな所は、何もない」
 軍配が上がったと思ったのは気のせいだったのか、梵天丸の目は更に挑む光を強くさせ、小十郎を見据えてくる。
 自分の持っている答えが彼を納得させる正解かどうかは分らないが、小十郎は口にした。
「勘で──ございます」
「勘だと?」
 きょとりと瞳を丸くさせた後、梵天丸は子供らしからぬ豪快な笑い声を上げた。
「勘? 勘だと? そんな不確定なものを信じて主に疑問を投げたか? 愚直でない事は評価に値するが、行動させた理由は笑い話にも勝る」
 笑い声を交えながらそう言い終わると、最後に「フッ」と嘲笑のようなものが混じった。
「勘で心を推し量られるとは、舐められたものだ」
 瞬間、カッと腹の底から何かが燃え上がった。燃え上がった炎は、上辺であるとか繕い続けなければならない理性であるとか、そういったものを一瞬にして焼き尽くす激情だった。
 ギリリと小十郎は奥歯を噛む。噛んでそれが外へと飛び出すのを抑えた。
 その激情は怒りだった。そのはずが、奥歯で押し殺した瞬間に悲しみに変わり、片目だけが潤み始める。歯を、食いしばりすぎたせいか、それとも……
「申し訳、ございません」
 歪む表情を隠すように頭を下げた。
 自分でも察し付いた。簡単に説明できる怒りや悲しみでないことを。何の怒りか、何の悲しみか、もう一歩深く踏み込んだところにあるモノだった。だが、それを梵天丸へ表す程、簡単な言葉で言えば──勇気がなかった。彼に抱く情といったものを向ける自信が。
「……なら、話はそこまでだな。」
「……」
 顔を見ずとも、冷ややかな視線が向けられていることを感じる。彼が、人を値踏みする時の視線だ。
 その表情が薄れることが小十郎の喜びだった。そして薄れる度に彼を知った。だからこそ悔しいのだ。
「──小十郎では」
「?」
「小十郎では梵天丸様の力にはなれませぬか?」
 ゆっくり、重くのし掛かる躊躇いに反するように顔を上げて彼を見つめた。
「……?」
「小十郎では信用に値しませんかと申し上げております。」
 気圧され、少し驚いたように目を丸くしてから、梵天丸は眉を顰めた。
「何を言い出すかと思えば。何も信用していないとは言ってないだろう」
「同じ事です」
「──なんだと?」
 堪えた思った激情という炎は、上辺という蓋を燃やしきるのに時間を要していただけだった。
 小十郎は姿勢を正し、梵天丸を改めて見据えた。
「同じ事だと言いました。確かに勘と言うものは確証のないもの。ですが……──だが、だがな、俺は短いながらも見続けた。貴方だけを。貴方の望む先を、見つめる先をっ! ──違えないよう、見失わないよう貴方を見ていた。その勘は、その想いは、貴方本人にも笑われるようなそんな代物ではない!!」
 息を切らせ炎を吐き出した後、はたと小十郎は我に返った。
 膝は付いているが腰を上げ、身を乗り出してまるで脅すように小さな主へと詰め寄っている自分と、その場から微動だにしていないものの、驚きに少し困惑のような色の混じった主の瞳に、やっと胸の内の炎は跡形なく鎮火して、冷や水どころか真冬の吹雪の中へ放り込まれたような凍てつく寒さが肝を握った。
「あ……失礼……しました」
 筋肉の機能がなくなったのか、その場にとすんと己の腰が落ち、小十郎は項垂れる。
 主であり、いっぱしの考えを持つ者であれど子供なのだ。その子供相手に何を本気になってこちらの勝手な想いを押し付けているのか。どう考えてみても彼の言っていることの方が一理も二理もある中で。
 そう思えば思うほどいたたまれなくなってゆく。
「……」
 今度は重い沈黙が場を占める。
 その重さに耐えきれず、小十郎はもう一度床に額が擦れるほど深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。立場も弁えず──」
「何を謝る? 今お前の口から出た言葉は偽りだったのか?」
 頭上から降る言葉に少しためらった後「いえ」と、頭を下げたまま小刻みにふる。
 無礼だったかもしれない。弁えた言葉ではなかったかもしれない。だが決して偽りではなかった。彼への想いに、偽るモノなど何もなかった。
「なら謝る必要はない。面を上げろ」
 吸い込んでいた重苦しい息を吐く。彼と顔を合わす資格があるのだろうかと考えながら小十郎は頭を上げ、ギョッと目を向いた。彼の一つしかない大きな瞳が潤んでいたからだ。
「──若っ」
「何でもない。心配するな」
「しかし、」
「悲しかったわけでも怖かったわけでもない。なにやら分らない感情が込み上げた。それだけだ」
「しかし」
「くどい! いいと言っている!」
 キッと睨み付けられた瞳に折れ、そのまま項垂れる。
 一体己は何をしているのか。
 不確定な勘に押され、小さな主を追い詰めているだけのような気がして他ならない。
 彼が何を考えているのか、何を見据えているのか、そこまでを知る権利が自分にあるのだろうか? そして彼を解ったつもりになるなどおこがましいも過ぎるというものでなかろうか?
