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「行き違いの果て」



2022年に性的要素無しに書き直した版です
初回(2017年)の初校(無理やり気味R18展開)が気になる方はこちらからどうぞ
この先まで含めて、物語の主な内容と登場人物の主な行動は変わっていませんが、
感情的なものが誤差程度に変わっています



 文月だというのに末だからか、随分と蝉がうるさく鳴いていた。
 昼下がり。正午までには熊野に発ちたかった筈なのに、僕は未だ部屋の中で探し物をしていた。
 笠がなかった。日頃の行い、というものがこれほどに当てはまるもなかっただろう。物の積みあがった部屋の中、みつけやすいはずの形が見つからないなんて。
 こんな時でもなければ出立は明日にまわしただろう。けれど僕は焦っていた。もしこんなことのせいで機会を逃したら悔やんでも悔やみきれなかったし、僕一人の問題でもなかった。だから僕は焦っていた。
 それに。
 探し当てる前に、足音が近づいてきた。僕は唇を噛んだ。……避けたかったのに、間に合わなかった。
 振り返る必要はなかった。足音は九郎のもので、そもそもこれほど整った音で僕の所に近づいてくる人間など九郎しかいなかった。それは部屋の入り口あたりで止まり、明るさの足りない言葉を落とした。
「行くのか」
「ええ」
 出立の理由が別だったのならば、別れを惜しみ会話を交わしあっただろう時だ。けれどいくら僕でも昨日の事がひっかかっていて、……おそらくそれだけではなかったのだろうけれど、そっけなく返すことしかできなかった。
「どうしても行くのか?」
「ええ。兄の頼みですから。君も、君の兄上の為に働いているでしょう? そういうことで了承してください」
 一瞥すれば、九郎は言葉を噤んだ。僕も再び笠を探した。
 笠を持たずに出てもよかった。けれど今、陽射しは強いし、なにより
「もうすぐ雨が降る。せめて明日にしないか?」
彼の言うとおり、空には既に重々しい雲が広がっていた。
「まだ梅雨の終わりは先でしょう。雨を理由にできません」
 僕がきっぱりと言っても九郎は部屋を出て行きはしなかった。
「探し物をしているんですが、そこにいるなら手伝ってくれませんか?」
「断る」
 そして彼もまたきっぱりと言った。
 険悪だった。この一年前、僕が彼を突き放した日から少しずつ……否、もしかしたらもっと昔からずれていたのかもしれない僕らの関係はますます捻じれていたけれど、この頃はいよいよだった。
 僕は僕のすべきしか見ていなかった。
 九郎は九郎で、いつ平家や木曽を追討するために鎌倉殿が出陣するか分からないのだ、気が気でなかっただろうし、そもそも鎌倉の町自体が異様な興奮に包まれていた。
 前日の事もあった。
 それでも僕は無視した。
 それでも九郎は出て行かなかった。勝手に留まり続けていた郎の気の鋭さは増していった。ぴりぴりとしたものを感じたけれど、構わずに僕は彼を無視し続けた。
 そのうち、まるで彼が呼んだかのように、どん、と雨が降ってきた。
 これみよがしなほどに土砂降りだった。
「ほら、降ってきた」
 柱によりかかりながらかける声は無感情。九郎らしくないほどに。
 それでも僕は無視をした。
 ざあざあと流れる雨と一緒に僕の感情も消えていった。
 ……九郎がそうされるのが嫌いな事を知っていたのに、
知っていたからこそ。
 闇雲に怒らせようとしたわけじゃなかった。ただ突き放したかったし、余計な事をしたくなかった。そうすれば出て行くと思っていた。
 なのに。
「今出たら風邪を引く。そしたらお前の兄上の手伝いなどできなくなるぞ」
 言いながら、九郎が入り口の戸を閉めた。それでも雨の音はよく響いていた。
(……人が出かけようとするのに、戸をしめるなんて)
「九郎」
「それどころか、熊野まで辿りつけないかもしれない」
