恋路十六夜 −前編−
不楽是加何 04
元々、日本家屋は、プライベートがあるようでない作りになっている。
壁といった囲いは大まかにとられ、殆どが、襖と障子で仕切りを作るだけ。しかも、気温や天気がよかった時など、襖や障子は開け放される。
もっと言えば、その薄い一枚が境界線。
内か、外か。
受け入れるか、受け入れないか。
男の部屋は、天気のよさもあり、今日は全面開放。とはいえ、男に宛がわれた部屋は、実際ここだけではなく、小さな中庭を含めたこの区域といっていいので、大変広いプライベートルームである。
その領域に女は、本来の“忍”という稼業とはそぐわぬ見事な黄金色の髪を、朝の光に晒し輝かせながら、男の、この城の重臣・片倉小十郎に宛がわれた部屋の中庭に立っていた。
いずれの菖蒲か杜若か‥‥とはいえその花、大層不満げな表情でこちらを見ている。
小十郎は困った風に、部屋の中から口元を上げて見せた。
「お早う。使いとして来たのなら、堂々と門から入ればいいだろう?」
「佐助じゃあるまいし、考えられぬ」
ツンッとそっぽを向いた彼女を笑うと、女はゆっくりと縁側へ歩み寄る。小十郎もそれに合わせ、書机から腰を上げ、縁側へと向かった。
「はい。謙信さまからの書簡。と、文。」
「ご苦労様」
ぶすっと、面白くない顔のまま彼女は、書簡と文を二つ差し出す。相手はかの上杉謙信。小十郎は少し恭しく受け取り、書簡の紐を解いて、内容をざっと改める。
伊達家とは、東北の地を東西に分けて管轄する両陣、派手なものではないが、地味な交流は昔からある。長い付き合いの“お隣様”である。
政治的な書簡。勿論直筆ではない。最後の花押のみが謙信公の証。
「‥‥軍神殿はまだ表立った動きをされぬというわけか‥‥」
これといった情報を見出す事ができず、溜息をついて紐を結びなおす。
「先動くのは思うツボ。謙信さまはよく解ってらっしゃるわ」
「確かに。軍神であるゆえに覇権を急く事もないということか」
「当然だ。謙信さまこそ覇者ですもの」
うっとりと目を細める彼女に、やれやれといった面持ちで、小十郎は渡された二つの文を見る。
一つは主君・伊達政宗宛。これは直接本人行き。しかしもう一方は、小十郎に宛てたものだった。
「?」
文を貰う心当たりが無く、一瞬小首をかしげた小十郎に、女は唇を尖らせる。
「一介のお前が、どうして謙信さまから直筆の文などを貰う。解せん」
いつもにも増して不機嫌の理由はこれかと納得し、内容を改める。内容に目を通す前に、達筆な筆捌きに惚れ惚れとしてしまう。文字に人柄が表れているといったところか。
「ところで右目」
「ん?」
「何を考えている?」
「‥‥」
何を指し、問うてきているか検討はついているが、小十郎は応えず文に目を通す。
「謙信様は心の広いお方だから、どうとは問わぬが‥‥虎の若子と佐助を城にいれて‥‥。事と次第によっては」
「チャンバラ遊びと酒盛りだ」
「は?」
「残念ながら筆頭は、謙信公のように落ち着くには時間がまだいる。時々は遊ばせてやらんとなにをしでかすか。子供のやること、大目に見てくれ。」
「‥‥フン。遊びが全国行脚とはこってるわね」
視線だけを一度彼女に向けてから、文へと戻す。
勿論“子供のやること”ではない。曲がりなりにも東北の一角を担う将だ。
謙信は、この乱世において少し風変わりなスタンスを取る将である。自分自身を軍神と信じ、またその言葉に並ぶ戦ぶり。そして、曲がった事・卑怯な事をひどく嫌悪するが、礼と義を重んじさえすれば、敵味方なく考える人物である。
伊達家は、謙信に対し礼を尽くしている。だからこそ、友好的に見てもらっているところも多いが、実際は謙信の剣と呼ばれるこの美しい忍・かすがの見解が妥当である。
