home >> text
「祈りはただその手にこめて」


 思い出の場所へ来たら、記憶の風景はそこになかった。
 大木が、立派な楠があるはずだった。今も株はある、けれど雷でも落ちたのだろう、幹は裂け折れて枯れ落ちてしまっていた。
 弁慶は熊野にそう長くいたわけではない。ゆえにこの土地に関する知識のほとんどが人づてのものや、ここ数年熊野を頻繁に訪れるようになってからのものだ。それでも思い出として、数多の経験に沈むことなく残っていたのがここにあったはずの大きな木で、ここでよく幼い弁慶は一人、膝を抱えて隠れるように泣いていたものだけど、
けれどそんな、昔の彼にとって大切なものだったはずの古木が朽ちかけた様をを見ても、不思議な程に寂しさも悲しさも感じることはなく、ただ、
「今までご苦労様でしたね」
と、そんな言葉を弔いにかえて、振り返った。
 かわりに映るのは熊野の景色だ。見晴らしがいい場所で、海まで見える。熊野が一人占めできる場所だね、とでもあの甥なら言いそうな絶景。
 たしかにここには熊野の全てがあった。
 それを弁慶は無言で見下ろした。
 ちょうど一年ほど前。弁慶は当時熊野を統べていた兄と共に厳島へ攻め込こんで、負けた。結果、水軍は痛手を受け熊野の立場も悪くなった。軍師として同行した弁慶がその時の事を忘れられる筈はなかったし、熊野にいればますます突きつけられるようだった、
けれども、弁慶は、それにあまり心を痛めてはいなかった。
 悔やむとすれば、年若いヒノエを別当に据えてしまったことと、清盛を倒せなかった……黒の逆鱗を砕けなかったことだけで、他の事は今の彼にとってはもはや些事でしかなかった。そう言わざるを得ない状況が取り巻いていた。
 更に遡ること2年と半年ほど前。弁慶は京の龍脈に呪詛をかけて応龍を滅した。
 その術を知ったのは偶然と他愛のない好奇心、だけどその呪を成したのは、身の程を知らぬ愚かな虚栄心。もとは黒龍を縛った平家が元凶だとしても、弁慶の目論見が崩れたのもそのせいだとしても、だからといってなかったことにはできぬ大罪だ。
 あの日から弁慶のすべてはそこにある。応龍の消えた京はゆるやかに傾いてゆく。そうしたらこの国の全てがきっと、よどみなく終わってゆく。指咥え何かを待っているだけでは終わってしまうのだ。だから今更、罪を拭う為に罪を重ねることにためらいはなく、それを共にするのもまた、熊野でも、源氏でも構わなかったのだ。
 そう、源氏でも構わなかった。九郎に頼み厳島に攻め込んでもよかった。むしろそのつもりだった。
 ただ言えなかった。兄に報いようと日々必死で懸命な彼に、力を貸してほしいとはとうてい言えず、
ゆえに弁慶は一人で行くことを選んだ。もとい、はじめから一人で龍脈を止めたのだから一人で行くべきで、覚悟が覆ることはなかったのだけど、
ただ。
 九郎との縁が消えてしまいそうな気がしていた。
 源氏に留まる九郎と、彼の軍師でありながら、自らの為だけに動く弁慶の距離はどんどんと離れていった。平泉にいた頃は素直に話ができた九郎と、どうやってあんなにも無邪気に戯れることができたのか、そんなことすら忘れていた。
 そもそもはじめから、彼らの縁など多分、大したものではなかった。弁慶からすればただの利害の一致の延長に見えたのに、
なのに、いつしかそう……弁慶は霞んでゆく絆を憂いた。
 きっと彼が好きだった。
 だって振り返ってみればあの鎌倉での日々、どこに行って何をしているんだ、と当然の疑問を投げかける九郎に、友だから教えないなんて口にしたのがなによりの証拠。そんなのただの挑発。なんて浅慮な。自分は散々身勝手に振る舞っておきながら、九郎の興味が鎌倉に向かっていたことに、少し意地を張っていたのだろう、彼は弁慶を見捨てることはないと、心の底で知っていたから。
 たとえどれだけ二人の出会いが偶然で、仮に今が惰性だったとしても、平泉でも鎌倉でも一緒だった、その弁慶を今更捨てられるほど器用じゃないと知っていて、子供じみた真似をした。無理矢理聞き出して、なんでそんな馬鹿な事をしているんだ、と、責められたかったのだ、たぶん。
 けれど九郎は弁慶が思っていた程甘くなかった。優しくなかった。望む言葉をくれはしなかった。鎌倉でも京でも、九郎は結局弁慶から話を聞こうとしなかった。明らかにこちらを気にかけ消耗していたというのに、それでも結局聞く事を拒み、同じ強さを弁慶に強いた。