 僕は彼を睨み抗議しようとした、けれど言い終わるより前に、心配する言葉を淡々と吐きながら九郎が大股でこちらに近づいてきた。至近距離で目があった。更に顔が近づいた。視線が完全に重なった。接吻できそうなほどの距離に息を飲んだ。瞳の奥に垣間見えた強い感情に竦んだ。
 その間に僕の体は崩れた。簡単だった。瞬く間に押し倒され、伸しかかられていた。
 雨が打っていた。全ての音を奪われて、部屋の暗さも相まって、九郎の瞳だけがぎらりと光った。
 もしかしたら、何か話があるのかと思っていた。僕に相談でもあって、それで出立を伸ばして欲しいのかと思った。
 けれど違った。目を瞠った。
 彼の瞳に浮かんでいたのは、およそ僕には向けられたことのない程の憎しみだ。前日よりも明確な。……源氏を蔑ろにする僕へ。それでも、と、
「離してください」
なおも冷たく返した言葉は無視された。九郎はぴくりとも動かなかった。
「九郎、どいてください」
 続けざまに、今度は憎しみをこめても動かなかった。でも、瞳だけは揺らいだ。
 迷える瞳。
 その隙を見逃さぬ程度には僕だって場数を積んでいたつもりだ。躊躇わずに僕は九郎の手を掴んだ。引き剥がすつもりだった。けれど逆に掴まれ、もう片方の手と一緒に頭上に押さえつけられた。
「っ、」
 床に転がっていた本が腕に当たって、痛みに顔をしかめた。ああ、ここでも日頃の行いだった。呻いているうちに、九郎は手早く、あたりに落ちていた縄で僕の両手を括った。
「!?」
 さすがに、それには言葉を失った。
 彼が、九郎が僕に、鍛錬以外で害を向けるなどと思っていなかった。実行するなどなおさらだ。
 けれどそれだけではなかった。
 雨を含んで重くなっていった空気。閉ざされた場、覆いかぶさる姿勢、九郎の、何かを訴える……熱に似た何かを訴える目。
 僕は、僕は浅慮にも、ただ安易に愚直に、夜を、かつて共にした夜を想起して。
 瞬きすらできなかった。
(なんだこれは)
 僕は動けなかった。ただただじっと動かず僕を見下ろす九郎を見つめ返すしかできなかった。自分から蹴飛ばし、突き放そうとしていたにも関わらず、それでも、それでも封をしたはずの感情はあっけなく僕を支配した。されてしまった。
 当然だった。僕にとって、九郎は、九郎だったのだから。
 だから状況判断もできぬままに口にしてしまった。
「なんですかこれは」
 それは当然の、当然の悪手だ。どんな声で言ったのだろう、どんな顔をしていたのだろう、声が、身が震えていたかも判ずることなど不可能なほどに僕は動揺していたけれど、それを受けた九郎の瞳の熱が増し、空いていた手が僕の頬に添えられた。撫でられた。まろやかに輪郭を辿った。
「薬師が風邪をひいたらどうする。俺では治せない。お前の役割だ」
 彼の瞳の真意を図れずとも、勘違いに捕らわれそうになれども、場違いな、意外なほどに迷いのない柔らかな掌だった。
 それが僕を冷静にした。
(……これは、駄目だ)
(九郎、駄目だ、君が傷つく)
 戦慄いた。伝えたかった。彼の真意は離れ行く僕には推測すらできなかったけれど、伝えたかった。
 こんな力任せのような方法は君の本意ではないはずだ、と。
 なのに彼に優しくできない僕は紡ぐことができなかった。打ちつける雨音だけが場を包んでいて、普段賑やかな九郎の沈黙を強調するようだった。
 そんな姿は乱暴に僕を押しつぶした。
(九郎を傷つけてきたのなんて……今更なのに、)
 それでも、結局卑怯な僕は全ての感情を飲み込んだ。
 近づく彼に刹那甘やかな幻覚を抱いてしまったことを悔いた。
「君は……」
(そう、今更だ)
 彼を大事とするならば。
 最善は、行くなと言った九郎の要求を受け入れることだったのだろう。鎌倉殿の弟としての立場に潰れかけ惑っていたのだろうと推測できたのだから。けれどそれは僕には許されなかった。彼を大事とすることは、頂に置くことはできなかった。
 ならば蹴飛ばすべきだったのだろうか。九郎の手を払いのけ罵ればよかったのだろうか?