「正直に言おう。どう転ぶか、こればっかりは俺も未知数だ。他の国で不穏な動きもある。おちおちはしてられねぇ」
「おちおちしてられない人間が城を空けるの? それも謙信さまを門番のように使ってっ」
“やっぱり‥‥”と眉間の皺を深くして、小十郎は目を閉じる。
城を出ると政宗が宣言した時から、色々と嫌な予感はしていた。政宗は一度やろうと決めたことに対し、手段を選ばない節があると同時に、根回しも抜け目ない。甲斐の虎に餌を撒いたのなら、近所の軍神に参拝していないわけがない。それでいてわが主は、軍神という、本丸からは遠いながらも、立派な仁王像を手に入れたらしい。
ちらりと政宗に宛てられた文を見る。それが多分、そういった内容を書いている文に違いない。
「その辺りはまぁ‥‥謝る」
「謝るじゃないわ! 誰も彼も、謙信さまの人がいい事を利用して!」
ピクリと、小十郎の眉が上がる。聞き捨てならないフレーズがあった。
「“誰も彼も?”」
少し口が滑ったのだろう。口をいっそうぶすっと尖らせる。
かすがはダンマリを決め込もうとしたが、さして問題はないと判断したのか、小さく口を開いた。
「‥‥浅井長政と市の方が来たわよ。新婚旅行で。」
「はぁ?」
ぽかんと大きく口を開け、声を上げだ小十郎を無視して、かすがは言葉を続けた。
「信じられない! 謙信さまのご好意に甘えて泊まっていったのよ! あぁぁっっ」
縁側に倒れ込む様にして、咽び泣くその姿に言葉が出ない。一応、この忍は凄腕の戦忍でもあるはずなのだが‥‥。
「まぁいいじゃねぇか、帰ったんなら」
「よくあるものか! 謙信さまの、謙信さまのっっ!」
“はいはい”といった風に聞き流す。かといって話は切らない。女というものは、大体話を聞いてもらえればそれで満足する生き物なのだから、それくらいなら敵でも味方でもない自分は付き合ってやれる。いやいやながら、文を届けてくれた彼女のお礼になるだろう。‥‥彼女は気付きもしないだろうが。
それにしても新婚旅行とは‥‥と、小十郎は思う。
確かに浅井家は、浅井長政とお市の婚礼が済んだ今、好意的に見れば、浅井の後ろには織田信長。隣の前田領は、織田の妹である市が嫁いだ事によって、同盟とはいかないまでも友好的な立場だろう。前田領までの旅行は、とても無難かもしれないが。
上杉謙信は礼節を重んじれば、言わずもがな、敵になる事はないといっていい人物でいい。
だからといって、城の主が戦でもなく、この距離を、旅行の足を意味もなく伸ばすだろうか?“これが”と指定しては言えないが、物事の動きの流れが、どこかしら合っている気もする。偶然か?
動き出した情勢。動き出す人物‥‥
考え過ぎならばいい。むしろ、考え過ぎであって欲しい。
市とは、一度顔を合わせたことがあった。たまたまだったが。
美しく不幸な女だった。いや、そうではない。幸せを知らない女‥‥幸せを知ろうとしない女‥‥どこか、そういった印象が否めない。だからこそ、無事婚礼が済んだ事を風の噂で知った時、他人事ながらうれしく思った。
他者を知り、己を見直した時、あの美しく黒い瞳に、光が射す気がしたのだ。そうでなければ、あれは‥‥
考えながら、文の黙読を進める。と、嫌な予感がし始めた。
謙信からの文の内容は、とても抽象的で、これまた本題が掴みにくいのだが、今話している、考えている内容と、キーワードが重なっていた。
「‥‥くの一さんよ」
「? なんだ?」
「浅井夫婦は帰ったんだよな?」
「えぇ。“上杉領からは”出て行ったわ」
女は、その艶やかな唇を美しい形に歪める。あわせて、男は下唇を噛む。
小十郎の、忙しい一日が始まった。
■恋路十六夜■
