「ゆるぎなく、誇らしいものだと、思うことができたから」
ざっくり書きのおまけ話
弁慶は帰ってこなかった。
いつも勝手に京だの熊野だの出歩いていたし、出ている期間だって長かったり短かったりまちまちだった。
今回はだって、たかが二月程度だった。短い方だ、だがあんなひどい喧嘩別れ、いや一方的に悪意をむけてしまったので、九郎は気にせずにはいられなかった。
だから戻ってきたらすぐに謝らねばらならないと思っていた。許してもらえないかもしれない。それでも自分はそうすべきだった。
なのに戻って来ない。
今度こそ愛想をつかされたかもしれない、と、弁慶が経って一週間くらいのころは思っていた。
だがあいつだってあんまりにも一方的だった!と、ひと月たったあたりには腹を立てていた時もあった。丁度、木曽の動きも激しくなって、いつまでたっても挙兵しない兄にも焦れていた頃だった。
しかし、やはり、どう考えても謝るべきは自分だ。
だから何だってしようと決めていたのに、戻ってこないものだから、九郎の不安が増すのは無理ないことで。
いつものことじゃないか、と言い聞かせても、やはり、この危うげな戦況で、弁慶が戻ってこないのは余程のことでは、と思わずにはいられなくて、
そのうち熊野の別当が代替わりしたと聞き、
だから、ますます、もう帰らないのだろうと確信めいたことを思ってしまっていたのだった。
ある日。
弁慶の部屋の風通しをしていた時の事だ。
平泉でも、鎌倉に来てからも、弁慶がいない時はよくこうして部屋の掃除を(多少ではあったが)していたけれど、その日ふと思い出したのは平泉でのことだった。
鎌倉で兄の為にあろうとしている今と違って、妥当平家のため何をすればよいのか具体的な目標もなく、ふわふわとして頼りなかったあの頃。
あの頃も弁慶はよくどこかへ出かけていたものだったが、彼がいない日は、その頼りなさが増していたものだった。彼は戻って来ないかもしれない、父や母に続き、彼ともそうして別れるのかもしれない、もっと良き主君だって見つけるかもしれない、と思っていたころ。
ふいに耐えきれずそれを吐露してしまった時の事が、九郎の脳裏をふわりと過った、
『戻らなかったら、そんな時には君なら迎えに来てくれると思っていたのに』
雨の中、庭の紫陽花の控えめな彩りが似合う微笑みで、彼にしては珍しく、本当になんでもない風に弁慶は言った。
それは九郎が全く考えたことのない事だった。迎えに行く、など、そんな事を許されたことはなかった。母にも家族にも会うことを許されぬ幼少期。平泉に行ってからも、父代わりの御館は大きな慈しみを九郎に与えてくれた。だからこそ、自分は平泉を離れるなどしれはいけないと、自分の都合で弁慶を迎えにいくなど、考えた事もなかったのだ。
なので、迎えに来ても良いと言われた、その時の、まるで、今まで望んでいたものはこれだったのだろうか、とでもいうような、喜びよりも崇高さを帯びたような感覚を、九郎はふいに思い出していた。
そう、言ったのだ。弁慶本人が。
だがそれはもう何年も前の話だし、なによりもっと、関係が良好だった時代の話だ。今のように、もちろん九郎は弁慶のことを友だと思っているけれど、今のようになんだか疎遠じゃなかったころの話だ。
けれど、思い出してしまえば、ずっと、迎えに来ればいいといったあの言葉が、心の中を占めて離れなかった。
(……行っても、いいのだろうか?)
『悪い理由なんてどこにありますか。親友だと言ったのは僕だったでしょう?』
(本当に、いいのだろうか?)