手の束縛など緩かった。そもそも足は自由だったのだから逃げる事など容易かった。きっと九郎はそれを望んでいた。そうすれば僕らの関係は本当に切れた。諦めただろう。確信できた。
 けれど動けなかった。僕は怖れた。もちろん、危害を加えられることを、ではない。そんな事、九郎相手に思うはずがない。
 僕が怖れていたのは結局のところ彼の真意が分からなかったからだ。いくら鎌倉の事態が緊迫していたといえ、やはり僕にとって、九郎がここまでするという事は尋常ではない事に思えたから。
 心配などという美しいものではなかった。ただ先が読めない、それだけで僕は動けなかった。九郎との関係を、どのように残していけばいいのか、図っていたのだ、僕は。
 ただ雨音だけが鳴っていた。
 先に動いたのは無様な僕ではなく九郎だった。
 結局真意を出すことのないままだったけれど、 別の縄を手にし、僕の足元に目を向けた。
(足も、縛るのか?)
 選択の時だった。彼の好きにさせるか、怪我をためらわずに抵抗するか…、
熊野へ向かうか、鎌倉に留まるのか…………、
けれど。
 僕が選ぶことはなかった。
 九郎は手にした縄をぽとりと落とした。
 そのまま拘束を増やすことなく立ち上がり、挙句、背まで向けた。
 言葉なく九郎の髪がいくらか丸まった背の上で揺れていた。
 瞬間、僕の感情はあっけなく、たったひとつに収束した。
(なんだ、これは)
 彼が部屋に来た時からずっと、ずっと同じ言葉が胸中をぐるぐると巡っていた。
 何もかもが想定外だった。この時も最初、去ろうとする彼をただ見上げることしかできなかった。意味が分からなかった。けれどもふつふつと、戸惑いは明確に怒りへ変わっていった。
「……どういうつもりですか」
「何が」
「これは、どういうつもりですか、九郎」
 先程に九郎が僕に向けた焼ききるような感情、あれは少なくとも僕に向けるものとしては稀なほどに大きいものだった、
だというのに、この態度。
 『行くな』と言いにきたはずなのに。好意めいたものをよぎらせたのは愚かな僕だったけれど、それほどまでに強い感情を伴った……、殺気を帯びた視線で抑えつけられたのだから、もっと暴力を伴うようなことになるのかとも身構えた。
 そうなれば彼に不利益になると、心に傷を負って欲しくないと思っていたのに、いざ手を離されて、僕は苛立ちを覚えていた。
 矛盾だった。
 終始、八つ当たりでしかなかったのだろう。本当は、ひっそりと去りたかった。なのに見つかってしまい訳の分からぬ態度を取られて、自業自得とはいえがんじがらめな状況も相俟って、僕も余裕を失っていたのだろう。
 だからどんどんと余計なことを紡いでいった。
「言いたいことが、あるんじゃないんですか?」
(そういう瞳をしていたじゃないか!)
