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「戻りましょう、鎌倉に」


 季節は山々の木々がいくらか色づき始めた頃だった。
「客だ」
 社の中くらいならばすっかりと歩けるようになった兄が、にやにやと笑いながら僕を呼びに来た。
 僕に客、といえばほとんどが患者だった。けれどそれにしては様子がおかしかった。ヒノエが何か企んだのだろうか(それだけのことをする資格が彼にはある。僕は彼を別当に押し上げたのだから)、と思いながら、僕は兄が連れてきた人が顔を出すのを待っていた。
 けれどなかなか姿を現さなかった。
「ほら」
「あっ、ああ」
 兄が客人を叩いた音。そして声。まさか。と思った。けれどすぐに僕の目の前に躍り出た姿はさすがに見違えるはずがない。
「なんで君が」
「……お前に会いに来た」
「だってよ。まったく、この不肖の弟に面会客がいるなんて、俺にゃ青天の霹靂だ、ねっ」
「うわっ」
 兄が再び九郎の背を遠慮もなくたたいた。ふらつきはしたけれど倒れなかったのはさすがだとぼんやり思った。
「兄上」
「おお、すまねえなお前の大事なお客人に酷い事しちまって」
「そうではなくて」
 どうしてここに連れてきたんだ、なんていう僕の心は当然に分かっているはずの兄は相変わらずににやりと笑っていた。
「いいじゃねえか、これを機に弁慶お前も帰れ」
「それはありがたいですが、ですが俺は」
「まあ、ちょっと待てって」
 何やら言い争ってから兄はまったく他人事の快活さで腕を組み僕に言った。
「弁慶、お前はいい加減仮病をやめてとっとと帰るんだね。俺もまあ、あとひと月もしたらやめるさ」
「あなたのは仮病では」
「何度も言ったけどな、生きてりゃそれでいいってもんだよ。それにお前じゃなきゃ俺を看病できないってわけじゃねえしな」
「ですが」
「だから」
 そんな僕に兄はぐい、と近づいて、ぽんぽんとまるで子供扱いで頭を撫で、
「熊野はお前がいるとこじゃねえって、散々分かってんだろ?」
「急に、そんな」
「何言ってんだよ。元々準備もなにもねえだろ。ま、とりあえず気晴らしに散歩でもしてこい。ほらほら」
部屋の隅の、僕が熊野に来た時からろくに開いていなかった荷を投げた。完全に追い出しにかかっていた。それは連れてこられた九郎からみても明らかだったようで。
「待ってくれ。また弁慶を俺に預けてくれるのはありがたい。ですが俺は、新別当に祝いの品を奉納するために来たんです。それが終わるまでは」
 遮った。ああ、それで九郎が来たのか、と、僕はようやく飲み込んだ。いくらなんでも……この頃の僕は情勢をろくにつかんでいなかったけれど、それでも九郎が容易に鎌倉を離れられると、離れると言う決断をするとは思えなかったのだ。
 とはいえ、新別当……ヒノエは禊に入っていて、あと2週間近くは表に出られない状態だった。
(それまでいることになるのか、九郎は…それは、困るな)
 僕はそこではじめて九郎の目を見た。三、四月ぶりくらいの九郎は変わらなくて、懐かしさなのか悲しさなのかひどく胸が痛んで、すぐ逸らした。
「……新別当は禊の最中。しばらく誰も会うことはできません。こういう事情ですから、新別当に直接渡さなくても良いでしょう。この人にでも預けて君は戻れば」
「おいおい弁慶勝手に追い返すな。客人殿、新別当に用があるみたいだが、弁慶のいったとおり新別当はすぐに出てくることはできない。だからしばらく散歩でもして待っていてもらえないか? とりあえず勝浦だな。勝浦で一泊、その後は田辺を回ってここに帰ってくれば丁度いいだろう」
「兄上!」
 どうあっても僕も九郎を押し付けたい兄に、僕の声も険を含みだしたし、九郎だって困惑を重ねた。
「俺は神事には詳しくないが……禊というのは神無月に行ってもいいものなのだろうか?」
「問題ねえな。出る頃には霜月だし。てわけでほら、ちょうど熊野一周できるくらいだろ?」
「いや、俺はそんな物見遊山に来たわけじゃ」
「そうです。九郎だってそんなに長く熊野にいるわけにはいかないでしょう?」
「それは平気だ。兄上の許可は得ている。何かあれば遣いがくることになっている。だがだからといって」
「まあ聞け、鎌倉の使者殿。熊野ははじめてなんだろ? 俺が言うのもなんだがここはいいとこだ。新別当はなによりそれを誇りにしている。だったら、その熊野を見てから別当に会うってのもいいと思わねえか? ちょうどいい案内役がそこにいるわけだしな」
 新別当を引き合いにしているけれど、自分だって熊野を誇りに思っている兄のその言葉は、それでもどこまで本心なのか知れない。けれど、その言葉に……まったく単純な九郎はするりと納得してしまった。
「確かに……その通りだ。考えが足りなかった。礼にかけるところだった。感謝する」
「なーに、いいってことよ」
「では、まずは、ええと」
「勝浦で一泊、そのあと田辺だぜ」
「分かった。まずは勝浦」
「紅葉もじき見ごろになる。ちょうどいい時に来たな」
「……弁慶を案内にお借りしていいんですね?」
「ああ、連れてけ連れてけ。足が痛いとか言っても引っ張ってっていいからな、仮病だから」
「承知した」
 真面目な九郎はそんなことにまで頷いていた。この後に続いた兄の勝浦名物や名勝の解説も、いちいち真顔でうなづいていた。……なんの為に僕という案内役がいるのだ。僕を付けておきながらその解説は必要なのか。呆れる僕をよそに話を弾ませていた兄。もはや、九郎は僕を本宮の社から外へ連れ出すだしにされていたと言っているに等しかった。
(厄介な事になった……)
(兄上は九郎が気に入ったのか……)
 平素ならばそれを僕は誇らしく思ったことだろう。けれどこの時は頭痛の種でしかなかった。