九郎は自問した。したけれど、結局、こうなってしまっては、おとなしくしていることなど、できはしなかったのだ。
熊野には船を出してもらえたので、すぐに着いた。
京とも平泉とも鎌倉とも全く違う、賑やかな港町。そこから本宮大社へ向かった。
弁慶が熊野のどこにいるのか知らなかったが、九郎の役目が「新別当への挨拶」である以上、まずはそこへ向かわなければならなかったのだ。
一人旅であったけれど道中は熊野詣での旅人でにぎわっていたので、普段なら彼らと言葉を交わしながら共に聖域を目指したりしたのかもしれない。だが基本、心ここにあらずな九郎は、彼にしては随分と寡黙気味に、景色を眺めることもなく、黙々と、あたかも真に詣る人のように淡々と山道を進んでいった。
着くと、大社の見事な鳥居の前に、一人の中年男がいた。
足を痛めていたからだろうか、それとも他の理由だったのだろうか、九郎はなぜか惹かれるように、彼の元へと近づいて行った。
「失礼。ここらに弁慶という者はいるだろうか」
そして、表向き別当への挨拶に来ていた筈なのに、つい、先に弁慶の居場所を聞いてしまっていた。
「弁慶?」
言ってから気づいた九郎はしまった、と、はっきりと顔に出してしまったが、目の前の男は、そんな九郎の様子に構わずに……否、逆に、九郎がそんなだったからだろうか、珍しいものでも見たような顔になった。
「ほう、あいつの知り合いか?」
今度は九郎が驚く番だった。まさか、あてもなくやってきて弁慶の知り合いがこうも容易く見つかるとは。
「弁慶の知り合いか!?」
「まあ、知り合いだな」
「助かった。ああ、名乗りが遅くなった。俺は」
すかさず名乗ろうとした。けれど、それを男は遮った。
「ちょっと待て、名乗りはいらない。俺も訳ありだからな。こういうときは互いに秘密にしておくもんだ。どうだ?」
悪戯めいて笑うその顔に悪い印象は抱かない。というか、どうしてか妙に言いくるめられそうな雰囲気をひしひしと感じた。しかし、それもまた、悪くないと思えてしまうのが謎だ。
とはいえたしかに、ここで自分の身分を明かしてなにかあると厄介かもしれない、と、思った九郎は、男の提案に頷いた。
「分かった」
「よし、いい子だ。じゃあ次の質問な。お前、あれになんのようだ?」
『あれ』とは弁慶のことだろう。親しげだ。ふいに心が痛んだ。
(やはり俺は何もしらない)
それでもここでそんなことを拗ねても仕方ないのだ。九郎は事情を説明した。
「俺は、あいつとの約束を破りました。だから謝りに来ました」
「それだけか?」
「他にも用はありますが、一番はそれです」
すると男はなんともいえない、まるで良いものを見た、とでも言いたげに九郎を見やる。
「はー、ったく、あいつにこんなまっとうな友人ができるなんてな」
「友人?」
「違うのか? いつも来るたび同じやつの話ばっかりしてるぜ。たぶん、あんたのことだと思うけど」
それに九郎は驚かざるを得なかった。が、驚いている場合ではない。
「いや、でも今はもう」
「すまないな客人。あいつが戻らないのは俺のせいだ。ちょっといろいろあってな、俺に責任感じて帰れねえんだよ。暇さえあれば東の空見て柄にもなく寂しそうな顔してるってのに。あれのそんな顔、比叡に行ってからとんと見なくなってたな」
「責任……?」
(を感じるということは、まさか、この男は弁慶の兄なのか?)