 冷静を欠いていった僕の追及に、けれど九郎は答えなかった。
「最初に言った」
 かわりに九郎は部屋の外へ出、冷たく一瞥した後に戸を外側から閉めた。纏わりついていた雨音が遠ざかった。
「九郎?」
「俺が見張っているうちはどこへも行かせない」
 言葉と同時にがたりと寄り掛かった風な音がした。
 会話が止まった。気配はあった。宣言通り、本当に見張っているらしかった。
 ただ雨音だけが鳴っていた。ざあざあと注ぎ続ける音は時の経過を歪ませた。沈黙が長いものに感じられた。
「それだけですか?」
「……」
 ……最初に言っていた。たしかに、行くなと、言った。けれどそういうことではないはずだった。
 返された無言に、一気に怒りが沸いた。目の前が赤く染まっていった。
「馬鹿じゃないですか」
「なんとでもいえ」
 戸越しに返る声はなおも淡々としたものだった。
「はっ、君もたいがい身勝手だ」
「君『も』か。自覚はあるんだな」
「そうですね、それくらいの引け目は持ち合わせる程度には謙虚ですよ」
「そうだな、その程度だ」
「けれど、今の君よりはよほどいい」
 暖簾に腕押し。言葉をぶつけても返されない状況。当然僕の気はどんどんと立っていった。
「君の覚悟はその程度か」
「挑発には乗らん」
 挑発などではなかった。
 九郎のくせに。
 言いたいことも言わずに。
 『行かせない』と全身で訴えていたのに、実際に行うことはただこれだけか。
 戸を閉め閉じ込めたところで、そもそも窓のある部屋だったのだから、外へ行くのは容易く、僕なら壁だって壊しただろう。
 足を縛ればよかった。簀巻きにしたってよかった。それで足止めとして十全かは別として、時間稼ぎにはなる。
 それすらしないとは!
「見損ないました」
 普段腹を割って話せばわかるなどと言っているのに、拘束などというらしくない手段をとっておきながら、関係に火をつけておきながら、半端なことしかできない。
(どう結末を辿ったって、ただ君が傷つくだけだ!)
 ああそうだ、これが僕の罪の先だ。九郎にこんな、こんなひどい事をさせている。彼の大切なものを蔑ろにしている僕のせいだ。
 彼に何も言わず置き去りにして時を重ねてきた僕のせいだ。
 全力の説得を、僕に踏みにじられたくないからこれ以上踏み込めないのだ。
 そんなことは分かっていても、言わずにはいられなかった。
「なにが源氏の御曹司だ」
(それでも、だったら、こんな半端なら、自己満足以下だというのなら、何もしなければいいんだ!)
 僕が九郎を置き去りにするということは、彼の、兄の、九郎の大切な鎌倉殿を軽んじているということと等しかっただろう。
 今まで僕の行動を黙認してきた彼が、わざわざ阻止しに来たほどだ、よほど許せなかったのだろう。なのに、対する怒りも覚悟もたったこれだけなのか。
 それは随分と勝手な期待で……彼に強き将になってほしいという願いのような押し付けで、彼本来の気高さへの羨望で、
あるいは、あるいは本当は、止めて欲しかったのかもしれない。
 ああ、そうだ、それこそ身勝手な話で、
「君の、痛みは、その程度か!」
これが正しかったのか、僕は今でもわからない。

 それでも僕の、僕を見失った言葉の後、戸が開いた。
「…………分かった」
 いくらか感情を帯びた声でと共に九郎が近づいてきた。
 普段の歩調。そのままに、ごく自然に、短刀を鞘から抜いた。
 そして、縄を抜きもせずに腰をおろしたままだった僕に覆いかぶさりゆっくりと肩を掴み再び押し倒し、首筋すぐ横に短刀を突き立てた。
「これで行けないな」
 そこには明確な殺意があった。
 判断を誤ったら、殺されはしなくともおそらく、死と同じほどに僕たちの関係が、決定的に変わってしまうであろう、殺意が。
 理解っていた。転機だ。
 いよいよ、今度こそ、間違えてはならなかった。