朝のかすがの一石により、慌てて伊達の素破からの情報をかき集め、小十郎は見直す事にした。
かすがや佐助のような戦忍は雇用していないにしろ、情報戦における忍──素破は、伊達家も多く確保していた。まさに、情報を“素破抜く”事が重要なのだから。
「こちらが謙信公からの書簡と文でございます。」
“ヒュ〜”と口笛をひと吹きし、上座に坐る城主・伊達政宗は上機嫌に微笑んだ。
「軍神直々とはうれしいねぇ」
彼の、モノを見ることを許された左の目が細まり、迷いなく、書簡ではなく文を手に取る。
書簡には確かに面白い事は書いていないだろうが、正直すぎると小十郎は眉間の皺を深くさせた。
定例の朝礼会議には、小十郎だけではなく、他の家臣たちが揃って彼の一挙手一投足を見ている。上辺だけでもと、小言を思わず心の中でぶつぶつと唱えてしまう小十郎であった。
「で、政宗よぅ、マジで城空けるわけ?」
上座傍、小十郎と対面に座っていた伊達成実が、軽く手を上げて政宗に質問する。
成実は政宗の従弟にあたり、武闘派で知られているが、実際は情勢をよく見、客観的な目を持つ有能な人物でもある。
政宗が、城を空けて遠征するとなれば、城を守るのは、この成実を置いて他にはない。
「空ける。」
「マジかよもぅ。勘弁してくれよ〜」
気苦労の多さは、小十郎とどっこいどっこいでもある。
「安心しろ。軍神からもいい返事が来た。これでとりあえず、最上等を牽制できる。」
「軍神? 上杉謙信か? 同盟でも結んだのか?」
「まさか。同盟は結んでない。ただ、人生勉強がうまくいくように祈願しただけだ。」
「は?」
政宗は静かに文をたたみ、今度は書簡へと手を伸ばす。
一つしか無いからこそ、全てを見尽くそうとするその貪欲な隻眼は、文を見ながらも、別の事を見通していた。
「小十郎」
「は、」
「今朝はやけに落ち着かないな?」
書簡を退屈そうに読みながら、政宗は呟く。
勘は、嫌というほどいいのが小十郎の主だった。
「少し、気にかかることがございまして」
「言えよ」
「まだ確証はございませんので、何とも」
と、言葉を濁したところで、広間前の廊下に足音が響き、広間にいた者々が何かと廊下を見る。そこには一人の若い間者。
眉を顰め、間者に目配せする小十郎と、待ってましたといわんばかりに笑みを作る政宗。
タイミングが悪すぎる。
「お前、小十郎の間者だな?」
政宗の瞳が若い間者を射抜く。「は、はい。」とただ応える声に、緊張の色が出ていた。
「小十郎に報告する事を、そこで報告しろ」
「え?」
戸惑う間者に、小十郎は目で少し合図をした後、軽く頷く。それを確認してから、間者は戸惑いながらも、はっきりとした口ぶりで語りだした。
「御前にて申し上げます。上杉領から発った浅井両夫妻、伊達領にて確認はなしとの事。」
一瞬にして場がざわめく。
上杉という、伊達家としては無視できない名。そこに浅井という名が加われば、当たり前である。しかもそれが領地内に関係したかもしれないとなると。
「さーて小十郎、説明してもらおうか?」
一つ、小十郎は呼吸分の間を空ける。
「‥‥上杉謙信が浅井夫妻を招いたという情報が入りましたので、念のためにと確認をしたまでの事です」
場は、一層波立った。浅井長政という男が、信長の妹を娶った事を知らぬものは居ない。伊達領に入り込んでないにしろ、上杉と浅井が場を一緒にしたというだけで問題である。
「政宗、本当に城空けていいのか?」
皆の心の内を代弁したのは成実であった。
政宗は、どこを見るでもなく床を見た後、チラリと小十郎を盗み見る。是とするか非とするか。
だが、当の小十郎は何か別の事を考える様子で、政宗の視線の合図に気付かない。
──うん?
