「闇裂く稲妻・前編」
もう駄目だ。口にはしないが、けしてしないが、何度目かのそんな言葉がよぎった。
生田の森で繰り広げられる戦はとんだ泥仕合となっていた。奇襲とはいえ強固な平家の陣に、しかも猛将平知盛が守っているところに仕掛けたのだから、当然と言えば当然。分かりきった結果だ。でもそれにしたって現状はあまりに悲惨だった。
逃げることは許されていない。景時も思い知っているが、主だった将は皆分かっている。それでも及び腰な者、耐えきれず逃げだす雑兵で戦場はいつになく混乱していた。平家の側にも奇襲で怯えきった者、血気盛んにこちらを討とうとする者、と、足並み揃っていないから尚更だ。
駄目だ、なにやってるんだろうなオレ。無理だ、勝てるはずはない。思いながら、景時は少しでも時間を稼ごうと指示を飛ばす。
「弓兵前に出て。騎馬は弓兵の直前まで下がって。闇雲に攻めても駄目だ。今は機を狙う。足止めに徹しろ」
「ですがもう兵たちは疲労してます。一気に片をつけた方がよろしいのではと」
「だけど、攻め込むにも知盛は生田神社にいるんだろう? 焦ってどうにかできる距離じゃない。ここは援軍を待つよ」
「しかし梶原殿、援軍は」
「御台さまが我々を見捨てるとお思いか!」
「はっ、し、失礼しました!」
ほんとになにやってるんだろうな、と、思わずにはいられない。景時だって、援軍のことは半信半疑だというのに。
景時に奇襲を命じた彼女は当然、勝つ気なのだから援軍をよこすだろう。だがそれに九郎が頷いてくれるかは分からない。和議を踏みにじっての、こんな卑怯な奇襲を良しとする彼らではない。
だから最悪のことを考えなければならない。
ぱあん、と、空に向け術を放つ。土と金の力が無色のまま空へ広がる。弓を防ぐ結界だ。本当は深く攻め込まなければならない、が、この戦力ではままならない。援軍の有無に関係なく、ここで持ちこたえるしかない。
ここで皆を無駄死になどさせたくなかった。
だけどはじめから戦力差は絶望的だった。奇襲でそれを覆せればと思ったが、残念ながら、もう一手、否、二手足りなかった。
せめてもの救いは、もし逃げることになったら、自分がしんがりをつとめれば、ある程度の足止めはできるだろうという目算があることくらいだった。なけなしの陰陽術でも多少は、ほんの少しくらいは役に立つ。死ぬのは自分だけでいい。それでいいんだ。なのに。
嫌だなあ、と思った。つくづく嫌だと思った。
八葉だって言ってもらえて嬉しかった。望美の神子で、九郎や弁慶の仲間だってのは嬉しかった。譲もヒノエも敦盛も白龍もいい子たちで、将臣もいい奴で、先生も立派で、いい仲間たちだった。だから間接的ではあれど彼らを守って死ねるっていうのは、自分にとっては上々な終わり方だと思うけど……思うけど、嫌だ。
なにより、いくら解放されたいと願っていたとはいえ、これじゃあ半端だった。奇襲の末の戦場だ、景時が母に返せる恩はもはや、名目だけでも武士として立派に命を落とすことくらいだというのにそれもままならない。これが今までの半端な人生の報いだと言われればまさにその通りでしかなかったけど、あれだけ楽になることを望んでいたというのに、本心ではまた逃亡を渇望している。
そんなことを考える自分がますます嫌だと思った。馬鹿馬鹿しい。九郎だったらきっとまっすぐに敵を打ちのめすことしか考えないだろうに。
そうこうしている間にも戦況はどんどんと混乱してゆく。そして押されてゆく。士気が下がってるからだ。当然だ、皆この戦いが危ういって分かってる、防戦一方なのが辛くなっている。景時の内面が顔に出ているのかもしれない、と思って、改めて表情を入れ替える。無理矢理に、知盛のいるであろう方を睨みつける。
九郎は無事かな、政子さまにけしかけられて面倒なことになってないかな、弁慶がいるから平気かな、朔も望美ちゃんも正義感の強い子だけど大人しくしてくれてるかな。そんなことを考えながら、景時は必死に見据える。知盛のいる方を睨み、自軍も睨む。睨まずにはいられなかった。睨まないと、そうしないともう、もう、耐えられない。