 なのに、すべきことを置き去りにして僕は笑みを浮かべずにはいられなかった。
「それでこそ僕の九郎」
 僕は一切の抵抗をしていなかった。のしかかる九郎を悠然と見守っていた。それらすべて気に入らなかったのだろう、およそ向けられたことのない、蔑みの瞳で冷淡に見下された。
「無様だな」
「無様? 僕が?」
「そうだ。ここで笑う、お前は無様だ」
 強い言葉だ、ただし瞬きの裏の殺意は揺らぎ、肩を抑えていた手が頬に伸び、指先が触れた。
 それで気付いた。僕は涙を流していた。
「言いたいことを言わないのはどっちだ」
 声音はなおも無表情で冷たくも、いくらか嘲りが混ざった。らしくない様だった。だが美しかった。本来持つ暖かな色味を凌駕する玲瓏さが美しかった。
(こんな顔も……できたんだ)

 どうして魅入らずにいられようか。

 すべての状況を忘れ、僕の中から怒りどころかあらゆる感情が消えてしまった。
 彼を傷つけたくないという葛藤も、離れがたい愛着も……それだけでなく、煩わしかった雨音もかすかに触れていた短刀の刀身の冷やかさも、固く涙を辿っていた九郎の指先の細さ以外はどこかに消えて、ただただ、満たされてしまった。
 迷いさえも霧散して、
だから、すんなりと決めることができてしまった。
「九郎、僕は君が好きでした。……好きでしたよ」
「っ」
 縛られたままの窮屈な手を精一杯伸ばし、僕も頬に触れた。常よりはひんやりとした頬。途端、九郎は身を強張らせた。先程までの「覚悟」はあっけなく崩れたようだった。
 それは大きすぎる隙だった。
「でもそれだけだ」
 言って、僕は足元にあった壺を蹴り上げた。近くの棚にぶつかり、乱雑に積み上げていた巻物が大きな音をたてて落ちた。
「なっ」
 おそらく彼もまた「のまれて」いたのだろう、戦い慣れしていた九郎でも、すぐには対処できなかった。
 そのまま頬へ伸ばしていた手を一度引き、勢い乗せて横殴りにした。体制が揺らいだ。僕は彼や短刀と逆に転がり体を起こし、もともと解けかけていた両手首を束縛していた縄を解いた。
 けれどできたのはそこまでだった。すぐに体勢を立て直した九郎が僕を蹴り飛ばした。両手で防いだものの再び倒れた。
 その隙に九郎は床に刺していた短刀を抜いた。すかさず僕は近くに落ちていた巻物を掴んで殴りかかった。目的は短刀を落とすこと。けれどさすがに九郎はそれを許さず僕の腕を払い間合いを詰めてきた。
「弁慶っ!」
 振りかぶった。刃が迫った。死線があった。確実に喉元を掻き切って仕留められる切先だった。幾度も幾度も鍛錬をして、意識せずともとれるようになった動作だっただろう。
 けれど、九郎は動きを止めてしまった。なぜなら相手が僕だった。僕の命を奪うことは、彼にはできなかった。
 至近距離の瞳が惑った。……逆の立場におかれていたら僕だって、できない。命を奪えるはずがない。感じたのは悲痛さだった。胸を打った。それでも僕は再び抜け出した。
 九郎も動いた。
「待て!」
 左手を伸ばして僕の片足を掴んだ。籠められた力はあまりに強く骨がきしんだ。顔をしかめるほどの痛みだった。
 けれど僕は笑っていた。間に合わなかったのだ、九郎は。かろうじて、僕は小さな玻璃の入れ物をつかんでいた。
「ああ、楽しかった。……楽しかったです、九郎」
「なにを」
 高らかに告げながら、玻璃を九郎のごく近くに叩きつけた。
 ぱりん、という清涼な音と共に一気に煙がひろがった。
「べっ…、お前は……!!」
 状況が分かったのだろう、九郎が僕を掴む手に力を込めた。今度こそ短刀を振りかぶった
。今度は迷いがなかった。目標はおそらく太腿だった。
 けれどそれは叶わなかった。
 あっけなくあっさりと僕に腕を掴まれてしまったからだ。
「っ!」
「ああ、少し血がでてしまいましたか。さすがに君ですね」
