「五条の縁・中編」
※「五条の縁・前編」の直後です
九郎の視界の中で、いつの間にか、弁慶が振り返っていた。
「互いに互いの勢力の一員として、偶然やりあった。ただそれだけのきっかけ。僕たちが出会った縁は、霞んでしまいそうなほどに不確かなものでしかなかったはずなのにね」
弁慶の表情はよく見えなかった。だけど九郎は吸い込まれるように見惚れていた。
「君が君で、よかった」
そうしている間に弁慶は、すっかり魅入ってしまっている九郎の指先に手を伸ばし、添えた。
「これがお願い事、じゃ、駄目、ですか?」
「手を……繋ぐことか?」
「そうです」
夏に似合いの髪色の向こうに垣間見える横顔はよく見えない。けれど、荒れた手のひらは暖かだった。暑い気温でも心地よい暖かさ。
「構わないが……これしきのことでいいのか?」
「ええ」
頷いた彼の後髪が揺れる。
弁慶の言う事はいつだって身勝手で、意味が分からない。そんなの昔から知っていて、彼に改めて言われることではない。知っている。多分誰より九郎が知っている。
だから今もその一環で、よく分からないけれど、九郎は弁慶の笑顔を見つめた。重ねられた手を一度するりと抜き、手のひらの汗をぬぐうのも忘れてしっかりと握りなおした。
「……変な奴だな」
ぎゅっと握る。弁慶が目を細める。
おもむろに、九郎はぱたり、と、身を倒した。景色が緑から空へ、そして天井へ映る。最後に弁慶の髪色がよぎった。彼も九郎に倣ったからだった。
つられるように、彼を見た。その目はどこか、暑さにうだっているような、そんな風だったけど、なのにまっすぐで射るようで、
引きつけられるように、体ごと彼を見る。繋いでいない手を伸ばす。距離が近づき、弁慶が静かに目を閉じてゆく。長いまつげに吸い込まれるように、頬に触れて、唇を重ねた。
柔らかな感触。確かめるように、二度、三度と重ね合う。角度を変えて繰り返す。薄く開いた唇から湿った息が漏れる。その間を縫うように互いに舌を差し入れ入れられて絡んだ。
繋いだ指はいつの間にかほどけていた。代わりに弁慶の腕が背にまわされる。九郎も同じように引き寄せようとする、けれどその前にぐるり、と体が回った。目を開けば天井を背に、重ねた唇は離さないまま弁慶が伏せ目がちに九郎を見ていた。九郎も今度こそ彼を抱きしめ、倣う。上下が翻る。
ころころと、光を避けるように何度か転がった。確かそっちには、部屋の隅には屏風がある。そこなら……きっとまだ、望美たちは戻っては来ないだろうが、万が一、帰ってきたとしても、誤魔化すための時間稼ぎができる。と、思える程度にはまだ自分は冷静だな、思ったけれど、そもそも衝立ひとつで遮ってみたところで、昼間からこんな事をしている言い訳にはなりはしないのだから、根本から違えているのだろう。だが一度触れてしまったが最後、ついさっきまでは穏やかに笑う弁慶の姿にただ胸をときめかせて、それでも構わない、と思っていた筈なのに、九郎はあっけなく決壊した。最早止まれる気がしなかった。
端までやってきたところでようやく二人は顔を離し、死角に入って向かいあい座った。代わりに互いの衣を脱がしにかかる。いつもなら気にもとめない衣擦れの音がやけに耳に残った。波の音でかき消されればいいと思った。焦る指先は紐をうまくほどけない。それは弁慶も同じだったようで、九郎は少しほっとする。そうしてたどたどしくも二人は互いの肌をまさぐるようにどんどんと衣を落としていく。板張りの床は露出した肌には冷たくて、九郎は自分の熱を知る。本当に、自分は彼を欲していたのだと思い知る。さっきまではおろか、一年耐えてきたことまでも偽りだったかのように求めていた。自惚れでなく、それは向こうも同じに見えた。だったら、彼もずっと、自分のように願ってくれていたのだろうか。それがたまらなく嬉しかった。
嬉しくて、途中でもうじれったくなって、九郎は弁慶の膝に手をかけた。
が、そこでようやく気がついた。そういえば自分も彼も、男だ。それは構わないが……どうすればいい?