 やり場のない想いが、口内の肉を噛みしめさせる。
「小十郎、」
「はっ」
「最近、不穏な動きが見える」
 思いがけない話の切り出しに、小十郎は戸惑いながらも「とは?」と続きを促した。
「お前と俺の行動を計っている者がいる。“誰が”とは言えんが勘だ。お前に対して笑った勘で俺も行動している」
 少し自嘲気味に笑ってから、彼はスンと鼻を鳴らした。
 浮かべた大人びた表情と、涙を滲ませたせいで詰まった鼻を鳴らす子供らしい行動の対比が何とも彼らしいというべきなのか。
「それで?」
「あぶり出そうと思ってな。だが今日の明日では下っ端しか動けぬのが関の山。何も起こせんだろう。せめて」
「一日の猶予を……ですか」
「そうだ」
 自然溜息が漏れる。呆れだ。呆れるほかない。
「井戸も──ですか」
「半分半分といった所か」
 もう一つ溜息を吐く。思慮深いのか、単純なのか、それとも……
「呆れたか?」
「呆れました。そんな危険なことをお考えだったとは」
「──結果的にお前を巻き込むことを前提で考えていたことは謝る」
「そのようなことは謝ってくださるな。この小十郎は若を、梵天丸様を守るために存在する身。その事に何も心を痛められる必要はございません。ただ、せめてその計画をお教えください」
「……止めるだろう?」
「……かもしれません。ですがそれより何より私は、若を知りたく思います。何より貴方を理解したい」
 そう言って微笑む小十郎をジッと見つめたかと思えば、力なく彼は視線を落とした。
「若?」
「正しいかどうかは解らんのだ」
「どういったことが……で、ございますか?」
「俺が、生き残るということが」
「! なにを、」
 まさかの言葉に身を乗り出した小十郎へ、彼は変らず、淡々と述べる。
「俺はまだ“伊達輝宗”の長男というだけだ。子で言うなら竺丸がいる。母上は知っての通り竺丸を次期当主にと願っている。俺が居るということで父上は跡目争いの悩みを持ち、母上も一つ心労を持つと言う訳だ」
「──っ、一体何を言い出すかと思えば、貴方は紛うことなき次期──」
「小十郎。」
 続く言葉はハッキリとした意志を持つ声に遮断された。
「子が、親の望みを叶えられん辛さが解るか?」
「!」

「なぁ小十郎、存在を望まれぬ子供がするべき事は何だと思う?」

 その瞳は、世迷い事を言っている瞳ではなく、真剣に、小十郎の胸へと問うていた。それはどんな回答にも決心の付いた、まるで殉職者の目で。
 ──何故──
 何故彼がそんな目をしなければならないのか。
 戦国である事で必要とされる覚悟ではなく、全く別のところで必要とされたそれ。死ぬ事・生きる事の決意に加え“存在する”という本来意識する必要のないものまでこの歳で考えている。
 少なからず、小十郎も何度かそういった事を考えた。そこで自分が死を選ばなかった理由はいったいどこにあるだろうか。
「……」
「生きてて良いか、死んだ方が良いか、存在していて良いのか──どれが正しいか、残念ながら俺には解らん」
 静かに聞き入る小十郎を少し見つめたあと、彼は何事も見透かそうとする瞳を閉じた。
「……安心しろ。死のうとしている訳じゃない。ただ、どうすれば良いかずっと解らない。だから──全くの第三者に任せようと考えた」
「……“第三者”?」
「神と言ってもいい、運命と言ってもいい、要はそういうものだ」
「それは」
「平等に──チャンスを」
「は?」
「死にも生にも存在意義にも」
「──」
 言葉が詰まる。
 眉が潜む。
 この先はどうしても繕った自分では対応し辛い。
 肺の中に溜め込んだ息を、溜息として総て吐き出した。
「では、梵天丸様は死に機会を与えたと」
「そうだ」
「ならば生は」
「お前だ」
「は?」
「お前は俺を生かそうとする。守ろうとする。俺の生は……お前だ」
