終わらない恋について

  1.







 ジリジリと肌を焦がす太陽から少しでも逃れようと、眉頭辺りに手をあてて瞳に小さな庇を作るが、日の光は土にまで反射し逃げることは叶わず、眩しさはあまり変わらない。
 耳にはまるで「夏だ夏だ」と大合唱をする蝉の声。息を吸うと熱風まで吸い込んでいるようで、口からは気を抜くと「暑ぃ……」とぼやきが零れそうだ。
 大人である自分がこれなのだから、小さな彼が少しでも涼を取ろうとする行為は致し方ない。致し方ないが、これはないと思った。
 厨房や湯屋近くではなく人通りがない時はほとんどない、雑用に使用することが主の井戸上にどこから持ってきたのか板を掛け、そこに腰掛け本を読んでいるのだ。つまり、小さな彼の下は深い深い井戸。
 女中達が血相を変えて自分を呼びに来た理由がよくわかった。乳母でもある己の義姉・喜多が居れば有無を言わさず引っぺがすだろうから良かったのだが、生憎居なかったらしい。この状態をどうにかしようと思いはしても、いかんせん相手はこの城の主、伊達輝宗嫡男・梵天丸。嫡男だから扱いづらいというよりは、この子だからこそ扱えないと言うべき子供。
 幼いが老成し、ただの子供の我が儘で収まらないほど弁が立つ。しかも最近は輝宗が招き寄せた虎哉和尚に学ぶおかげで、勉学の賜なのか臍曲がり方針が反映したか、屁理屈が度を越している時がある。
 普通の観念を持つ彼女らではそんなかわいげのない彼を扱えないのは当然で、傅役である自分・片倉小十郎にお鉢が回ってきたというわけだ。
 ──まったく……
 傅役といってもただ梵天丸の相手をしていればいい訳ではない。己も若輩者ながら伊達軍の戦力であり、この先も小さな彼に仕えるために自身を磨かなくてはならない。かといって目を離した隙に『これはない』と言いたくなる光景が度々広がるのは勘弁して欲しく。
 静かに近づく。近づきながらそれにしてもよく考えたものだと感心した。
 井戸には元々屋根が付いており、日差しを避けることが出来る。そして井戸というモノは水温が一定に保たれ、井戸の中で舞った風は、外の風とは違いひんやりと肌に心地よい。その風を受ける為、井戸の中へと脚を放り出すため、その井戸の縁に板を張って腰掛けているのだ。
 発想は理に適っており、行動は大胆。
 ──こりゃ将来手に負えねぇかもな。
 くすりと笑う。この才を見るからこそ、己も彼に見合う人間に成らなければと思うのだが、次から次へと難題を彼自身に持ち込まれて暇がないのが正直な所で。
 今は十年という年の差が反映されているが、彼が青年となり、立派にここの城主を勤め上げる事が出来るようになった時、己もまた傍で仕える事が出来るように武も智も磨き上げなければと、小さな背中を眺めながら思う。
 と、耳に届く微かな歌声。死角から近づいたためか小十郎の存在に気付いてないらしく、機嫌の良い鼻歌が聞こえた。
 子供というのは鼻歌が好きだ。しかも既存の唄にとどまらず、今思った事であるとか、興味に思っている事を即興で歌にしてしまう。勿論音程も節もお構いなしのものだが、さてそれが子供特有の柔らかい声と合わさり、何とも愛らしく素晴らしい歌となる。
 小十郎は更にクスリと笑みを漏らした。
 いかに老成しているとはいえまだまだ子供。彼にしては珍しい鼻歌を耳にしてそう再確認するが、日に日に気を緩ませた瞬間の、無意識の中でしか子供らしさが出てこなくなっている。己が邸の中ですら緊張を解こうとしない彼を不憫に思いながら、ともあれ現状を回避しなければと小十郎は驚かさないように、彼の視界に入る角度を考えながら脚を進めた。
「この様な所で涼を取られるとは、感心いたしかねますな」
 その言葉にあまり驚いた風でもなく、読んでいた本から静かに顔を上げ、大きな一つの目をジッと射貫くように向けると、小十郎の顔から何かを読み取ったように彼は不敵に笑った。
「しかしここは涼しいぞ。この邸で一番な」
「ハッ、確かにそうかも知れませぬが、同時にこの小十郎や他の者の肝は涼しくなるどころか凍りつきます」
 そう訴えながら傍へと立った小十郎の顔を見上げ「ふぅん」と、特に興味無さげに梵天丸は井戸の中へ垂れ下がっている脚をぶらぶらと振りながら相槌を打つ。
「最初は縁に腰を掛けていたがな、安定せん。しかし丁度いい板を見つけてな、この通りだ」
「ははっ」と軽やかに笑いながら、ゆったりと座る板を軽く叩く。
 板の強度を信用していない小十郎は焦りを落ち着かせるために一つ息を吐いてから、有無を言わさずその身体をひょいと持ち上げた。
「あっ! おい何をするっ」
「何をするではございません。板が割れでもしたらどうなさいますか」
「落ちるな。」
「『落ちるな』ではないでしょう」
 持ち上げた身を利き手で抱え直し、もう片方の手で早々に忌々しい板を回収する。
「もし板が割れずとも誰か──いえ、何かの間違いで落ちられるようなことがあればどうされますか」
 板が割れずともたとえばそう、静かに背後から近づきその背中を押し、何事もなかったように板を中心に移動され、井戸の蓋のように使われでもしたら──。
 そんな恐ろしい可能性がないわけではない。彼には多くの懸念がある。見た目の隻眼という問題だけではない。この歳で降りかかっているお家問題だ。