そういえば確かになんとなくの馴染みを感じていた。し、だからこそ、決して少なくない人間のいるこの大社前で、この男に目が行ったのかもしれない。
いよいよ言葉に詰まってしまう九郎に、男は続けた。
「客人、あんたが、そうさせたんだろ」
「……?」
「あれは無駄に器用だ。本音も隠すし、嘘もつく。腹黒いし、誰に似たのか口も悪い。他人に心を許さない意地っ張りだ。それは俺の力不足もあるけどな、だがお陰で一人で生きていける力を身に着けちまった。が、あいつはあれで不器用だ。その上とんだ負けず嫌いだ。だってのに、まさか喧嘩したから謝りに来た、なんて相手ができるなんてな……」
優しい目をした男に、九郎は自然に問いかけていた。
「悪いと思ったら謝るのは当たり前だと思うが……?」
「そうでもないぜ、世の中」
「だからといって、俺は……友、でいいのだろうか?」
「これが友じゃなきゃ、何が友だってんだ」
そして男は今までの砕けた態度を一変、改まった風に言った。
「不詳の弟だ。これからもあんたに迷惑かけるだろう。だがどうか、これからも友でいてやってくれ」
耳に心地よい、何もかもを許してくれるような、標のような声。
「……いいのだろうか、俺は、あいつにとっては重荷なのかもしれない」
「あれにはそれがあるくらいで安心だ。自由に海を行く船にだって碇はいる。あんたが碇なんだろ? そもそもあの天邪鬼の言う事、話半分くらいで聞いておけ。本当に嫌なら嫌だって言うやつだ」
「天邪鬼、か? あいつが?」
「甘え方を知らねえんだよ」
「あまえかた」
呑み込めず、ぽかんと、ただ男が発した音を繰り返すと、男は何故か悲しそうに笑った。
「ああ、お前もか……」
そしてなぜか九郎の頭を撫でるのだ。
「なっ!?」
「いいからいいから」
と、男は撫で続けようとするけれど、初対面の人間に(仮に本当に弁慶の兄だとしても)それを許すなど武士の名折れだ。九郎はさっと身を引いた。それに男は面白そうに笑った。
「つれないねえ」
「か、からかうな!」
「そういうつもりじゃなかったんだけどね。ま、こんなところか。じゃあ弁慶を引きずり出しに行くか」
男はなおも九郎に近づきばしばしと背を叩いてくる。随分と距離が近い。嫌ではないが、戸惑うにきまっている。
と同時に、自分の目的にも戸惑ってしまう。
「……いいのだろうか」
「俺が駄目って言ったら帰るのか?」
「それは、たしかに、」
「ははっ、冗談だ。なーに友なんだろ? 友ってのは言いたいことを言って、なんの遠慮もしない間柄で、たとえ離れたってずっと友だ、ってうちの息子が言ってたぞ」
不思議な男だった。一言発するごとに、九郎の迷いが少しずつではあるけれど、消えてゆくような。
「もっと自分の価値を信じてみな」
「自分を……?」
「そう、今までのことを。自分自身を。そんな浅い付き合いだったわけじゃねえだろ?」
浅くない付き合い、なのだろうか。この男に比べると、弁慶のことなど何もしらないように思える。
それでも確かに10年近くも共にいた…共に、いなかった時間も、多い。それでもいつだって戻ってきてくれた。友よりも一歩深い関係が終わった後だって、いたのだ、確かに、近くに。
思いつつ、こくりと頷いた。
途端、迷いがすっと消えていた。
親友ですね、と、何度か紡がれた言葉が、顔がよぎる。
それは必ずしも笑顔と共にあった訳ではない。彼をまた閉じ込めてしまいたいと思う夜だってきっと来るだろう、それでも、
こんな穏やかな綺麗な地で生まれて、こんないい兄がいて、
(それすら知らなかったけど)
(あいつは秘密ばかりだから)
(それはずるいけど、でも、)
「そう……だ。ああ、そうです」
それでも俺を、友としてついてきてくれたから、
「弁慶は俺のかけがえのない友です」
それをゆるぎなく、誇らしいものだと、思うことができたから、
(だから、きっと大丈夫)
許されることがかなわなくも、違わず弁慶を迎えに行ける。九郎は思った。
なにより彼が好きだと思えたから、大丈夫だ。
(08.11.2017)(04.22.2022改)