 そんな僕に遠慮などするわけなく、兄はご丁寧に宮司たちまで使って僕らを追い出して。
 秋だというのに熊野の海のごとくにきらきらと輝く青空の元、僕らは勝浦に向かう事になった。
 戦以来の、散策だった。しかも一歩後ろには切り捨ててきたはずの昔馴染みだ。晴れない顔をしていた自覚があった僕に対して、にやにや笑いを浮かべ続けていた兄が見えなくなっても、僕らはろくに口をきかず、きけず、山の木々が揺れる音と、山鳥が囀りばかりが響いていた。いつもは心を癒すそれらの音は沈黙をありありと知らせるようで、いっそ追い詰められた心地だった。
 けれど、沈黙は思っていたより早く終わった。整えられた石段を降り切ったあたりで、
「あ、そうだ」
と、背後で九郎が言ったかと思うと、いきなり僕の被っていた笠を取り上げた。
「やっぱり俺のだ」
 それはあんな離れ方をしたとは思えぬ程に普通な声音。
 そして目を丸くした僕の頭に、自分の被っていた笠をやはり他愛もない仕草で乗せた。
「これは……僕の?」
「ああ。俺のが見つからなかったから勝手に借りてきた。どうせ、俺のはお前が持ってったんだろうと思ったし」
 その予想は確かだけど、
「てっきり……僕の笠は君が隠したのかと思っていました」
つられるように、僕が本音を口にすれば、九郎は心底不思議そうに首をかしげた。
「なんで俺がそんな事をするんだ」
「いえ……」
 だって、それくらいしかねなかったじゃないか。思えど言葉にはできなかった。
(九郎は…気にしてないのだろうか? それともふりなのか……? 九郎の性格からして、すっかりと忘れているとは思えないのだけど、どちらにせよ僕は……、)
 僕はまだあの日のことを口にするのが怖かった。
 迂闊にも、弱い僕はあの最後に別れた雨の日の出来事に蓋をしてしまっていたので、九郎の真意すら分からぬままだった。珍しく強い口調で『行くな』と言っていたのだから、僕に対してある程度……執着はしていたのだろう。
(それは僕も同じだけれど)
 けれど、彼を置き去りにしたあの日と違って、僕は彼に対しての自分の方針をまだ一切決めていなかった。
 そもそも九郎と関係なく、自分が辿る道を見出すこともできていなかったのだから。
 進まなければならなかった。なのに、兄と兄の熊野を壊してしまった僕にこれ以上熊野にいる資格は無く、
だからといって九郎のところにまたよろしくと帰るほどに厚顔無恥でなければ強くもなく、
他の道を見出すこともできておらず……、
だから九郎からあの最後の日の話や、もっと傷つけあうような話が出てきたとしても、彼を説き伏せる術を持たない僕は、せめて、あの日のようにひどい口論をするのは避けたかった。だから踏み込めはしなかった。
 けれど一度言葉を交わしてしまった以上、沈黙を貫くわけにもまた…いかなかっただろう。
 再び彼の一歩前を歩き山を下りながら話題を提供した。
「新別当への祝いの品、ですか。鎌倉殿らしいご配慮ですね」
 僕が口を開いたことに、九郎は些か驚いた風だった。
「いや、それは俺から願い出た。兄上はどうだろう……俺の行動を快く思っておられないかもしれない。それより」
 けれど、とってつけたように話題を変えてみたところで、時間稼ぎにもならなかった。
「お前は俺に謝らなければならない」
 そもそも九郎に対して……いつも相手に誠実でありたい彼にとって、時間稼ぎということ自体が無意味なのだと、僕は失念していた。
「そのために来たんだ。その……お前が出て行った日に俺は酷い事をした。すまなかった弁慶。あんな事は二度としないと、俺は俺の家の名にかけて誓う」
 僕は立ち止り、振り返った。頭をさげていた九郎の表情は見えなかった。
 そのまま『そうですね見損ないました顔も見たくない』とでも言う事もできた。鎌倉の最後の日と、いつかの日と、日々と、同じ。ずっとずっと繰り返してきたように、彼を傷つける言葉で遠ざけたってよかったのだ。台詞だって脳裏に描くことができていた。なのに実際に口にできたのは全く別の事。
「いいえ…………、僕も……僕も、君をあまりにないがしろにしていた。君が言ったように、源氏でありたいと言ったのは僕なのに、」
 どうしてこの言葉を選んだのか、今でも僕は解らない。けれど気付けば口にしていた謝罪を、九郎も惑うことなく受け取った。
「それはいいんだ。それは……一介の御家人である俺に謝る事じゃない。何をしたのかは知らないが別に源氏に不利益なことって訳でもなさそうだし」
「それはそうですが、僕は」
「いいんだ……いいんだ、弁慶」
 よくはないだろう、と僕は思った。なのに九郎は続けたのだ。
「本当は、それだけ言いに来たつもりだった」
 森の中、きらめく木漏れ日を纏いながら極めて真面目な顔で言った九郎。
「もう、お前を俺の所に縛り付けておくことはできないと思った。だから離れるなら…兄上に刃を向けるのでなければ、もう、俺にはなにもできないと。でも……、」
 なのに紡いだ言葉は突拍子もなくて。
「そう、お前の兄が、良い方だったんだ」
「兄が」
「ああ」
 さすがに脈絡のなさに一拍間があいた。
「何を吹き込まれたんですか、きみは」
「待て、たぶんお前の思ってるようなことじゃない。ただ、お前を連れて帰れって言われたんだ。それで、その気になった、気がする」
 一体何を話したのか。想像もできなかったけれど、九郎の目が細まった。
 優しげというよりは、明るい顔で。
「うん、いい兄上だ。お前も、幼くここに住んでいた頃、色々理由があって京に出たんだろうが……、それでも、こんなに風のいい土地に縁があって、あんなにいい兄を持ってるのに、俺についてきてくれたんだな、って思ったんだ。そしたら、俺は俺を信じていいのかもしれないなって」
 それこそまるで、雨上がりの空のように晴れやかで。
 だってあまりにも、あまりにも……場違いな笑顔だったのだ。
 まるでさっきまでの彼の緊張はなんだったのか、
 喧嘩別れした日のことはなんだったのか、
それよりもっと、この一年半前の春の日に、『罪』が確定したあの時に、僕が彼を『突き放した』こともなかったのではないか、そう思い違いもできそうなほどに屈託のない九郎の笑顔。
「君が、君を?」
 たぶん、この時の僕はよほど間の抜けた顔をしていたんだと思う。その証に九郎はぐい、と静かに笑顔の上に流していた涙を拭きながら「ははっ」っと笑ったものだから。
 そのまま、彼は、きっとずっと心の底の底に詰め込んでいた想いを、秋の高く清浄な熊野の空へ昇ばし捧げた。
「そうだ。俺は、ずっと、お前が……、っ、……お前にとっての、お前の中で、俺がどう思われているのか、そればかり気にしてた。お前が俺に何か言ったわけじゃないのに、いや、言わないからこそ勝手に傷ついて……でも、ようやく、吹っ切れる気がした。固執するのをやめられるんじゃないかって、俺を信じはじめることができた。お前がいなくても……やっていける気がした。だから、迎えに来たと、胸を張って言える」
 雨を憂いた声は無かった。ただの、まっすぐな声で、僕へ手を差し出しながら言った。
「だが、だからといって、俺が鎌倉で、お前にやったひどいことは消えない。許してもらえなくても構わない。でも俺は、俺も、俺の望む言葉を言うべきだと思えたんだ。だから言うぞ。弁慶、共に戻ろう」
「…………九郎」
 彼が。
 彼が極端に孤独を怖れていることを確信したのはこの頃であったけれど、ずっとずっと昔から薄々感じてはいた。けれど僕はそれに対して、具体的に何もしなかった。むしろ、結局僕は彼のためにもなる、という口実で好き勝手に平家を探り京を壊し、いつだって九郎を突き放し置き去りにした。
 それでも彼は僕を迎えに来たと言った。
 その想いなど、僕が正しく理解できることなど永遠に無いだろう。ただその笑顔で腑に落ちてしまった。
(ああ、耐えることをやめたんだ)
(九郎は、ついに僕を諦めた)
 僕たちを浸し続けた雨粒を、彼は、霧として散らしてしまっていた。
 最後の一滴がひそかに瞳の奥を濡らし滲ませていたけれど、それだけだった。
「……矛盾、じゃないですか。僕がいなくてもやっていけると言いながら、……なのに、こんな風に手を差し伸べますか、君は」
「そういう問題じゃないだろ。いなくてもやっていけるからって、やっていかなきゃいけなくたって、傍にいてほしいことには変わりないし、迎えにだって、来たかったんだ。俺は、俺の為に来たんだ。言うべきことを言いにきたんだ」
 この時、僕はどんな顔をしていたんだろう。九郎のように笑っていたのか、それとも、泣いていたのか。知る由もないけれど。
「迎えに、か」
 僕は、雨粒をぬぐえないままだ。
 それでも頷いた。
「……分かりました。戻りましょう、鎌倉に」


