休憩室に避難させてもらって暫く経った頃、みのりさんと衛さんが血相を変えて駆け込んできた。
「彩! 彩っ!! ごめんね? 大丈夫だった?!」
「本当に申し訳ない……俺のツレのせいで、彩ちゃんに怖い思いをさせてしまって……」
みのりさんは目に涙を溜めながら私に抱きつき、衛さんはその後ろで深々と頭を下げてくれる。
その様子に私のほうが恐縮してしまって、慌てて首を横に振った。
「いっ、いえいえ、そんな!! 何もなかったので、大丈夫ですよ?」
「ほんっと染谷のヤツ、昔からなんだけど、頭の中オンナの事しかなくてさ……今日もアイツ呼ぶ予定じゃなかったんだけど、手違いで来ることになっちゃって。アイツを来させないように出来なかったことと、今日の事は全て俺の責任。彩ちゃん、本当にごめん!」
「わわっ! 衛さん頭を上げてください。実質的には何もなかったので、ホント気にしないでください。こちらで休ませていただいたお陰で気持ちも落ち着きましたし」
そう言いながら脇に立つ捺っちゃんを見ると、彼女は、へへっ。と可愛らしく微笑んでくれる。
あれから捺っちゃんと、バイトの時間までまだあるからと優哉くんも椅子に座り込み、三人で色んな話をして盛り上がっていた。
二人が付き合っているんだって事を教えてもらって驚きと共に、やっぱり。と納得したり、CLUBでの珍事件や色んなお客さんがいる事を教えてもらったりして。
だからいつの間にか忘れてしまっていた。 染谷さんとの出来事を……なんなら合コンに来ていたことすら忘れる勢いで。
「彩、ごめんね。私もお酒入っちゃってたから途中から注意がそちらまで回らなくて。誘ったの私なのに……」
「みのりさんも、そんな謝らないでくださいって。ホント、大丈夫ですから」
「染谷にはあとからキツくお灸を据えておくよ。今は酷く酔っ払ってて手に負えないから、とりあえず男どもを付き添わせてタクシーで帰らせたし、みのりの友達にも今日はお開きってことで帰ってもらったから。大丈夫そうなら彩ちゃんも、俺らと一緒に帰ろうか」
「あ、はい。わかりました」
そう返事をして、私は抱きついていたみのりさんと共に立ち上がると、捺っちゃんに向かって頭を下げた。
「捺っちゃん、今日はどうもありがとう」
「いえいえ! 酔っ払いと飲むのはもう懲り懲りかもだけど、また良かったらお友達と飲みに来てください。私、裏方だからホールにいないけど、呼んでくれたら顔が出せるので♪」
「あははっ! うん。じゃあ、また来るね。あと、優哉くんと……名前、う〜んと、出てこない。さっきの店長さんにも宜しくお伝えください」
「店長……あぁ、大ちゃんさんね! りょーかいです」
もう一度会ってお礼が言いたかったけれど……
結局このCLUBを出るまであの王子さまのような店員さんには会えなかったけれど、来るときほどこのCLUBに抵抗感を感じることはなく、寧ろ少し印象が変わって一歩近づけたような気がしていた。
*** *** *** *** ***
次の日、朝会うなり、みのりさんが開口一番に昨日の事を謝ってくれたけど、何もなかったのだからもうこの件はおしまいという事で、と、終わりにしてもらった。
正直もう、染谷さんの事は思い出したくない。あのしつこさ、腕を掴まれた時の感触、鼻にかかる異様な匂い、髪に顔を近づけられ匂いを嗅がれた事を思い出すと、今も身の毛がよだつ。
たった二時間程度しか一緒にいなかったけれど、私にとって染谷さんは史上最強に強烈なキャラだった。
もしもあの時、あの店員さんが助けてくれなかったらと思うとゾッとする。
優しかったあの、王子様のような店長さん。
確か名前は――――…えなりかず…き? あれ? いや、違う。そんな名前じゃなかったような。
捺っちゃんが、“大ちゃんさん”って呼んでたよね……えと、だから…下の名前は大輔さん……だったかな。
上の名前は? え、……えがわ? え、……えじま?? ……え……え……ダメだ、思い出せない。
お店に行ったらまた会えるかな。 お礼もちゃんと言いたいし、捺っちゃんにもまた会って話がしたい。
今度お給料が出たら、三恵さんとみのりさんを誘って三人で行ってみようかな?
そんな事を考えながら、私はそれからいつも通りに仕事をこなし、いつも通りの時間に仕事を終える。
そして、仕事が終わればいつも通りに帰りにスーパーに寄って、半額になったお弁当をゲットしに行かなければならない。
昨日は外食だったから、今日は和食系のお弁当を狙おうかな。とか考えながらスーパーに寄る。
閉店前のタイムセールがはじまっている店内はそれを狙ったお客で賑わっていた。
2年近く通っているこのスーパー。最初はサイクルがわからなくて、半額になる前に買ってしまっていたり、全く別の物を買っていたりしたけれど、ここ最近は「常連さん」になってきて、大体お目当てのものをゲットできるようになってきた。
タイムセールになるのはなにもお弁当だけじゃなくて、消費期限の近づいた生鮮食品なんかも半額になる。最近は殆どお弁当しか買わなくなったけれど、自炊できる土日なんかはそちらのコーナーもよく利用させてもらっている。
でも、今日の狙いは「焼き鯖弁当」。その名の通り、焼いた塩鯖と厚焼き卵が一個、それにお豆さんや煮物がちょこっと入ったお弁当で380円。それでも安いほうだと思うけど、それが閉店前のタイムセールに入ると半額の190円になる。
節約生活をしている私にとって、それはそれは有難い値段だ。
入り口から入って真っ直ぐ寄り道せずにお惣菜売り場に行くと、残り少なくなったお弁当がワゴンに並べられていて、その中にお目当ての焼き鯖弁当があった。でも、ふと横を見てみると、今までに見たことがない松花堂弁当が270円で売り出されている。
わぁーっ、美味しそう!