 とはいえ、九郎の振り下ろす勢いを殺せず刃を腕に受けてしまい、ぽたり、ぽたりと血が滴った。でもたったその程度だ。
 その程度。
 袖で覆い隠した口元を歪ませていた僕の眼前で九郎の瞳がどろりと濁った。
「弁慶、ひきょ」
「……う、なことを、してでも、行くべきなんですよ、僕は」
 どさり、と九郎が倒れた音が雨音に打ち消されることなくに響いた。
 煙の正体は強い眠り薬だ。戦場で、九郎の危機を救うために調合した薬は、邸の中で使うには、強すぎるものだった。
 それを遮らずに吸い込んでしまったはずなのに、なおも九郎は僕を見ていた。それでも抵抗しようと必死で瞼をあげようとしていた彼を、僕から視線を外さなかった彼を、見つめる僕は、どんな顔をしていたのだろう。
「べんけ……」
 ほんの一瞬の時間は随分と長く感じた。早く眠って欲しかったような、ずっと視線をかわしていたかったような。けれど、ついに九郎は瞳を閉じた。ただし、なおもしっかりと、彼の手は僕の足を掴んだままだった。
 その指に、この日のなによりも物惜しさを感じた。
 けれど終いなのだ。
(…………楽しかった、嬉しかった、ずっと、ずっと)
 僕は起き上がり、彼に身を寄せ覗き込んだ。
「…………九郎、」
 呟いた名には多分に未練が含まれていた。何を今更。自嘲しながらそっと彼の指に触れた。固い、良く知った指だ。何度かそれを撫でた後、ゆっくりと開かせた。掴まれた瞬間の力強さとは存外にあっけなく彼の手は僕から離れた。当然、彼の瞳は閉じたままだった。(ありがとう)
 指先にひっそりと口づけた。滴る血が彼の衣を汚した。
 耳を寄せれば規則正しい寝息が聞こえていた。……半刻は目を覚まさないだろう薬だった。ついでに両手にそれぞれ縄をかけ、片方を九郎の短刀で床に縫い付け、片方を柱に括った。両足も束ねた。生ぬるいと彼を罵ったのだ、本気を踏みにじったのだ。徹底的にやるべきだった。傷つけて、二度と僕の目の前に現れぬように。
『ここで笑う、お前は無様だ』
 先ほどの言葉を脳裏に浮かべながら、僕は声をあげて笑った。
 怒るだろう、卑怯なやり方になったことを。
 対話することもなく置き去りにされたことを。
 最後に見せてくれた本心を踏みにじったことを。
 それでも、これが僕の答えだった。指先をもういちどぎゅっと握りしめて、それでも立ち上がった。


 相変わらずに雨が降っていた。
 傘は見つかっていなかった。身支度も半端だ。それでもここにいるわけにはいかなかった僕は、簡単に外套を羽織っただけで発つこととした。
 濡れても夏だから風邪もひくまいと思えた。
 なによりこの時は雨に打たれたい気分でもあったのだ。
 探していた笠は、やはり見まわしただけでは見つからなかったから九郎の物を勝手に拝借した。
 そうして静かに、雨音に隠れ身を整えた僕は、最後に一度、眠る九郎の顔を見た。
 酷い顔だった。酷く苦しんでる顔だった。きっと悪夢を見ていた。そうでなければ、また頭痛に苛まれてるのかもしれなかった。
(鎌倉殿に、情勢に関係なく、引き留めたいという想いも少しは持ってくれていたのかな)
 身勝手な寂しさがまだ濡れていない外套を重くした。鳴る雨音がすべてを閉ざすようだった。
 それでも僕は、彼から離れるのだ。
 罪があった。咎もあった。だからこの離別は揺るぎないものだった、けれど、
(僕は弱いから……今、ここで出ていかなければ、)
(君の隣にい続けたら、いつまで続くか分からぬ償いの道を辿ることなどもう、できなくなってしまうから)
 だから、彼から離れるのだ。
「さよなら、九郎」

(今度こそ君は、僕を許しはしないだろう)




(04.15.2022)


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サソ