 吐ききったと思ったはずなのに溜息が零れた。
 彼を生かす者は彼自身ではなく、小十郎なのだ。
「そりゃぁ……有り難い事ですが」
 嬉しいと言えば嬉しいが、手放しでは喜べない。
「だからさっき謝った。」
「……なるほど」
 死を試すなら生を試すことになる。必然的に小十郎は渦中の中だ。別にその事には問題は無い。確かに自分は彼の命を守るのが仕事なのだから。
 頭を掻く。どこから言葉を連ねようかと。
「梵天丸様、出来れば──生きるも死ぬもご自分で決めてくれませんか? 神だとか運命だとか、勿論大殿様や奥方様も関係なく」
「なんだと?」
「死ぬも生きるも、ご自分で決めて下さいと言っている。貴方は生と死をその年で立派に認識して招き入れているが、結局その先は諦めているだけだ。」
「……」
「貴方は……ただ生きるという事が出来ない人だ。それは仕えていてよく解ります。だからこそ死の覚悟をして下さい。そして、生き抜く覚悟を決めて下さい」
「生き抜く……覚悟」
「命を狙われている自覚を持つ……それは十分結構。そこから切り抜ける方法として小十郎を利用する事もこれまた結構。ですが、本当に生き抜くつもりなら、貴方が言った“生”としてのこの小十郎に、その生き抜く考えを教えてくれはしませんか?」
 その言葉に、やっと梵天丸の顔に表情が宿ったかと思えば、頼りなさげに俯く。
「若?」
「解らん……そこまでして、生き残る存在価値が自分にあるのかどうか……」
「そんなもの、誰にも解るはずないでしょう」
 強く言い切ると、驚いたように顔を上げる。その顔がとても子供らしくて小十郎は笑みを浮かべた。
「この世で、生きる存在価値を知っている者など少ない。だからこそ生きているのですよ、己の生きる意味を求めて。──多くの人はそれに気付かぬとも生きていける。見つけずとも生き抜ける。ですが貴方はその年でその壁にぶち当たった。……覚悟して下さい。死と向き合う事を。生き抜く事を。貴方の、存在意義を知るためにも」
 難しい言葉かも知れなかった。それでいて、正しい見解ではないかもしれない。それでも今思う事を真正面に伝えると、梵天丸はまた俯いた。
「──何故涙が出たか──よく解らない。怖くもなかった。驚いた訳でもない」
「若……」
 突然の話がさっきの涙の理由かと察するが、他人事のように彼は自分の感情をぽつりぽつりと語りはじめた。
「ただ悲しくなってな。たぶん、嬉しくて悲しい。」
「?」
 小十郎は次の言葉を待った。
 長い長い間が二人の間に落ちる。静かな、だがどこからか想いの波音が聞こえそうな静けさで。
「……小十郎、おかしな話をしよう。俺はお前が好きだ。それは違いない」
 とても素直な告白にただ「ありがとうございます」と頭を下げる小十郎に「だが」と彼は小さな声でつなげた。
「想ってもらえる存在の自信がない。そしてそんなに想ってもらえていると言うのに信用は、できんのだ。……たとえば、いつかお前が俺の元を去ると言い出しても、お前が俺を裏切ったとしても、俺は多分、ああそうかとただその現実を受け入れるだろう。だって仕方がないじゃないか。それが俺の好きなお前の選択ならば、俺はそう言うより他にあるか? 憤り、憤慨して『残念だ』などと言い放つ……そんな権利が俺にあるのか? その選択をしたのはお前だろう? 俺の好きな、お前の選択だろう? ならそれは、仕方のない事じゃないのか。それとも見損なったと言えばいいか? がっかりしたと言えばいいか? そんなものただの勝手なこちらの期待だ」
「若、」
「都合のいい俺の想像と言う名の理想に当て嵌めたくないんだ。俺の、愛した者だからこそ──」
 ちらちらと揺れる母の影。
 愛してくれると思っていた手が無くなった。からこそ、愛しているという手が目の前にあっても掴めない。
