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「五条の縁・後編」


「よかった」
 と、熊野の海岸線、岸壁の日陰で景時は言った。弁慶は首をかしげた。
「なにがですか?」
「熊野に来てよかった、って思ってね〜」
 言うと、彼はいくらか驚いた。そして、
「そうですか?」
「うん。ここはいいところだよ。海は綺麗で、山も綺麗で、食べ物はおいしいし、戦いも怨霊だけだし、なにより涼しいしね〜」
呆れ、次第にそれを通り越し渋いものになっていって、
「だからといって、これはやりすぎだと思いますよ」
「うん……それはそう思う」
と、笑顔で言った。自覚ある景時は素直に沈黙を選んだ。

 熊野にきて結構経った。勝浦を発ち、来た道を引き返している今も、怪異はまだ収まってはなくて、熊野の人は困ったままだった。
 それでも海岸線を北西へ辿る道中、、八葉の気持ちは気持ちもすっかりと上向きだった。ようやっと原因を突き止めることができて、あとは熊野川でその怨霊を倒せばいいだけ、と、限りなく解決に向かっていたのだから。
 景時もそれにつられた。
 つられて、道すがら、望美や朔に誘われて砂浜で波と遊びながら駆けまわったりした。その後はヒノエと将臣に、ひときわ高い岩山から海を見ようと連れて行かれた。だけど、同じく巻き込まれた敦盛と並んでそれを登っていた最中、うかつにも落ちた。
 幸いにも下が柔らかい砂浜だったから左手をひねっただけで、大事には至らなかったけど、朔に叱られ九郎には情けないと咎められ、そして、皆から少し離れた日陰で弁慶に苦い顔されながら強烈な臭いの薬布をあてがわれている、のが今だった。

「年を考えてください」
 景時が黙ってもなお、弁慶は突き放すような声音で続けた。
「…………うん、確かに、昇ってる途中から体があちこち痛かった」
 反論の余地もなかった。そんな彼に、弁慶はなおも容赦ない。
「そういう意味ではないですよ。君はむしろ、皆が怪我をしないように見守る立場でしょう? なのに」
「あーそれは弁慶がいるから大丈夫だと思……っててて」
「朔殿にいつまで心配かけるつもりですか」
 景時の言葉をひとつづつ弁慶は薙ぎ払ってゆく。しかも、包帯を取り出す傍ら、痛めた手首を握ってる力が強くて、だいぶ痛い。
「酷いよ〜、今の、結構本音だったんだけどな〜」
 だけど、弁慶を見下ろすと、彼はやはり冷淡な顔のままで、景時は思わず口元をゆるめてしまう。ちらりと、彼が目をあげた。途端に彼にしては珍しく、極端に嫌そうな顔をした。
「……言いたいことでもあるんですか?」
「え、え、えーっと」
 見抜かれて、口ごもる。すると弁慶は一転、晴れやかに微笑んだ。
「まったく、君も分かりやすいですね」
「はは〜言われちゃったね〜。でも大したことじゃないよ、熊野に来てよかったな、って思ってただけ」
「そうですか? ……でも、それだったら同感かな」
 と、ぐるぐる包帯巻きつけながら弁慶は言った。
 それを見て景時はよかった、と、しみじみ思った。

 八葉の皆で熊野にやってきた頃、弁慶の顔は明らかに曇っていた。みんな熊野に浮足立っていたし、その上弁慶よりも隣の九郎の堅苦しさに気を取られていたし、なによりヒノエの熊野案内が充実しすぎていて、あまり気付いてる人はいないようではあったけど、何かを気にかけている風なのは分かった。
 とはいえ別に景時だって、弁慶が落ち込んでたり喜んでたりするのをいちいち気にしてる訳じゃない。
 ただ、ここが熊野だから気になっていた。