陰陽師の修行をしておいてよかった。こんな気持ちでは剣など握れなかった、こんな震える手では。
「…じわらどの!」
銃を作っておいてよかった。こんな気持ちでは印すら満足に切れない。
「梶原殿!」
「えっ」
いつのまにか目の前に伝令がいた。気が付いていなかった。いつの間にいたんだろう、
「梶原殿、九郎殿から報告です」
伝令は、息を切らして、顔もその身も泥だらけで、ところどころ傷だらけで、そこにいた。
「九郎殿は一の谷を制圧しました。もうすぐここに来ます」
「九郎、が?」
「はい!」
問い返す景時に、彼は力強く頷いた。と同時に、周りの兵たちの士気がみるみる上がってゆく。
「九郎殿が……」
「来てくださるのか……」
景時はそれを消耗しきった心でに見回した。そして自分に鞭打ち声を張り上げた。
「聞いたか!? 九郎殿が来る、来てくれる! そうすれば勝てる、もうしばらく持ちこたえるんだ!」
「おおおおお!!」
途端、地響きのような歓声が上がった。すぐさまそれは戦況につながる。大きくはない、でもたしかな反撃の開始。
もう少し耐えればいい、それが兵を勇気づけた。なにより九郎の名前が。
「……九郎が、来てくれるのか」
奇襲からはじまった援軍でも構わず駆けつけてくれるのか。
それが彼らを盛りたてる。宇治川で、三草山で、彼らを勝利に導いた九郎の名が。
だが景時はそれでもなお全く安心できなかった。本当は嬉しかった。彼らのように一気に攻め上がりたかったけど、
「御苦労だった。下がって、少し休んでいるといい」
「はっ」
遠ざかる伝令兵を見ながら、景時は腕を組み黙りこむ。
九郎にさきがけてやってきた彼は随分と傷ついていたけど、それは刀傷ではなく、木や葉でできた、引っかき傷だった。つまり、彼は単騎、余程無理して藪の中を突っ切ってきてくれたのだろう。それと同じ速さで軍が走れる筈はなく、いくら九郎だって、そんなに早く来れる筈ない。
それに、
「うわっ」
「どうした」
「梶原殿、左陣が少しずつ押され始めます。もうすぐここも危なくなるかと」
それに、多少士気があがったところで、もともとの戦力差は覆せない。むしろ、今まで向こうも均衡状態を……多分、相手は帝を逃がすためにわざと戦力を小出しにしてこっちを足止めしていただけだった、手加減された状態だったのに、こっちがいきり立ったから向こうも本気を出してきて……いや、違う多分、用が済んだんだ。帝は逃げたんだ。だとしたら。
「構わない。むしろ攻めに転じろ」
「ですが」
「オレも前に出る」
「ですが!」
「続け!」
限界だ。もう間もなく陣は壊する。だったら前に出て状況を見、皆を逃がす算段をはじめなければならない。
……九郎が来るまで持たない。
「さーて、腹をくくらなきゃな……」
将として許されざる呟きは戦場にあっけなく埋もれた。個の言葉としては、たくさんの命散る戦場であまりにもどうでもいい呟きだったからだろう。嘲笑う。銃を構え、騎馬を走らせる、
「梶原殿!」
制する声を無視して、景時は今までと反転、最前線へ突っこんでゆき、銃を放つ。炎と水の術をかけあわせてゆらゆらと視界を揺らし、相手の混乱を誘う。
だけどそんなまやかしに、平家もいい加減騙されてくれない。そもそも相手は怨霊だ、怖れてさえくれない。
舌を打つ。向かってきた怨霊を銃身ではじく。すぐ横の兵が別の怨霊に突き飛ばされ落馬する。それを救う事もできず景時は式神を放って、
だけどそれでも撹乱程度しかできなくて、つくづく自分が前線向きじゃないって思い知る。でも相手は待ってくれない。轟く鬨の声。向こうも知盛が動いた、と、平家の兵が歓喜の声で噂している。
そんなの最早、八方ふさがりだった。
「梶原様」
「……皆を逃がす手筈を」