 彼は間違いなく嫡男でありゆくゆくは家督を継ぐであろう存在だが、残念なことに城の中に敵がいる。しかも母親という本来敵になるはずのない人物までもが、敵と呼んでもいい立場に存在しているなんとも皮肉な現実。
 母親である義姫──於東の方は決してその事を隠そうともせず、彼に対しことある事にその現実を突きつけていた。
 そこまで愚かしいことをするとは思いたくないが、もしも誰かを使ってと、自分が想像した恐ろしい考えに捕まり押し黙った小十郎の心を探るように、静かに見つめていた梵天丸は徐に小十郎の首へと柔らかく抱きついた。
「若?」
「助けてくれるだろう?」
「え?」
「お前が、助けてくれるだろ? どんなことがあろうと」
 身体に伝わる暖かな体温は夏の外気とは違い、心地よく己の身を包む。この、沁み込むような温もりは何だろうか?
「勿論です。梵天丸様」
 愚問とも言える酷く当たり前のこと。だがそれを真っ直ぐ彼に伝えると厳しい顔を緩め、満足げに「ん、」とだけ相槌を打って頬をすり寄せてくる。その行動が、自らが作った恐ろしい考えから解き放ってくれた。
『抱き癖を付けてはなりませんよ』と、何度も義姉に注意されたが、それはどうやら無理らしい。“彼が”ではなく“己が”。
 彼の甘えに励まされ存在する己が居る。
 あまり甘える方ではないが、梵天丸は時折随分と甘えてくる事がある。甘えるのは甘やかしているから。そして過分に甘えてくるということは、甘やかすことを見越されているということ。四六時中甘やかしているわけではないし、厳しいことの方が多いはずなのだがこれだ。それだけ、己は甘やかす事で彼に甘やかされているのだ。
 ゆっくりと、腕に梵天丸が腰掛けられるよう手を移動させると、その意図を察してしっかりと自分の身体にしがみ付きながら、彼は器用に腰の据わる位置を探しだして移動した。
「しかし小十郎」
「はい?」
「せっかくの良い涼み場所を取るのだから、代わりが欲しいな」
「はは、そうきましたか。丁度みあうものがございます」
「ほほー。なんだそれは?」
「明日にでも氷室に行きませんか?」
「氷室だと?」
 少し身体を離し瞳を覗いてくる彼に「えぇ」と唇に笑みを作って答えた。
 彼の師である虎哉和尚の居る寺に避暑をかねて向かう予定日まではまだ日がある。これ以上ない涼を取るため、大殿から氷室を開けても良いという許可を貰っていたので近々氷りを取りにと考えていたが、どうせなら、彼に氷室というものが一体どういったモノか見せてあげたいと思っていた。
 確かに少々遠出となるし危険を伴うかも知れないが、それより何より彼には色々な経験をして欲しい。
 この世の中で、自分の身体で見知り得る経験に無駄なモノはないと思っている。それは全て己の中に蓄積され誰に奪われることもなく、生きている限り糧として尽きることなく利用することが出来る。そして傅役として仕える関係ではあっても、与えるなどおこがましい末席自分にとって彼に出来る事は、彼を守り、出来る限り彼に“経験する”という機会を結ぶことだと考えていた。それが自分に出来る唯一の事。
 フッと種類の違う笑みが自然に零れた。なんたる酷い病かと思い。
 彼の傅役として仕えてから日に日に彼の事を考える時間が増え、今では考えない時間はない。傅役としてそれは勿論正しい姿なのかも知れないが、この小さな彼が己の全てとなっている現実は、客観的に見ると滑稽に思える。
 だが仕方ない。間違いなく全てなのだ。彼の感情は我が事のようになり、だからこそ新しい経験を積み驚く度、喜ぶ度、自分の事として嬉しさと並び愛しさが増す。
 ──重症だ。
 若い身空で今では名声よりも、彼を全てとすることに喜びを感じているなど、どこからどう見ても滑稽で。
「何がおかしい小十郎」
「いえ、少し……」
 仕方がない。掴まったのだ。今腕の中にあるこの魂に掴まえられたのだ。そこに理屈を考えるなどそれこそ愚問だ。
「さて、いかがなさいますか?」
「いく! だが明日は早いな」
「早うございますか?」
「あぁ。用意には時間がかかる」
「今から用意なされば十分に間に合うかと」
「いや、今から用意しても早くて明後日といったところか」
「?」
 彼の瞳に思慮深げな重い色が宿り、ついさっきの子供らしい瞳の輝きはどこにもない。
 正直この表情をする彼はあまり好きではない。陸な事を考えていないからだ。子供らしからぬよからぬ事を考える時、この表情を浮かべる方が多いのだ。この歳で、一つのことを一つとして素直に捉えられない瞳。
 この色を自然と宿す彼を見て悲しくなる自分は間違っているのだろうか?
「小十郎がお手伝いします故、小十郎が若の──梵天丸様の危惧を払います故、どうか──」
 どうか──……何を言おうとしたのだろうか解らぬまま、続く言葉は徐に抱き返してくる彼の小さな胸の中へ埋もれた。
「小十郎……お前は本当に、俺を助け、甘やかし続けるな」
 呆れを含んだ老成した物言いが、この時何を指しているのか小十郎には分らなかったが、ただこの腕に抱いている魂が何故だか酷く遠く、悲しいことだけは理解していた。





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