 だいたい一年前。何故か熊野水軍が厳島に攻め込んだ、そして負けた。
 率いたのは勿論当時の別当、藤原堪快だった。が、その隣に、軍師として黒い衣を被った年若い男がいたという。
 それは噂でしかなかった。けど、熊野に来て確信に変わった。口止めでもされているのか、誰も表立ってその軍師が弁慶だ、とは言わなかったものの、水軍衆からそれとなく聞いた話はどれも弁慶を連想させるものだった。
 だから、もしかしてその敗戦を悔いていたのだろうか、負けず嫌いな彼の事だ、何か変な気を起こしたりしないだろうか、なんて気をもんでいたものだけど、
いつしか、そんなことを感じさせないほどに弁慶は笑顔になっていた。今もそうだけど、景時が落ちる直前までも、九郎と楽しそうになにやら縦長い雲を眺めて、クガネがどうとか吹きだまりがどうとか、景時にはよく分からない話で盛り上がっていた。この治療だって、景時が軽率さを思い知るようにわざと痛くやってる。
 だからそんな、あまり景時には馴染みのない無邪気な姿に、つい、良かったなあ、と、屈託なく思ってしまった。

「はい、巻き終わりましたよ」
「ありがとう」
 もしかしたら、その笑顔は、ただ熊野の空があまりにも見事に晴れているものだから、っていうせいかもしれないけど、
それでもきっと、弁慶っていうのはこういう風に笑うやつなんだろう、なんて思いながら眺めていると、彼はいよいよ訝しそうにこちらを一瞥した。
「……なにやら、本当に嬉しそうですね。そんなに熊野が気に入りましたか?」
「そういうわけじゃないよ〜。ただ、ちょっといい事があったからね、来て良かったって思っただけだよ」
 景時が素直に返すと、道具を片付けながら弁慶もさらりと返した。
「奇遇ですね。僕もいいことがあったんですよ」
 その反応はかなり意外で……景時は思わずたじろぐ。
「え、あ、うんそうなんだ」
「ええ」
「何が悩みでも解消したの?」
「さあ、どうでしょうね」
 思わせぶりなことを言っておきながらも、弁慶は結局そうやって微笑んで、あっさりとぼかしてしまった。その視線が唐突に上向いた。追えば、すぐ近くをカモメの群れが横切っていくところだった。大きな空をくるくると旋回する。浜辺で望美や将臣が、それらに大きく手を振るのが見えた。いいところだな、と思った。こんな所で育てばヒノエみたいな子になるのも頷けるってものだった。
 遠ざかってゆくのをひとしきり見送ったあと、景時は気持ちのいい潮風を思い切り吸いこんで、吐いた。そして、きらめく海をみたまま思いきって切り出した。
「弁慶、ひとつだけ聞いてみてもいいかな」
「ふふっ、いよいよ本題ですか? 構いませんよ、なんでしょうか」
「君にとっての大切なものは、なんなんだい?」
 言葉に、弁慶がこちらを向いた気配がした。
「……大切なもの、ですか」
「うん。……君にも、なにかあるんだろう?」
 景時はなおも彼を見ずに、余裕がないから見ることができずに続けた。
 それは、確認だった。
「九郎の事が大切、だったら、偶然九郎を見守って来ちゃったオレとしても嬉しいんだけどね〜。……残念ながら、君の一番は九郎じゃないって気がしちゃってね」
「そうですか」
「……ただ、参考に聞きたいだけなんだ。君の強さがどこから来てるのか」
 かわされるかな、と思っていた。だけど弁慶は、ほんの少しだけ間を空けてから、なんでもない風に答えた。
「……強くないですよ、僕は。ただ、驕っていただけです。浅慮だった……そう、君とは対極ですね、景時」
 少し意外で、彼を見ると、どうしてか彼は……ほんの少しだけ悲しそうに笑っていた。
「大切なものも、望美さんくらいかな。僕たちが守るべき神子。他にはあまり。僕が持っているのは守りたい、じゃなくて、叶えなければならないことだから、斬るべきものはあっても、守るべきものはちょっと思いつかない」
 と、小さく首を傾けながら弁慶は言う。
「願い事を叶えたい、ってこと?」
「うーん、そんなところでしょうか。熊野の男は欲張りですからね。大切なものも欲しいものも多いから、手に入れるのに忙しくて、守る戦いって向かないんですよ」
「九郎の事も?」
「ええ」
「好きなのに?」
「そうですね」
「信頼?」
「ふふっ、その辺は秘密かな」
 薬箱の上で、両手を重ねながら弁慶は笑う。だけどそれはすっかりと、いつもの繕った笑みだった。だけど瞳は景時を射抜く。だから、口ごもる。