と、九郎は動きを止めてしまったけれど、
「構いませんよ、九郎」
微かに息をあげ、揺れる瞳で弁慶が、まるで見抜いたかのような事を言ったので、九郎は頷き弁慶の肩を押し倒した。
本当なら彼の言葉を否定する場面だ。それでは弁慶一人が辛い思いをする、駄目だ、そんなこと強いるわけにはいかない、と、言うべきで、言わなければいけなかった。
しかし九郎はそうできなかった、それほどまでに彼を渇望していた。そんな己にいささか驚きながら、弁慶の腰を抱え上げ、足を開かせて後孔に湿らせた舌を押しあてた。
「っ」
途端、弁慶が驚いたような声を上げた。
「九郎」
「いいと言ってくれただろう」
「それは、そうですがそんな…んん、」
構わず続けると、次第に弁慶の声に甘さが混じるようになったから、平気なのだろうと判じて九郎は更に舌先を中へねじこんだ。弁慶の声がかすれてゆく。九郎の体も欲情でしびれてゆく。中でいくらか動かせば、それに合わせて頬に触れる腿が震えた。声の漏れる感覚も短くなっていった。
ただ、彼も人目を気にしているのか、布で覆われたままの腕を口元に押し付け懸命に抑えているようだった。忍び苦しむような切ない声音につられ九郎まで息をひそめてしまい、
……いや、どうして弁慶が感情を抑えているのだと、九郎は思うんだ? もしかしたら彼はいつもこういう風かもしれない。だって、九郎は彼の嬌声など、たったの一度も聞いたことがないじゃないか。
その事実に、再び九郎は動きを止めた。過ったのはさっき、まだ言葉を交わしていた時分に手を伸ばせなかった時と同じ感情。顔をあげる。日陰といえど十分に明るい視界の中、白い肌をうっすらと赤く染めて、熱を帯びた瞳とかちあった。覆ったままの口元からは絶え絶えに息が漏れていて、波音に消されず九郎の耳に響く。
非日常がそこにあった。
その姿はどうしようもなく九郎を煽った。
だが同じだけ九郎は怖れた。
穏やかに弁慶を見ていた日々は満たされていた、けれど時に、九郎はこんな光景も幾度となく懸想していた。夢にまで見たことすらあった、
だというのに、躊躇ってしまうほどに、今の九郎にとってはありえぬ光景だったのだ。
十年共に過ごしてきてたったの一度も見たことのなかった彼の姿。十年だ、短い時間ではけしてない、それに今更踏み込むというならば、
ゆえに、きっと、この先に進めばもう二度と元に、
「大丈夫です」
けれど再び、そんな九郎の思考を読んだかのように弁慶が言った。
「君が君で有る限り、僕と君との関係は、たとえ呼び名が多少かわろうとも、本質はなんら変わることはありませんよ。……他ならぬ、君が教えてくれたことです」
「弁慶」
「だから僕らは今ここにいる。そうでしょう?」
はんなりと、熱を帯びた表情で、弁慶は言った。
いつものことだが、彼の言葉はぼんやりとしすぎていて九郎にはよく分からない。それでも、
「……そうだな」
九郎は自分の指で乱暴に口内をかき回した後、それを弁慶に差し入れた。
「っっ」
分からなくても、分かった。大丈夫なのは分かった。だって確かに今、二人はここにいるのだから、だからきっと変わらない。
ますます逸る心で九郎は指を動かす、が、随分弁慶はきつそうだ。彼のそんな顔にすら、酷い己はどんどんと余裕を失っていきそうで、九郎は焦る。ふいに弁慶がおもむろに、頭上に手を伸ばした。目で追うと、そこに彼の薬箱があった。乱暴に開けたから、蓋ががたりと音を立てて落ちた。中身もいくらか散らばった。が、弁慶は懸命に体を腕を伸ばし指で探りながら、ひとつの筒を探り当て、九郎に転がしてよこした。
「これを使って」
蓋をあけると、中身はなにかの軟膏だった。
「何の」
「今は効能に意味はないですから」
九郎は頷いて、言われたとおり空いた指ですくい取り、再び弁慶へ差し入れた。すんなりと吸い込まれていった。
「九郎、つけす、ぎっ」