城主が城を空ける空けないという重大な話よりも、気にかかる事があると見える。先に片付ける問題があるというわけだ。
──早計は事を危ぶむ‥‥か。
「城の話は後回しだ。まだ手札も揃っていない。成実、この話は手札が揃い次第再開だ。他の者は、過度に緊張する必要は無いにしろ、各自自分の持ち場の警戒は怠るな。些細な事でも気になった事があれば回して来い。──解散!」
「はっ!」
了解の、キレのよい声が部屋に響く。
一礼して、部屋を後にしていく者を眺める政宗だったが、意識は小十郎に向けていた。
思案している事を、話すか、否か。
「政宗様。」
「あん?」
小十郎の声に、さも気に留めていなかった風に返事する。
「少し、私用を思い出しました故、自分もこれにて」
まじまじと小十郎を眺めてから、「OK」と答えると、深々と頭を下げて、小十郎は素早く部屋を立ち去った。
「‥‥なんか小十郎、おかしくなかったか?」
自らの顎をさすりながら、小十郎を見送る政宗に、成実が呟く。
それを見抜けぬ政宗でもない。
──話さなかった‥‥っと。
顎を撫でていた指先が、唇にかかる。
その唇は、笑みを作っていた。
「焦がれる‥‥光‥‥。捧げる御手よりすり抜け‥‥欲すれば‥‥己が闇で覆いつくし、光は…失われる‥‥」
心を微かに伝えようとする声。長い、常闇のような黒髪が、通り過ぎる風に揺らぐ。
「──どう…するの?」
問いかけ。
「どうすれば…いい?」
そして彼女は自問した。
その瞳に、一瞬だが光を見た。
だからこそ──
─暗闇に、届く光を見たいそうですよ。─
謙信の文に書かれていたその言葉が、頭の隅に引っかかって仕方が無かった。
走らせた馬に、小休止をかね小川の水をやりながら、適当なところに腰かけ、小十郎は文の内容を確認する。
部屋で袴を締めなおし、使い馴染んだ刀・黒龍を腰に携え、棚から手袋と金子を少し取り出て城を出てから数時間。
──予想が外れてればいいんだがな‥‥
あまりに内容が抽象的過ぎて、まだ全てを理解しては無いが、この文には市の事が多く書かれていた。謙信が、自分に対して市の話を振ってくる理由‥‥それは多分、“参考”と“警告”。参考だけならまだいい。しかし、警告が含まれているということは、市の目がこちらに向いている‥‥最悪、市が長政と共に帰っていない可能性を窺わせる。
政宗の前で報告したあの者は、小十郎の目配せに気付き、内容を少し抑えてくれた。
『上杉領から発った浅井両夫妻、伊達領にて確認はなしとの事。』──その後に続きがある。
“ただ、西の境近くにて旅の女の噂が多く、共通してとても美しい女性との‥‥。どこかのお姫様ではないかと、付近の者は噂しておりました。”
尾ひれ背びれが付くとしても、噂として残るほどとなれば、目立つのだ。美しさにも、行動にもどこか。それほどの女‥‥
素破の話をまとめると、歩み等を考えて、もし遭遇できるとするなら、残るはこの街道に間違いはないはずだが‥‥。そろそろ日も陰り始める。政宗に席を空ける事は伝えていないので、一旦は城に帰らなければならない。
噂は‥‥噂であって欲しい。予測は予測であって欲しいと願うばかり。今の伊達軍では、市という人物は荷が重い。背後も、本人も。そんな重いものを自分が招いてしまったとなれば、塞き止める仕事も自分しかいない。
予想通り、旅の女が市ならば。
溜息が自然と出、懐に文を直してから、木々の合間に見える空を眺める。木々の葉も落ち始め、空も秋というよりは冬の空だ。今日ぐらいは、部屋でのんびりとしたかったかなぁなどという願望が、思わずのん気に歌を口走せる。
「鳥鳴く声す 夢覚ませ 見よ明け渡る 東を‥‥」
子供なら誰もが知る、言葉遊びの歌。
「空色映えて 沖つ辺に」
併せられた声に驚いて振り返る。
まだ日の光が出ているというのに、常闇が、そこに立っていた。
「帆船群れゐぬ 靄の内‥‥。」
常闇は、何事も無かったように歌い終わると、小十郎に向かって薄紅色の唇を、にっこりと笑みの形に作って見せた。
「とりな歌‥‥ね」