四角い箱で中身が九つに小さく仕切られていて、それぞれに炊き込みご飯やお赤飯、煮物や揚げ物が入っていて、ひいてはよもぎ団子という食後のデザートまでついている。
私はその焼き鯖弁当と松花堂弁当の二つを手に取り、うぅーん。と、どちらにしようか本気で悩みはじめた。
給料日前の今、お財布も心もとないし、いつもの190円のお弁当にしようか。
でも、松花堂弁当なんて滅多に半額で残ってないし。
190円にするか、ちょっと頑張って270円にするか……うぅ、迷う〜〜〜っ。
すぐに答えが出せなくて、ひとまず二つともカゴに入れて財布を取り出してみる。
こういう時は、まずお財布と相談。
中には二千円と小銭がちょっと。今日は金曜日で来週の水曜日が給料日だから、それまであと五日間を二千円で過ごさなくてはならない。単純計算で一日400円。
だけど、ここで気をつけなければいけないのが、お弁当だけに400円使えるというワケではないという事。
切らしてしまった日用品などがあればそこから出さなければいけないし、趣味で使っている羊毛フェルトも買い足したい所だ。
となると、今ここで270円の贅沢をしてもいいのかどうか……たった80円、されど80円。
……うーん、諦めるかぁ
うぐぐ。と唸りながら、カゴの中の松花堂弁当に手をかける。
それをワゴンに返しながら、ふと呼び寄せられるように視線がある方向へ向き、一瞬、私の手の動きが止まった。
「こんばんは」
ワゴン対面に立つ男性からそう声がかかる。
その姿をもう一度確認して、驚きで私の目がまん丸と見開いた。
「えっ、えなりさん?!」
咄嗟に出たその名前。だけど彼は当然ながら、きょとんとし、でもすぐにフッと軽く笑みを漏らす。
「残念。江本大輔です」
エモトダイスケ。
わーっ!そうだった!! えなりさんじゃなくて、江本さんだった。
ひぃぃっ、【え】しか合ってないしっ。どんな記憶力しているんだ、私は。
もうっ。私ったら、私ったら、私ったら〜〜〜〜〜っ!!!
クスクスと笑いながら、俺ってそんなイメージかな。なんて呟いている江本さんに、瞬く間に顔が絶好調に赤くなっていくのがわかる。
「すっ、すいませんっ! 名前、間違ってしまって……あの、江本さん」
「あははっ! いえいえ。でも、なんか今後も“えなりさん”とか呼ばれそうだから、大輔って呼んでくれていいよ」
「そんなっ、でも……」
「みんな大ちゃんとか下の名前で呼んでくれて、それのが馴染んでるし、そう呼んでもらったほうが俺としてはいいんだけど?」
昨日の今日で馴れ馴れしい気がするけれど……いいのかな。
「あの…、じゃあ、大輔…さん?」
「はいはい。そのほうがシックリくる」
そう優しく微笑んでくれる大輔さんは、昨日見たまま王子様のようで。
CLUBの制服姿も素敵だったけれど、私服姿の今もまた雰囲気が違って大人の装いでかっこよかった。
「あの…今日はお仕事お休みですか?」
「うん、休み。だから、晩メシ何にしようかなーって見に来たんだけどね。やっぱりここの常連さん、彩ちゃんだったんだね」
そう言いながらニッコリ笑う大輔さんの言葉に少し引っかかって、え、やっぱりって?と、思わず聞いてしまった。
「ん? あぁ、昨日店で酔っ払いの対応をした時ね、どこかで見た子だなーって思ってて。あ、そういえばここのお弁当コーナーでよく見かける子じゃないかなって思ってたんだ。それを聞こうとしたんだけど、途中であのトラブルで呼ばれちゃって聞けず仕舞いで。でも、たった今解決できてスッキリした」
「なるほど、それで……」
――――間違ってたら申し訳ないんだけど。君ってもしかして……
に、繋がるわけか。
昨日の疑問が私もたった今解決出来て納得したのもつかの間、更なる疑問が頭に浮んだ。
……お弁当コーナーでよく見かける子?
「あの……そんなに目立ってますか、私」
「え? あはは! んー、まあ。俺もここをよく利用するからね。ちょくちょく見かける…かな? いつも真剣にお弁当選んでるよね」
「う……そう…でしたっけ……」
なんだろ、すっごい恥ずかしい。
正規の値段でならまだしも、半額になったものを真剣に選んでる姿って……。
しかも今日なんて、190円にするか270円にするかで迷っていたのに。
はっ!? ってことは、さっきお財布と相談していた事も見られていた、とか?
考えれば考えるほど情けない自分の姿が蘇ってきて、この場から思わず逃げ出したい衝動に駆られる。
「あの…なんか、すいません。お見苦しい姿を見せてしまって……」
「え、どうして? 俺もいっつも何にしようか悩むけど? 今日は魚にしようか肉にしようかとかさ。ここの弁当って意外に美味いから真剣に悩んじゃうよね」
私の場合、190円か270円かで迷っているんだけど。
とは、さすがに恥ずかしすぎて言えなくて、私はただ曖昧に笑うだけだった。