「五条の縁・前編」
夏のはじめ、九郎と神子と八葉は熊野を訪れた。
熊野の協力を得て来いとの兄からの命ゆえだった。彼らの力があれば、源氏の勝利はさらに確固たるものになる。なんとしてもどうにかしなければならん、と、九郎は意気込みながら熊野路を辿っていた。先日の三草山の戦と同じくらい緊張していたかもしれなかった。
「そんな風ではうまくいくものも破談になりますよ」
なんて、弁慶は言っていたものの、九郎は到底そんな気にはなれず、
「そんな呑気な事を言っていたら、それこそ得られる協力も逃してしまう」
と、熱をこめ返したものだが、その度に弁慶は「はいはい」と聞き流すから、そのうち言うだけ腹立たしいくなってきて、九郎もなにも言わなくなった。
言わなくなっただけで、焦りは消えることはなかった。九郎が、ああ、自分は随分と一人で平静を失っていたんだな、と、ようやく気がついたのは、本宮へ行くことが叶わず、そもそも熊野自体がそれどころではない、という結論を勝浦で得、それでは兄の命を果たすことができない!と、散々弁慶や景時に、今にして思えば愚痴でしかない情けない言葉を吐き散らした後で、現に冷静になってすぐに未熟さに青ざめずにはいられなかった。
その九郎に弁慶は、
「ふふ、ようやく九郎がうるさくなくなりました」
と、酷い事を言ったが、実際その通りでしかなかったので、
「すまなかった」
九郎は反省して謝るしかなかった。
その次の日から勝浦を拠点に怪異の原因探しが始まった。
いつまでかかるか分からない、それでも焦りはもう無かった。望美たちや景時との会話も素直に楽しめるようになっていた。
平家も条件は同じだどうせ近づけない、ということもあったが、多分、なにより、弁慶を見ていたら、少しくらいゆっくりするのもいいな、と思えたのだった。
熊野の景色は京とはまた違って色鮮やかだった。空は青、山は緑、陽射しも強くて海はきらきらと輝き、白い砂浜に波が遊ぶ。たまに、白い雲がもくもくと層を重ねたと思えば土砂降りを落とす。雷鳴が空を裂けどもすぐに晴れてまた元通り、夕暮れには赤が海も山も一様に染めて、夜の闇は深い。
くっきりとした色合いで、分かりやすく表情を変える熊野の景色は、九郎にとっては新鮮だった。
だけどなにより、熊野にいる弁慶が新鮮だった。
勝浦へ向かう間にも、弁慶は色々と熊野の話を聞かせてくれた。ヒノエも熊野のここがいいとか最高だとか、ここは外せないとか延々と喋っていて、よくもそんなに褒められるものだ、と、九郎は感心していたものだけど、……それにはさすがに敵わぬものの、弁慶も色々と、ヒノエの話の補足や、京や平泉にはいない鳥の話やら水軍の話やら、三社の話などしてくれて、はじめて聞く話に九郎は夢中で耳を傾けた。
海の色も思いのほか似合った。さすがに暑いのか、彼は途中からいつもの黒い外套をしまい萌黄の衣で歩いていたからかもしれないが、鮮やかな姿は浜辺に映えて、いいな、と、思った。
そんな彼を見ていると、弁慶が熊野の出身だと、聞いてはいたけど実感はなかった九郎でも、ああ、彼はここで生まれたんだな、とついしみじみとしてしまって、なんだかくすぐったいような、九郎にとってもかけがえのない土地のような気分になった。
だから。
「よかった」
と、勝浦の宿で滞在をはじめて、数日たった後、九郎は言った。弁慶は首をかしげた。
「なにがですか?」
「お前と熊野に来ることができてよかった、と思った」
言うと、弁慶は更に驚いた。そして、
「それはよかった」
と、笑顔で言った。
「ヒノエも喜びますね。あれだけ散々熊野の魅力を語っていたんだから」
「あれは、望美に向けて喋っていたんだろう?」
「おや、君にもそれくらいなら分かるんですね」
「馬鹿にするな」
「はいはい」
言葉に九郎はむくれるけど……とはいえ、色恋沙汰に疎いのは事実なので、これ以上は何も言わずに黙っておくことにした。
皆出払ってしまった昼下がり。面倒なやつと鉢合わせしたくないからね、と、ヒノエがまるっと貸し切った宿は静かだ。
「望美さんたちは那智の滝までついたかな」
「大丈夫だろう。ヒノエも敦盛もいるし、先生もいる」
「君も行くと思っていたのに」
「それはっ……お前一人で留守役では、退屈だろう」
「ふふ、そうですね」
陽射しを避けて、奥まったところにいるのに心地よい風が通り抜ける。弁慶は扇でぱたぱたと扇いでいたが、九郎はそれすら要らないほどだった。
「ここはいい宿だな。ヒノエに感謝しなければならん」
