埋み火






 灯明の光がゆらりと揺れ、光も影も併せて揺れる。
 静かに流れる時の中、書机に向かい、書類に筆を走らせていた片倉小十郎は一瞬だけ筆を止めた後、又筆を走らせた。
「何用だ?」
 顔も上げずに静かに問う冷静な声。
「あらぁ? やっぱりばれてた? 旦那忍のセンスあるよ」
 静かに、少し距離を置いて背後に立つは猿飛佐助。妙な均衡を保つ‥‥一応敵である。
「馬鹿を言うな」
「でも背中とられちゃっていいの〜?」
「気配を隠す気のない相手に殺気立ってどうする」
 あまりにも冷静な物言いに溜息一つ。さて、そんな相手になんと言おうかと、佐助は頭を掻く。
「旦那さぁ…」
「?」
 奥歯にモノのつっかえた様な言い出しに、筆を止め、小十郎は背後を気にするように視線を少し動かす。
「まぁ、なんだ。余計な事っちゃ余計なことなんだけどさぁ」
「? だから?」
「──竜の旦那に手だしちゃってて大丈夫?」
 ヒュッと風切る音と共に、佐助は目の前に飛んできたものを避けようとせず掴んだ。
 言い終わったと同時に顔面に飛んできたものは、筆。
 先刻まで小十郎が使っていたものだ。
「危ないでしょうが。避けたら後ろの襖が墨だらけになるでしょう」
 慌てることなくそう言う佐助を睨みながらも、振り向きざまの、筆を投げたポーズで小十郎は固まっていた。
「‥‥見たのか?」
「‥‥すこぉ〜し。なりゆきで。」
 その言葉に「はぁ〜‥‥」と長い長い溜息を吐き、書机に肘をついて小十郎は頭を抱えた。落ち込み具合として、頭の上に大きな漬物石が見えるような気がする。
 佐助はゆっくりと近付き、左に置いている硯箱に筆を置くと、“ぽんぽん”と肩を叩く。
「まぁさ、あのさ、うん。別に強請る気もなんもないし、ちょっと素朴な疑問って言うか、なんていうか言いたい事あって‥‥だから旦那、別に落ち込まなくていいって」
 落ち込むなといって落ち込みが止まるものならいいのだが。
 あまりの落ち込み具合に、饒舌になってしまう。別に落ち込ませたくて言い出したわけじゃない。その逆だ。
 鼻の頭を少し掻いて、佐助はピクリとも動かない小十郎の横にしゃがみこむ。
「あんたなら、あっても逆だと思ってた。痛いほど大切にしてるからね。竜の旦那の事」
 だからこそ、感情を宛てる相手ではないと踏まえているからこそ、あれはないだろう光景だった。
「‥‥まったくだ。」
 従とはいえ、導くこと、叛くことが含まれる傅役にとって、“ない”のだ。命令であろうがない。それこそ、絶対に背くべき事。
 情で結ばれていい関係ではないところを、結んでしまった罪悪感。いつもその気持ちに苛まれ、呼吸できない事がある。同じく従の立場である佐助は、その辺りを察知していた。
 長い溜息を吐く小十郎の横顔を見ながら、佐助は又ぽんぽんと肩を叩く。
「お前に慰められる日が来るとは‥‥」
「‥‥いや、うん、なんつーか‥‥慰めるって言うか、多分旦那が思ってる事を言おうと思って話しかけたんじゃなくってさ、んー‥‥──いいんじゃない?って思って」
 少し間、思いっきり眉を顰め、小十郎はゆっくりと顔を上げると、横に鎮座する佐助を見て「は?」と一言唱えた。
「だから、いいんじゃない?って」
「──なにを言い出す」
「まぁ、そう言うと思ったけど。なんつーの? どーして俺様がわざわざ旦那の傷口えぐるような事言うと思うの。俺はね、他人には傷ついて欲しくないやさしーい人種なの」
 胡散臭そーな顔でこちらを見る小十郎に、「だから、」と告げる。
「情で結ばれたんならそれがどうであれ、良かったんじゃない?って言ってるの」
「テメーには──」
「じゃぁ聞くけど、情じゃなければ結ばれて良かった?」
「‥‥今よりもまだな」
「ははは──それ、最悪な答えだよ」
 一瞬、笑顔という能面を貼り付けた佐助の顔は、次の瞬間、ちゃんとした笑顔に作りかえられる。
