home >> text >> contents
「いよいよ彼に背を向けた」



 熊野から戻れば、鎌倉は随分と慌ただしさを増していた。兄が言っていたとおり、いよいよ木曽が京へ入ろうとしていた時期で、当然鎌倉殿や近しい御家人はそれを把握していて、鎌倉殿は無関心を装っていたけれど、周囲の御家人は誰しも浮足立っていたころだった。
 そんな中で僕は着々と準備を始めた。
 九郎は丁度、どこかへ出かけていたようで、しばらく家に戻ってくることはなかった。
 僕が兄に呼ばれた頃とも、僕が熊野を出立した頃ともきっと状況は変わっていた。木曽が京に入るのは時間の問題だった。いつ何が起こるかなんてわからない。
 きっと、鎌倉殿の弟である九郎が出かけているのもそういう理由で。
 九郎と行き違いになるのは少し心が痛んだ。事実は言えなくとも、顔くらい見ておきたかった。より詳細な情勢も聞けるかもしれなかった。……この時の僕には後者の方が重要だったかもしれない。
 九郎は戻ってくるのだろうか。準備を進めながらも思わずにはいられなかった。どこかに行ってばかりの僕だったので……それだけ九郎を待たせていたということなのだろうけれど、なのでこうして拠で九郎を待つ、ということはほとんどなかった。京の五条河原にいた頃くらいだろうから、自然その頃を思い出していた。九郎と言葉をかわすようになってほんの間もない頃を。
 当時、いつ来るかと知らぬ彼が来るのを僕はなんとなく楽しみにしていた。当時は来たら来たでうるさいし面倒だし、と思っていたけれど、それでも僕は九郎が来なくなってしまえばいいなんて思ったことはなかったんだ。
 この時もそれは変わらなかった。なのにいざ九郎が戻ってきたときのことを思えば少し憂鬱だった。
 だから本当のところ、好都合だ、などと思ったりもしていた。
 きっとまた僕の言葉が九郎を傷つけるに違いないのだから。
 出会いから八年。遠い遠い過去。