 弁慶が憂いていたのを気にかけていた理由は、本当のところ、ちょっと違うところにあった。
 彼が去年不在だったり熊野水軍と厳島に行った、という事実が、景時にとってとんでもなく重要なことだったからだ。
 九郎の為だったらまだよかった。ただ、弁慶が九郎を選ぶ為に躊躇わないと言っていた過去が、八葉であるがあっても、どうしても九郎が起因してるとは思えなかったのだ。
 挙句、熊野に来た途端に端顔を曇らせるものだから、景時はこの上なく不安だった。それこそ源氏を離れ熊野に残るとでもいいはじめたらどうしようか、と思っていた。それはとても、都合が悪い。
 だけどどうやら、弁慶の杞憂は回復したようで一安心だったけど、だからといって、じゃあ一体何のために、という疑問は残る。だから……弁慶が全てを話すとは全く思ってなかったけど、景時は一度、彼の真意を、何故水軍に加担したのかを聞かねばならなかった。
 彼は何が大切なのかを。

 だというのに。
 ああもう、弁慶はほんとに油断ならない。彼の目はすっかりと覚悟で満ちていた。なにが秘密かな、だよ、と景時は思ってしまう。すっかり本調子な彼はやはり恐ろしいと思った。なんでもないふりで嘘をつく。本心どころか、偽りと真実の境界は、もう景時には分からない。
 それでも景時にとっては十分だった。
「でも、ヒノエくんみてると、納得しちゃうな〜。あんなに女の子に強気だと、守りに転じる時間がないよね」
「ヒノエはああ見えて、女人の事だけじゃないですけどね」
「えっ、そうなの? うーん、それは分からないけど、でも若さっていいよね〜。オレにも、ヒノエくんみたいな勢いと器用さが欲しいよ〜」
「ああなったら身を滅ぼすだけですよ」
「それ、弁慶が言うの? 周りからみたら多分、二人ともたいして変わらないと思うよ」
「心外だな、あんなに無節操じゃないですよ、僕は」
「いや〜でも君の笑顔で優しい事言われちゃうと、弱いと思うよ、女の子たちは」
「今日は随分褒めますね。景時こそ、なにかあったんですか?」
「ん? なんにもないよ。ただ嬉しいだけ」
「そうですか?」
「うん」
「変な景時ですね」
 弁慶は嘘つきだ。彼は何かを得る為に嘘をついている、と、思う。
 景時も嘘をつく。だけどそれは大抵、誤魔化すための嘘だ。彼のように攻める為の嘘はつけない。動けない。そんな行動力や…勇気なんてはじめから持ち得ていない。
 ゆえに。
「願い事、叶いそう?」
「…………僕たちには白龍の加護がありますから」
 再びの問いに、柔和な瞳で、遠い声で、弁慶は言った。何を思うのかは知らない。だけどあんな瞳で想い人の話をできる彼の願いは、きっといい方向へ向かうだろう。
 それもまた、景時にとってこの上なく意味のあることだった。
「それはよかった」
 いつだって、弁慶に関して確かめたいことはひとつだけだった。弁慶が九郎の味方でいてくれること、側にいてくれること。ついでに弁慶に、そして九郎も全力を出せる余裕があれば、憂いがなければなおのこと嬉しい。
 目は口ほどに物を言う、そんな事を言ってたのは将臣だったか。弁慶にしては詰めが甘いのは恋煩いだろうか、九郎の事を話した途端に力のこもった目を見れば、景時にだって九郎が今まで以上に特別だって分かる。だったらそれで十分なんだ。
 さあ、舞台は整った、みたいだ。
「うん、やっぱり弁慶がいれば大丈夫だね〜」
「なにがですか?」
「……ううん、こっちの話。ありがとね、弁慶」
 だって、だとしたらいつの日か景時が、大切な家族を守るために仲間に……九郎に銃を向ける日が来ても、確実に弁慶が止めてくれる。
 それは、確信だった。
 白龍の加護が守ってくれるなら、景時と九郎が刃を向け合わぬよう運命を導いてくれるならばそれが至上だ。だけどそれより、景時は目の前の彼を信じる。彼と九郎の絆を信じる。彼は九郎を守り、朔を、望美を守り、景時を容赦なく殺すだろう。この身を解放するだろう。
 これ以上ない筋書きだ。それを思えば、寂しさや、いよいよ死へ向かい始めたほんの少しの恐怖など……そんなものは些細なものだと言い聞かせながら、景時は立ち上がり、九郎たちへと走りはじめた。




(18/09/2010)