「礼には及ばないと思いますよ。ヒノエは君じゃなくて、望美さんたちと自分の為にやったことでしょうからね。それに、折角の客人を丁重にもてなすのは、熊野の男としては当然のことですから」
「そういうものなのか?」
「ええ、そういうものです」
九郎はそれに少し口ごもった。確かに、ヒノエはなにかにつけて熊野の男がどうのこうのと言っていた。だが、そうならば、
「お前もそうなのか?」
ヒノエのような弁慶は想像できるような、そうでもないような。九郎が問うと、弁慶自身もすっかりと失念していたようで、いささか驚いた。そして、しばらく考えた後、
「うーん、そうですね、僕がヒノエの身内なのは確かですからね。……九郎ももてなして欲しいんですか?」
と、微笑みながら言った。別にそういうつもりはなかった九郎は、うっかり弁慶が丁重に九郎をもてなす図、を想像してしまい、無駄に慌てる羽目になった。
「……俺は要らん!」
「おや残念」
弁慶は明るく笑った後、視線を庭へ向けた。
奥まった所にいるというのに外の光がきらきらと、彼の髪に宿るようで、なんでもなく、九郎はその横顔を見つめていた。
しばらくの後、彼は振り返った。そして。
「くろ」
と、何か言おうとして口を開きかけた、ものの、
結局ただ、くしゃりと笑って再び外を見た。
「……ふう、駄目だな」
「弁慶?」
「僕も随分と、情けなくなりました。君といるのが楽しくて、すっかり気が抜けてしまったみたいだ」
扇ぐ手を止め、なんだかひどく柔らかく、だけどなんとなく憂う表情で御簾越しに、庭から垣間見える海を、空を見た。
そんな姿に、やはり弁慶の事が好きだな、と、思った。胸が高鳴って、息が詰まる。
「……何を言いたかったのか知らんが、言いたいことははっきり言え。それに、気を休めてもいいんじゃないか? 急いでも仕方ないと言ったのは、お前だろう」
たまに、弁慶はわざとやっているのではないか、と、思う時がある。友人だ、と言いながら、九郎が彼の事を好きなのを分かっていて、試すような、からかうような事を言う。今だってそうだ。そんなどこか不安にさせる目で、九郎といるのが楽しい、なんて言われたら……勘違いしたくなってしまう。
だけどそんな九郎とは裏腹に、否、見通しているからこそなのか、弁慶は、
「……では、ひとつ聞いてみたいことがあるんですけど」
と、肩越しに切り出した。
「なんだ?」
「仮に、」
少々重苦しい声音だった。
「僕が、君の許せないことをしたら、君はどうしますか?」
「怒るだろうな」
その上唐突だったが、九郎は即答した。だが弁慶はなんだかたおやかな視線を九郎に投げつつ、とんでもない事を口にした。
「ふふっ、そうじゃなくて、もっと、たとえば、そうですね、京の街を焼き払う、みたいな」
「……お前、冗談でもそういうことを!」
九郎は声を荒げた。静かな部屋に声が響いた。涼風に揺れる御簾や、奥の板戸がびりりと音をたてた。
それでも弁慶は黙ったまま、静かに九郎に顔を向けたままで……本気なんだ、と思った。
よりにもよって、弁慶が、そんなことを言うなんて、平家が焼いたという六波羅を思い出す、言葉だけでも許せないものがあった。だけど同時に、九郎を見る冷静な弁慶の瞳が、さっきまでの憂い顔が、九郎をゆっくりと冷ましていく。……そうだ、意味もなく、そういう事を言う奴じゃなかった。
「嫌だな、と、思う」
だからぽつりと言った。
「嫌?」
「……俺はお前が好きだから、お前がそういう卑劣な真似をするのは、嫌だと思う。それと、そうさせてしまった自分を憎む」
「九郎を? どうして君が」
「だって、お前がそんなことをする理由が、俺のせい以外にあるのか?」
言葉にするのも嫌な内容だった。それでも、淡々と告げると、弁慶はしばらく不思議そうな顔をして、しばらくの後、笑いだした。
「ふふっ……はははっ、そうですね」
「なにがおかしい!?」
話自体が不愉快だったというのに、真面目に答えた事まで笑われて、九郎は再び不機嫌になった。そんな彼に弁慶はすぐさま訂正した。
「すみません九郎。君の事がおかしいんじゃないですよ……ただ、色々、僕が忘れていたことを思い出したんです」
「忘れていたこと?」
「……ええ。僕の全てを、君が知っているわけではなかったんですよね」
「意味が分からん」
溜息と共に九郎はそう結論付けた。……多分、またいつもの、九郎に言えない話の事なんだろうが、知らなくて当然だ、他ならぬ弁慶が何も言いはしないのだから。
と、いくらか腹をたてつつ、腕を組んだとの同時に気がついた。となると、もしかして、その前に『君が嫌がる事をしていたら』のあれも、それに関係している事なのだろうか?