 
 九郎は僕が鎌倉に戻ってきた4日目……再び熊野に出ると決めていた前日に帰ってきた。
 それは多分、僕と九郎の行く末を変えた。


 どこかから戻ってきた九郎は僕がいることに驚いていた。いつものように、ずんずんと前だけを見ていた彼は、通りがかりに僕がいたことに当初気づかなかったようで、5歩ほど行き過ぎたところで振り返り、それはそれは目を丸くしていた。
「っ、弁慶!?」
「お帰りなさい。九郎」
 完全に、僕などいないと思い込んでいたようだった。
「厩に僕の馬がつないであったでしょう? 気付きませんでしたか」
「いや、ああ、そうだな。俺の馬は人に預けてしまっていたから、見てなかった」
「でしたか。それなら驚いたでしょう」
 にこりと笑うと、九郎はようやく驚きを和らげはにかんだ。子供のようであったけれど、京にいた幼き頃にはあまり見れなかった仕草。可愛いな、と素直に思えど沸き上がる感情は封殺した。
「今回は随分早かったんだな。最速じゃないか?」
「ええ、そうかもしれないです。まっすぐ行って、一日泊まってまたすぐ帰ってきましたから」
「兄上の用件は上手く行ったのか?」
「残念ながら……やはり、熊野は中立を崩しそうにはありません」
「そうか」
 あからさまに九郎は残念そうな顔をした。
「その報告も、鎌倉殿には既に済ませてきました。九郎、僕は君の役に立てませんでしたね、すみません」
「いや、それはいい。お前に頼りきりで武勇をあげるつもりなど元よりない」
 言いながらもどう見ても落胆していた。それでも僕もあの熊野を動かすつもりはなく……もっとも、別当である兄の目は鎌倉殿など見ていなかったので、それ以前の問題と言えたのだろうけれど、
僕はまた積み上げた書物や巻物を崩す作業を再開した。
「虫干しか?」
 九郎はすっかりと意気消沈してしまったまま続けた。
「いえ、探し物を」
「それにしては随分と散らかしてるな。足の踏み場もないぞ」
「少し急いでいるんです」
「急用か?」
「ええ。明日、また鎌倉を発つ予定で」
 ぴたり、と九郎がとまった。
「明日?どこに? また兄上になにか言いつけを賜ったのか?」
「いえ、鎌倉殿ではなく僕の兄に少し頼まれごとをしまして、熊野まで。今度はしばらくかかると思います」
「しばらくって……お前、今がどういう時か分かってるのか!?」
 ぴくり、と眉が釣り上がったかと思ったら、いきなり九郎は叫んだ。豹変と言っても過言ではないほどだった。
「君と同程度には分かっているつもりですが」
「だったらどうして鎌倉を離れるなど言えるんだ。木曽や平家との戦がついにはじまって西へ攻めあがることになったらどうする! お前は……っ、お前は、源氏にいたいと言った、だったら兄上の為に働け!!」
 ぴしゃりと言った九郎の目は憎悪に満ちていた。彼は怒りっぽい性質であれどこれほどに急に声を荒げることは珍しかった。こんな目をさせてしまったのか。僕はとっさに言葉を紡げなかった。
「……そうですね」
「っ! いや、すまない、今のは言いすぎた」
 そんな僕のせいなのか九郎はすぐに撤回した。
「違う……すまない。今のは忘れてくれ」
「九郎」
 おそらく、僕の状況が転機を迎えていたように、九郎を取り巻くなにかもまた、更に変わってしまっていたのだろう。
 九郎はなおも力なく首を振っていたが、君の言葉は正しい、と僕は伝えたかった。僕は源氏の郎党だ。その為に傍らに置いてくれとまで言ったのだから、鎌倉殿のもとで武勲をあげ九郎を助けるのが当然であったのだから、彼はまったく正しかった。
 けれど、そう伝えてしまえば彼の言うとおり鎌倉に、九郎と共にいなければならない。
 兄に話を聞く前ならばそれでよかった。僕の目的は平家で、鎌倉殿が平家を追い京へ行く日もそう遠くないと推察はできていたのだ、それを待てばよかっただろう。
 けれど選べなかった。より確実に早く挙兵する術を、熊野を、僕は選ぶしかなかった。
 その事実は、自分で思っていたより僕に重くのしかかっていたようだった。僕はささくれる自身の心を繕いもせずに沈黙しかできなかった。ので、察し、耐えきれなくなったのだろう九郎は身を翻し部屋を飛び出そうとした。
「……もういい、また後で来る!」
 けれどその時、おそらく九郎の腕が当たって、僕が積み重ねた書物や骨董の山が派手に崩れた。
 どさどさという音にまぎれて、ぱきん、と、明確に何かが壊れた音がした。嫌な予感がした。
「!?」
 九郎も立ち止まった。けれど崩れた山には、何かが破損した形跡は見当たらなかったので、次に部屋をぐるりと見渡せば、なるほど、九郎が弾き飛ばしたのか、巻物がひとつ、あらぬところに落ちていて、それと一緒になにかが転がっていた。
「これは、」
 僕は近づいた。木彫りの鴨だった。ちょうど細くなっている首の部分でぱっきりとふたつに折れてしまっていた。
「よりにもよって、いま、これが」
 僕の中でも何かが小さく崩れた音がした。
「大事なものだったのか?」
 九郎の声は実にすまなそうだったのに、僕は彼を気遣うことも忘れていた。
「君がくれたものです」
 茫然と、木彫りをまるで生きたそれのように僕は大事に両の手のひらで包んだ。けれど九郎の返答はあっさりとしたものだった。
「なんだ、そうか」
「なんだ、って」
「大事なものなのかと思っていたんだ」
「大事なものですよ」
「でも、俺が作ったものなんだろ? そんなものお前が気に病むほどのものじゃない」
「それは、君が決めることではないでしょう」
 僕は相当この時追いつめられていたのだろう。こんなことを言う必要はなかった。ここで、九郎と対立することは無用だった。ゆえに、例えば、同じ言葉を言うのでも、憂いでも含めて言っておけば、少しは丸く収まっただろうに、なのに僕は心の全ての怨みを込めるかの如く九郎を見もせずに口にしていた。
「俺が作ったんだ。俺がそう言って何が悪い」
「開き直りですか? 受け取った時点でもう僕のものでしょう」
「お前こそなんだんだ? そもそもこんな風に散らかしておくのが悪い」
「壊したのは君が暴れたせいなのに、人のせいにするんですか」
「八つ当たりはやめろ」
「君の方こそ」
 どう考えたって僕の方が理不尽だった。九郎の言うとおり、半分は八つ当たりだった。
 けれど、それだけではなかった。
「……分かったもういい。何でも俺が悪いんだろ? ああそうだ、悪いのは俺なんだ。だったら似たような別のやつを持ってくる。ちょっと待ってろ」
「結構です」
 だから、別の木彫りを自分の部屋に探しに行こうとした九郎をぴしゃりと止めた。当たり前に九郎の声が更に低くなった。
「同じじゃなきゃ意味がない、とか、子供みたいな事を言うんじゃないだろうな」
 僕は九郎が何を持ってこようとしているのか、大体見当がついていた。僕の部屋と違って九郎のそこは片づいている。九郎は自分の木彫りを昔から特別には大事にしないけれど、気に入ったものはいくつか飾っている。そのうちのひとつの、彼が大層気に入っている鶴を模した木彫りを持ってくるに違いなかった。それは見事なもので、僕も何度か欲しいと言っていたものだったし、九郎はこういう時、気に入ったものこそを迷わず他人に譲れる性格だった。
 分かっていても、この日の僕は首を横に振りつづけた。
「ええ、これでなければ意味がない」
「じゃあ」
「君のくれたこの鴨、まるで囀りだしそうな愛らしさで好きでした。けれど、僕が本当に大切にしていたのは、これをくれた時の君の言葉だ」
「……言葉?」
 正確には、くれた日の、だったけれど、どっちにしろ……それが僕は大事だった。