駆けつけてきた郎党に、景時は重い声で告げる。
「いえ、そうではなく」
「鎌倉殿の兵をこれ以上犠牲にするわけにはいかない!」
声に驚き、馬が嘶く。
「梶原殿!」
まわりの兵も景時を呼ぶが、だが、
「……これまでだよ」
絞り出すように告げる景時の言葉を、
どよめきが遮って、更に、
「我は鎌倉殿が弟、源九郎義経! いざ尋常に勝負!」
声がした、と思った次の瞬間、景時の横を白と青の影がすりぬけて行った。
「え」
刃が光を跳ね返しきらめき、混戦だった戦場を、まるで軽々と裂いた。
「遅くなってすまなかった景時!」
「え、いや、そんなことないけど…ええっ!?」
それは駒をなだめながら、長い髪を揺らしこちらを振り返った。けど……九郎の幻をみるほどに参っていたのか、いや、これもしかして陰陽術だろうか。いやだけど、景時はなにもしていないし、陰陽師がこの軍にいるっていう話も聞いたことがない。
「どうした、何をぼさっとしている景時」
「……九郎、だよね?」
「当たり前だ」
と、目の前に現れた彼は言うが、景時はなおも混乱していた。憮然とこちらを見る彼はまさに九郎そのものだったけど、
だけどいくら九郎だって早すぎる。ありえないし、しかもこんな混戦状態のところに、そのうえ最前線に都合よくあらわれてくれるなんて、そんなことあるはずない。術じゃなければ自分の夢だろうか。なのに。
「景時さん大丈夫ですか!?」
望美の声までした。見れば後ろからヒノエや譲も兵たちもついてきている。そして誰もが薄汚れ、少し怪我した人もいる。改めて九郎を見れば、彼もまたそうだった。似合いの白い戦羽織はあちこち裂けていて、結いあげた髪にも枝やら葉やらつきさったまま、繕おうともしていない。こんなのさすがに……幻じゃない。本物だ。
「みんな、どうして」
「どうしてもなにも、お前の窮地を救いに来たに決まってるだろう」
いくらかむっとした顔で言いながら、九郎は景時から目を離し、飛んできた弓を叩き落とす。
「九郎殿」
「九郎殿がこんなに早く」
ざわざわと、周りの士気がますますと上がってゆく。
「この戦、勝てるのか?」
「勝てるのか、じゃない、勝つんだ、兄上の為に!」
「おおおお!!!!!」
九郎が剣を掲げると、周りの兵や御家人の士気がぐんぐんと上がってゆく。
あっけにとられていた景時の背を、いつの間にか隣にいた望美がつついた。
「ほら、景時さんも」
「あ、うん。……全員、一斉に敵を突破するよ!」
「東から弁慶たちが向かってる。一気に落とすぞ!」
「おおお!!!」
そして先陣切って、九郎はまた戦場を駆けてゆく。
信じられない、と思った。だって、もうあんなに絶体絶命だったのに、まさか、
「景時さん?」
「……ううん、なんでもない、なんでもないんだ望美ちゃん」
「オレたちがあんまり早く来たんで、感動したんだろ?」
「そんなところかも」
「だったら、九郎さんと弁慶さんのお陰だね。二人して少しでも早くって、すごい勢いで作戦考えてたんだから!」
「私など、リズ先生の馬に乗せていただきしがみついているだけで精一杯だった」
「そうだったんだ……」
まさか、そんなにも急いで来てくれるなんて。
まさか、自分も含め、みんなまとめて助かりそう、なんて。
「なんにせよ、無事でよかったです」
「心配したんですからね、兄上」
未だ呆然としながらも、取り囲む彼らと会話を交わしていたら、遠くから九郎の声がした。
「何をしてる景時! このままでは弁慶に先を越される!」
「げっ、それだけは勘弁」
本気で嫌そうなヒノエの声に、皆が笑う。
「……そうだね。負けてられないね! みんな、手伝ってくれるかい?」
「もちろん!」
「敵も混乱している。好機ではあるが、不測の事態も多い。神子、気をつけなさい」
「はい先生!」
彼らと共に景時も頷いた。そして笑って、先行く白の戦装束を追いかける。
留まることなく進んでゆくその騎馬は、まさに稲妻のように見えた。