弁慶が抗議の声を上げる、たしかに少し多かったかもしれないが、お陰で指はなめらかに動く。内壁をぐるりと撫でながら九郎は指を増やす、広げると弁慶が小さく身じろいだ。強張っていた足から力が抜けてゆく。折った膝が開いてゆく。もう一本指を入れてゆっくりと抜き差しをすると、弁慶の腕が宙を泳いだあと床に広がる九郎の髪先を掴んだ。くい、と引かれた。その仕草に、いつもの彼からは想像もできない表情に、九郎はとうとう耐えきれなくなって、指を引き抜き代わりにはちきれそうな肉を押しあて、挿れた。途端、弁慶の体が跳ねた。
「あっ……ん、きっ…つい、ですね」
言葉とは裏腹に、弁慶はなんだか楽しそうに微笑んでいたけれど、九郎が動き出すとそれはすぐに崩れた。零れる声は一際高くなり、しがみつくように九郎の両腕を掴む。手のひらはじっとりと汗ばんでいて、目には涙も浮かんでいたが、大丈夫か、とは言えなかった。駄目だと言われたところで最早止められはしなかったから聞けなかった。汗が流れる。それすらも気にせず九郎は腕の下の弁慶を抉る。その度に、弁慶の口から喘ぎが漏れる。耐えるように、彼は必死に目を閉じていたけれど、
「弁慶、」
と、九郎が呼ぶと、うっすらと目を開ける。いくらか焦点の合ってなかったがこちらを見上げた。
「好きだ」
「うん」
「ずっと好きだった」
「……うん」
告げながら、九郎は弁慶の下に膝を潜り込ませ、腰を抱える。そして不器用ながらにすっかりと濡れている弁慶のものを握って、ゆるく動かす。うまくできなくて、両方の動きがおろそかになる。それでも弁慶は首を大きく振った。
「九郎、それはっ、ん、あ」
「いいから」
「そん……ぁ、九郎待って、あぁっ」
とうとう堪え切れないのか声が弾けた。指が腕に食い込んだ。構わず続けると、いくらも待たずに弁慶はどくん、と大きく脈打って、九郎の手のひらの中から白濁が飛んだ。九郎の手にも落ちてきた。暖かさに妙に胸が詰まった。そうしている間に、一時張りつめていた弁慶の体や表情から力が抜けて行って、がくり、と無気力な瞳が九郎をぼんやりと見上げたあたりで、
よかった、と安堵したからか、九郎もあっさりと達してしまった。
あがった息を整えていたところで、蝉の声が耳に入って、九郎はいきなり我に返った。
「……」
弁慶はけだるげにそんな九郎を見あげていた。彼とこのような事をしたのは初めてだから、多分そんな表情を見るのもはじめてなのだろうが、なんだかそれは彼らしくて、それが妙に楽しくて、このまま腕の中に閉じ込めておきたいな、と、名残惜しくはあったけれど、そうはいかないだろう。
体を離し、身を起こすと、ますます九郎は冷静を取り戻していって、昼間からとんでもないことをしでかしてしまった、と、今更のように慌ててしまい、誤魔化すように言葉を紡いだ。
「……どれくらい時間がたったんだ? 望美たちが帰ってくる前に片づけなければ」
と、脱ぎ散らかした着物を集め始めたけど、弁慶は、というと、体を起こしたきり、動こうとしなかったので、九郎は心配になった。
「すまない、やはり無理をさせてしまったのか。お前は横になっていろ、俺がなんとかする」
けれど、弁慶は意外な言葉を返した。
「いえ、体は今のところ平気ですが、ただ……」
「ただ?」
「……好意を持つ人に抱かれるというのはこんなに恥ずかしいものだったんですね、と」
だが、それは九郎の手を止めるには十分だった。
「なっななななななにを」
「照れないでくださいよ、僕まで照れる」
「いや、だって、お前が!」
そして九郎の声を荒げさせるには十分だった。
そんな九郎を見て、弁慶は笑う。いささか照れ混じりで、と同時に艶やかなその微笑みは、間違いなく九郎の知るものではなかったけれど、確かに九郎の知る弁慶に見えた。
「……平気なら、早く服を着ろ!」
「ふう、君もとことん九郎ですね。もう少し情緒というものはないんですか? でも一理ありますね。このままでいたらまた君が欲しくなってしまう」
「……お前、わざとだろう」
「さあ?」
睨みながら、九郎は困った、と思った。
やっぱり今までとなにも変わらないとか、そんなのは嘘だ。こんな他愛のない会話くらいなら、さっきまでなら多少どきりとはしたけどやりすごすことはできたのに。
そうこうしているうちに、弁慶こそすっかりいつもの調子で身を整え始めていた。その隣で九郎は、
「……早く帰りたい」
ぼつり、とつぶやかずにはいられなかった。