『友達だからな』
 冬の山で遭難した僕を、当たり前だと言って迎えに来てくれた九郎。
 かなり昔の話だ、さすがに鮮明に思い出すことはできないけれど、それでも、あの時のなにものにも代えがたい気持ちは未だこの胸にある。
 『親友』などと肩書を付け、ふわふわと、すべてを相談できると分かち合えるとひそやかに頼りなくも願っていた、思い出。


「だからもう別のものでは取り返しがつかないんです」
 子供のような言い分だった、けれど、
散々に嘘を重ね……他人だけでなく九郎の事だって騙し、振り回し、束縛し、言葉に対して誠実さなど持ち合わせていない僕が言う資格などないだろうけれど、
まるで神託かなにかのように、僕にとってあの日の思い出が大切だった。
 それが壊れた。よりにもよって、九郎の元を離れ、他の勢力とともに宿敵の陣に攻め込もうとしていた時だったからこそ、砕けてしまった、遠い昔の雪に包まれた日の象徴が、
まるで前兆かなにかのようで、
まるで本当に、彼との距離が離れるようで、
「だからもう、いいです」
 僕は繕いもせずに嘆いた。
 けれどそんなこと、九郎に通じるはずもなかった。
「……お前は、なんなんだ。何がしたいんだ」
 僕が散々振り回し、突き放し置き去りにし距離を取ってきた結果、僕が何をして何をしようとしているのかなど知る由もない九郎に対して、この僕の言葉など拒絶以外の何物でもなかっただろう。
「そんなに言えないことなのか? 都でも焼き討ちにするつもりか? 言えないならなんでここにいるんだ? 俺を踏み台にするつもりか? あるいは俺の首でも狙ってるのか!? そんなに俺は…………俺は……っ、」
 それを、今更。今になって、
「俺を…………」
 僕は、ようやく九郎を見た。声だけでなく腕もちいさく震わせていた彼は、もしかしたら殴りつけたい衝動を精一杯に抑えていたのかもしれない。

 九郎はいつだって正しい。この時だって正しかった。実際僕は、彼のいうように言えないことを、世の道理に反することばかりをしていた。親友であり膝を折るべき相手でもある九郎と共にあることこそ正義で唯一だったはずだ。だからといって、正論ばかりが誰かを救えるわけじゃない。君はいつも身勝手なほどの清廉さで僕を斬る。持ち前の勘を振りかざして勝手に真実を語る。踏み荒らす。僕にはそんなものないからうんざりするほど思考を巡らせるしかなかったのに。
 存外、震えることはなかった。
 極めて冷淡な声音で返して。
「明日出ます。急いでいるので、これ以上邪魔立てしないでください」
 いよいよ彼に背を向けた。
「弁慶!」
「もう話す事はない」
 九郎の顔は見なくとも分かった。怒りに震えていたか、もしくは、抑えていたか、だ。
 それでも僕はまた探し物を再開して、
九郎は間も無く立ち上がり足音を踏みならしながら出ていった。
(嫌われただろうな)
 もう駄目だ。
 それだけの事をやっていると言うのに、そんな言葉が僕の胸をついた。
(きっとこれで別れだ)



 僕と九郎の道が離れた事は、彼にとっては幸いだった。
 僕は九郎を救えない。彼の孤独に寄り添えない。平泉にいた頃からうすうす気づいていた事を、僕はようやく認めたのだ。





(07.28.2017)(03.11.2022改)


 / ←[46] / / [48.It’s rainy in the city]→ /
home >> text >> contents >> pageTop
サソ