「竜の旦那はさぁ‥‥ありゃ‥‥」
「?」
「‥‥ほら、普通に欲しいものあれば、堂々と奪うって。隠さずに自分の気持ち晒すし。ま、それが傍から見てたら気持ちいいんだけどさ。」
“そういうところはウチの旦那とよく似てるんだよなー”と続けて、にっこりと笑う。
「あんたが欲しいって思ったら、命令一つで手に入るじゃん。でもしない。竜の旦那はその辺、よくわかってる」
「‥‥何が言いたい」
「わかんない? あんたは、竜の一声でその身もその命も捧げられる。それはいらないんだよね。竜の旦那には。」
「?」
「あんたが‥‥あんたの気持ちが欲しいんだよ。あんたが今否定している情が。」
「‥‥決して俺は全てに情がないわけでは」
「解ってるよ、そーじゃなくて、なんだ‥‥もし二者択一の命令で絶対だと言われたら、抱くことはなくても、抱かれるだろう?あんたなら。」
「‥‥」
「それじゃぁ、あの旦那には意味がなかったんだよ。あんたに欲されてこそ結べる関係っつーかそれが」
「だからそれが間違いだと」
「あ゛ー、もー、なんですか、この石頭!」
 言葉をバチンと切られ、小十郎は口を噤む。
 こほんと佐助は照れくさそうに小さく咳払いをした。
「ないって、あれ。あんたが欲しくて、あんたの気持ちが欲しくてあそこまで理性捧げてるよ? あのプライド高い旦那が理性捧げてまであんたの気持ち欲しがってんだ。そこで罪悪感じるのは、間違ってんじゃねーか?」
 小十郎は何か言いかける、言いかけて言葉にならないその何かを飲み込む。“やれやれ”と言いたげに、佐助はまたぽんぽんと叩く。
「情で結ばれない事が不健全だと、あの人よく解ってるよ」
 小十郎は口を真一文字に結ぶ。佐助は、投げつけられた筆と硯を見ながら、──人って変なところで不器用だからねぇ‥‥俺も含めて──と、そんな事を思いながら、肩を叩き続ける。
「まったく‥‥お前に説教される立場になるとは」
「説教じゃないよ。傷、舐めてあげてんの。その方が治りは早いしね。」
「化膿させる気だろ」
「かわいくないなぁ、あんた」
 にんまりと笑い、佐助は立ち上がる。長く居すぎた。誰かがこちらへと歩いてくる気配もする。去るのが無難だ。
「邪魔したね、色々。ほんと、ただのおせっかいで」
 言葉に対し笑みで返す小十郎に、自分の言葉が少しでも役に立った気がし、佐助はホッとする。
 心は、繋がりにくい。かといって、すれ違うのは見ていられない。
「情があればいいってもんじゃないのは解ってるさ」
 それでも──
「それでも情があって結ばれるのは、悪い事じゃないだろう?」
 自分の中に湧き上がるそれが、ゆるぎない真実であるなら。
 言い終わった佐助にいつもの、唇の端を少し上げる表情で小十郎は応える。
「‥‥で? 説教だけして帰って行くのか?」
「別に説教するつもりもなかったんだけど」
「茄子なら何本か取ってっていいぞ」
 ひゅ〜と、口笛一つ。
「助かるぅ〜。あんたの作る野菜はうまいから、うちの旦那が好物でねぇ。」
 笑顔で佐助は手を振る。それを合図として、ゆらり、また灯明の灯が揺れ、影と光がいびつに歪む。
 瞬間、歪んだ影の中に掻き消えた。
──情…か‥‥
 去ったその場を、小十郎は眺め続ける。
 自分のものであれ、他人のものであれ、それを殺し続けるのが自分達の仕事──忍は特にそうだろう。だからこそ佐助は口に出したのかもしれない。
 長く、長く、小十郎は息を吐く。
 そこにある情が悪くないというのであれば、そこから生まれる欲はどうなるのだろう。情を認めた瞬間、連なる欲の処理を自分はまだ知らない。
 目蓋をゆっくりと閉じる。
 灯明の灯がゆらりと揺れた。








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