 それは随分、残酷だ。けれどそんな彼の無垢で情けのない好意は、打算も妥協も含まないゆえに脆く、失い難く愛おしくて、
自分では最早抑えきれぬほどに、焦がれた。
「ねえ、いつだって君はそうだった」
 九郎はぶれない。いとも簡単に弁慶の口車に乗せられて、兄が一言命じれば疑いもせずに従うけれど、それでも彼の本質は揺らがない。まっすぐで、強情で、そのくせ短気。
 けれどもそんな姿こそが、弁慶が弁慶であるための基点だった。そんな九郎が好きだった。隣り合って別々なものを見いた、考え方も全く違うのに、呆れるくらい当たり前に共に過ごしていた。
 そう、九郎はずっとそこにいて、絆なんてものも無造作にその辺に転がっていたというのに。そんな簡単な事を弁慶は見失っていた、景時に指摘されるまで。
「……やはり景時は鋭かったですね」
 いつだか彼が、九郎は弁慶の帰る場所、とか、随分恥ずかしい台詞を口にしていたことがあったけれど、その通りだった。もしかしたら九郎への感情も、弁慶より誰より先に気付いていたのではないか、と、今にすれば思う。それは少し気恥ずかしいような気はするけれど。
 同時に『九郎の事が大切なんじゃないの?』と、つい先日言われた言葉も過った。
「あれは見当違いでしたけどね」
 やるべきことは龍脈を正すこと。大切なのはそれを成す神子を守ること。けれど、彼が見抜いた通り、九郎の事も本当のところ、大切だった。
 が、過去の話だ。
 なぜなら、弁慶が本当に九郎を大切に思うならば、この前のあの勝浦の宿でで、感情に身を任せてはいけなかった。九郎は兄を一番にし、弁慶はそれをおろそかにする、その現状は一切変わっていなくて、この身はいつどうなるか知れたものではないのだから、本当は突き飛ばしてでも離れなければいけなかった。九郎を多少傷つけても友人だと貫き通さなければならなかった。その程度で弁慶の望んだあの橋の縁は消えることはないと知った今、それで十分すぎる筈だった。
 けれど彼を離せなかった、むしろ、自ら引き入れてしまった。それは弁慶の弱さで、罪だ。ゆえに。
 山へと通り抜ける風の向こうから、足音が聞こえた。それを見ることはなく、弁慶は今一度、楠の株に向き直り、手を二度音を合わせて祈る。誓う。
 あんなにも寂しそうな顔をして、それでも結局九郎はなにも聞かなかった。だからせめて、弁慶も沈黙を選ぶ。今までのような後ろ向きな理由ではなく、進むための沈黙。いわば楔だ。体すら繋ぎあってしまった彼とすべてを分かち合えないのは少し寂しいけれど、きっと自分がどこまで堕ちようと隣にいてくれるのだろう彼に、これ以上甘えるわけにはいかなかった。
 そして多分、はじめて祈る。
「弁慶!」
 呼ぶ声に、今度は振り返ると、九郎が怪訝そうな顔をしながら山道をこちらに登っていた。
「九郎。よくここが分かりましたね」
「下からお前のその黒い衣が見えたからな。それより、こんなところで何をしてるんだ?」
「祈っていました。応龍の加護が君にあれと、」
自分にもその加護を、ささやかに分けてくれないだろうかと、この戦いの先を、はじめて具体的に願った。
「そうか、だったら俺も祈願しておこう」
 隣までやってきた九郎は、弁慶がしていたのと同様に真剣な顔してなにやら祈る。否、同じ動作でも、きっと全くの別物だ。まっすぐな姿勢で懸命に祈る九郎は端麗で、見慣れた姿だというのに見惚れる。
「……行くか」
 しばらくの後、再び目を開けこちらに笑顔を向けて、九郎が言った。
「そうですね。みなさんを待たせてもいけません」
「あいつらか? それならヒノエが境内の中を案内するとか言ってたから平気だろう」
「境内を? ……ヒノエも一体どこまで熊野を案内するつもりなんでしょうね」
 笑った弁慶の前に、手が差し出された。
 それを握り返し、他愛のない話をしながら九郎に続いて来た道を戻る。
 去り際に、あの楠をもう一度見た。
 昔、なにに救いを求めればいいのかもどうしたいのかも分からずに、ただ何かにすがりたくて闇雲に無心で祈りを捧げた古木。その木の向こうにふいに、ここにはいない戦友を思った。
 稀に、なにかを請うような目で自分を見る景時。
 彼は何を願いあんなにも彼自身を追い込むのだろう、と、九郎に手をひかれながらふと思った。




一連の連作を書き始めた時には意図してなかったんだけど、
弁慶が裏切らないルート、というものを考えてみたような気になった話
(08/10/2010)


サソ