 僕たちはきっとついに見つけた。
 僕にはずっと九郎に言えない話があった。おそらく、九郎もずっと僕に言いだせない思いがあった。
 けして紡がれることのないそれらは互いの中を次々に塗りつぶしていって、僕は九郎を拒絶するしかなくて、九郎もどうすればいいのか分からず彼の心を持て余して、すれ違って、そんな風に僕らはきっとずっと彷徨っていたんだ。
 けれど、見つけた。
 昔は当たり前だったものを、僕たちは取り戻しはじめていた。
 罪を償わねばならなくとも、……愛をささやく事はもうできなくとも、僕は九郎を不必要に切り捨てなくていい、と思えた。
 これでよかったのだろう。
 きっと、九郎が何か、きっかけがあって、僕を迎えに熊野まで来てくれたのと同じように、僕も自然と「大丈夫なんだ」と思えていた。
 共に戦場へ向かう中で、何度だって起こるだろうきりきりした行き違い。けど今度はうまくやれるだろう、だから九郎だって僕に言いたいことを言えばいい、言わないことを選んだっていい、もっと、自由でいいのだ、と。
 それは言葉にすれば当たり前にすぎること。
 けど、ここまであまりに距離が近かったり、無理に離そうとしていたりで気づけなかったこと。
 すべてに寄り添えずとも共にいて構わないのだ。
 そう、二人して何かを失って、言うなればきっとそれこそ正しく親友の関係に、……あの遠い平泉の雪山で言葉をかわした時に、再び戻れたのだと、僕には思えた。