京を焼き払う、のは例えだしても、……似たような事をしているのかと思えば、見当もつかないけど、胸が痛んだ。軋むように痛んだ。
いつだか彼が、命令しろと言った気持ちが分かった気がした。聞いて欲しかったんだ、弁慶は。
今からでも間に合うだろうか、九郎はいつの間にかまた外を見ている弁慶の背を見た。
向けられたそれはどうしてか頼りなく見えた。日頃薙刀を振り回している彼だから、けして貧弱とかそういう体躯じゃないのに、なんだかぽきりと折れてしまいそうな脆さを感じた。腕を伸ばしかけた。いつかみたいに抱き締めてしまいたい、と、思ったけれどそれでも、
伸ばした指先をぎゅっと掴み。
九郎は聞かなかった。
憂う彼の本音をあれだけ知りたいと願っていたのに、聞かなかった。
逃避かもしれない。自分に都合の悪い弁慶の姿を見たくないから耳をふさぐのかもしれない。約束もあった。いつかの鎌倉で聞かないと、九郎は誓ったことがあった。
だがそれより、今更な、と思ってしまったのだ。
こういうものには機というものが確かにある。それはおそらく、あの弁慶が傷ついて帰ってきたあの日よりもずっとずっと前に、あったんだと思う。そんな気がした、だから九郎と弁慶はすれ違った。それを今更聞いたところで、その頃の、すれ違っていた頃の記憶を蒸し返すだけだ。それはいささか怖かった。
だから九郎は拳を膝の上に降ろす。
弁慶との間柄はただの友人だ。九郎が彼を想っていたところで、弁慶は違う。もしかしたら、あの日聞かなかったことを恨んでいるかもしれない、と、怖れてしまった。
だけど視線は彼から離せなかった。
同時に期待してしまうからだ。何も言わぬ弁慶の気持ちなど分からない、それでも彼は九郎の隣にいる、ずっといる。だったら九郎がどうしても、こんなに共にいてもまだ足りないと、ただ彼が欲しいと思ってしまうのと同じように、弁慶も、九郎を欲してくれていたり……するのだろうか。
「……そういえば」
代わりに九郎は問いかけた。
「…………いつか、頼みごとを聞いて欲しい、って言っていた、あれは何だったんだ?」
声が震えて、少し弱気になった。
「ああ、そういえば、京に来た頃にそんなことを言いました」
振り返らずに弁慶は、穏やかに言った。今は振り返らなくてよかったと思った。今彼の目をみたら、多分、
「別に、深い意味があったわけじゃなかったんですよ。ただ、君が僕の為になにかしてくれるって約束が、それが嬉しかっただけで」
「そんなの、当たり前だろう」
「でも、部屋の片づけは手伝ってくれなかったですよね、九郎」
「それは! そもそものお前の日頃の」
「怒らないで、九郎」
庭を見たまま、ふわりと弁慶が言った。ふわりと風が吹いて、彼の髪を揺らした。通り抜けたそれは九郎の脇をすり抜ける。
「ねえ九郎、僕、本当に嬉しかったんです」
ふわりと薬草の独特の香りがした。
「……ええ、嬉しかったんです」
いつの間にか、弁慶が振り返っていた。
「互いに互いの勢力の一員として、偶然やりあった。ただそれだけのきっかけ。僕たちが出会った縁は、霞んでしまいそうなほどに不確かなものでしかなかったはずなのにね」
弁慶の表情はよく見えなかった。だけど九郎は吸い込まれるように見惚れていた。
「君が君で、よかった」
そうしている間に弁慶は、すっかり魅入ってしまっている九郎の指先に手を伸ばし、添えた。
「弁慶?」
やっとのことで紡いだ言葉に、弁慶は問う。
「これがお願い事、じゃ、駄目、ですか?」
「手を……繋ぐことか?」
「そうです」
夏に似合いの髪色の向こうに垣間見える横顔はよく見えない。けれど、荒れた手のひらは暖かだった。暑い気温でも心地よい暖かさ。
「構わないが……これしきのことでいいのか?」
「ええ」
頷いた彼の後髪が揺れる。
弁慶の言う事はいつだって身勝手で、意味が分からない。そんなの昔から知っていて、彼に改めて言われることではない。知っている。多分誰より九郎が知っている。
だから今もその一環で、よく分からないけれど、九郎は弁慶の笑顔を見つめた。重ねられた手を一度するりと抜き、手のひらの汗をぬぐうのも忘れてしっかりと握りなおした。
「……変な奴だな」
ぎゅっと握る。弁慶が目を細める。
おもむろに、九郎はぱたり、と、身を倒した。景色が緑から空へ、そして天井へ映る。最後に弁慶の髪色がよぎった。彼も九郎に倣ったからだった。
つられるように、彼を見た。その目はどこか、暑さにうだっているような、そんな風だったけど、なのにまっすぐで射るようで、
引きつけられるように、体ごと彼を見る。繋いでいない手を伸ばす。距離が近づき、弁慶が静かに目を閉じてゆく。長いまつげに吸い込まれるように、頬に触れて、唇を重ねた。