 彼はどんな仕打ちを受けようと、間違いなく今も母を愛していて。その結果、彼は誰も信用できない。自分の存在も受け入れられない。
 愛することが出来ても、恋い慕うことが出来たとしても、信用することが出来ない。自分の存在に疑問を持ち続ける。相手を想うが故に。
 ……それでは境界線を感じてもおかしくない。
“この歳で”と、小十郎は頭が痛くなった。
 何という主に仕えることになったのかと改めて小十郎は責任を感じた。
 さて、何と言えばいい? 何をすればいい? 生も死も受け入れるという彼に。他人どころか自分の存在までも信用出来ないという彼に。だが、好きだと言ってくれる彼を。
 小十郎は思わずくすりと笑ってしまった。
「!? 何がおかしい」
「いえ……梵天丸様、どうぞこの小十郎をお疑い続けください」
「なに?」
「信用していただかなくて結構と申しております」
「……?」
 言葉の意味が飲み込めず、不安げな色に染まろうとする瞳にもう一度微笑んで。
「この小十郎、若からの信用云々無しにしても一方的に若を思い慕っております故、こういう事を申し上げるのも何かとは思いますが、その事でお心を煩わせるぐらいでしたら、気にしていただかなくても結構ですと」
「それは……悲しくないか?」
「何故?」
「行いが、想いが報われないなんて」
 想いが伝わらない・拒否される行為ほど辛く悲しいものはない。それは人が大きくなった時に生まれる恋慕もそうだが、子供の頃の、選択肢の少ない中で生まれる純粋な慕う心であるならなおさら悲壮性は強い。
 感情などどうとなるものではない。想うなど特に。
 それを“想うな”といわれた時、その想いが掻き消えれば問題にはならないが、人の気持ちなど想うなと言われても想うのだ。
 その辛さを知るからこそ、梵天丸は言った言葉の非道さを自覚して、それでもどうにもならない想いのジレンマに陥っていた。
 想っている者が差し出してくれた手を、握り返したくても返せない。この手を握る資格があるのか、信用しきれない己が握っていいものか──
 そんな心が解り、小十郎は厄介だと思う。本当に厄介な子供に……厄介な人間に見出してしまったと。──己の意味を。
「かもしれませんが、最終的に報われることが目的ではありませんから」
「?」
「私は、貴方という存在がそこにいるだけで嬉しいのですから」
 自分とて、己の存在意義などは解らない。だが、彼が存在する事を嬉しく思う自分が居るのなら、その事を彼に知ってもらうのが己の存在意義かも知れないと素直にそう思える。
 貴方の存在が嬉しいと。貴方が生きている事が嬉しいと言い続ける事が。
 ジッと、瞬きせずに小十郎を見つめていた彼の大きな瞳から、突然ぶわりと涙が溢れはじめた。驚くと同時に慌てて袖口から手拭いを取り出し、小十郎は梵天丸の傍へと駆け寄ってその涙を拭おうとするが、その前に、小さな彼の身体が胸元に飛び込んできた。
「若……」
「わからん。わからん。お前は甘やかそうとする。俺に寄る辺があるように振る舞う。だがもし、お前を寄る辺と認識して、お前がいなくなったら……俺が立てなくなったらどうするつもりだっ」
「若……」
 この小さな魂は、どこまで傷ついたのだろうか。どこまで、真っ直ぐあり続けようとするのだろうか。まるで義務のようにその二つを繰り返し続けて。
 自分がこの存在に出来ることは、気休めを言うことでもなく、何かを望むことでもなく、ただ想い続けることかもしれないと小さな身体を抱きしめて思う。

 まるでそれは、一生恋し続けることに似ていないか?

 ──悪くねぇな。
 嗚咽に伴い小さく揺れる肩を撫でながら、小十郎は再確認した愛しい存在を柔らかく抱きしめた。





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