 差し出された手をぎゅっと握った。昔から変わらず九郎の指は長く大きく、そのさわり心地がなんともなしに好きで、多分、僕は気の抜けた顔をしていただろう。
 九郎もまた笑顔を見せた。
 目は柔らかに細められているのに、ほのかに哀しいその笑顔だった。
 おそらくその感情を、切なさや寂しさを、大切にしていたあたたかなものを灰に変えるような心地を、それが二度と掌には還らない告別を、僕は正しく共有していた。それでも、
この笑みで、君が僕を望んでくれるなら、僕は君の傍にいられる。
 親友だというのなら。
 今度こそ僕は君をただただ好きでいられるから。



 余談ではあるけれど、この日この後、兄にすすめられたとおりに勝浦で宿を探していたところで、京から屋島へ平家を追撃していた義仲軍敗北の報を受け、結局九郎はヒノエに会う事無く熊野を後にすることとなった。




一応あんまり本編の設定無視はしないようにしてきた(つもりの)中でここが最大の設定無視ポイントです。九郎って熊野来たことなさそうだよね?
と同時にこの時期に九郎が鎌倉を離れられるのかっていう方も設定無視気味ポイント
書いてる途中で季節を変えたので、なんか時間軸がおかしくなってるのあったらそのせいです
(08.10.2017)(04.22.2022)


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サソ