驚きの余り、振り返ったまま固まっていた小十郎だったが、やっと我に返り、その場に膝を着く。
「は、」
「子供の頃、よく歌った…。大人になっても‥‥いいものね」
「はい」
鼓動は早くなっていないが、緊張のためか、自らの心音が漏れているかのように感じる。場の空気を、全て持っていかれている。気配がまったくしなかった。ここは街道傍とはいえ、落ち葉が敷き詰り、一足ごとに音をたてる。それなのに、
「このような場所でお会いできるとは、光栄にございます」
まず、見え透いた言葉でもいい。場を慣らさなくては。
「ふふふ。市も、貴方に会いたいと思っていたの‥‥でも、貴方がどこの誰なのか、分からなかった。──奥州・片倉小十郎景綱という名前ぐらいしか。」
涼やかな表情をもち、立つは、お市の方その人。
頬に沿い、揺らぐ黒髪。可憐という言葉を絵にしたような姿。だが、それとは逆に、ピリピリと神経が研ぎ澄まされてゆく。
小十郎は唇をきつく結ぶ。蒔いた種は、やはり自分かと。
「それは失礼いたしました。まさか無骨な某を思っていただけるなど、考えてもおらず」
「市、貴方の、その目はきらい。‥‥でも、その目にかなった光は、見てみたい」
たおやかに、それでいて無邪気に彼女は微笑む。
“やれやれ”と心の中で呟く。理を理解できながら、理解しないように意識を遮断している。心地よい罪を重ねるために、無邪気でいるような。
彼女とは以前、少し話しをした。他愛のない話の中で、あの希望を見出そうとしない目が、ものを欲した。欲することを戸惑いながら、光を欲した。その姿は、痛々しかった。痛々しく思いながら、自分は何かを重ねていた。そして、同情した。
彼女にか、重ねた想いにか。
同情したその想いに、彼女が興味を示してしまったのだ。真っ白なキャンバスに色を望むように。
顎を引き、少し頭を垂れてから、小十郎は口を開いた。
「光は──見る角度により輝きも変わってきます。姫様(ひいさま)がごらんになって、さてそれが光であるかは」
「うん‥‥そう、ね。でも、貴方のその常夜の瞳にさした光が見たいの。」
その微笑は誰をも虜にするだろう。
例外である自分に、小十郎は苦笑いを浮かべる。
「ところで、姫様はまさか一人で?」
「うぅん。馬と藤がいる。」
市が、少しだけ首を動かし、後ろを見るような素振りをする。すると、馬を引いた侍女が現れ、小十郎に軽く会釈をしてから、馬に水を飲ませ始めた。
首が詰まったように、呼吸が少し苦しい。市に対しての緊張で、感覚が狂い始めている。全ての神経を市に注ぎすぎ、他の気配が鈍感になってきているのだ。
──まずいな。
真剣勝負に似た状態。しかも呑まれている。防戦だけというのは性に合わないが、立場上しかたがない。隙をうかがうしかないのだ。
そんな小十郎の焦りを見透かすように、市は又にこりと笑う。
「市が‥‥どうしてここにいると思う?」
「え‥‥」
その通りだ。偶然にしてもおかしい。道ならばまだしも、道から意識しなければ、見えるか見えないかのこの場に。
「ずいぶん…前に、道を‥‥歩いてたら、貴方が私を探していて‥‥ここの辺りにいると、貴方の草に教えてもらった…」
草──多分、忍の事を指しているのだろう。地域によって軒猿と呼んでみたりと呼び名が様々だ。
それにしても‥‥と、小十郎は首を捻る。確かに市を見つけた場合、速やかにその位置を知らせろとは伝えていたが、接触しろとは‥‥ましてや引き合わせろとは伝えていない。
眉間に皺が寄る。一難去ってまた一難なのか。いや、山積していた問題という山が崩れ始めただけなのか。
「それは、御側路をかけてしまい‥‥」
「うぅん。いいの」
そう言って、ゆっくりと膝を折る小十郎の前まで歩み寄り、市は着物の裾を手で軽く押さえ、しゃがみこむ。
「貴方の、光を見せてくれさえすれば」
黒く美しい瞳が、小十郎の心を覗き込んだ。
一瞬にして喉が渇く。
背中に、嫌な汗をかき始める。
「ね?」
防戦は、そろそろ限界だ。
黒い瞳から逃れるため、目蓋をとじ、一度ゆっくりと深呼吸をしてスイッチを切り替える。ここで肝を掴まれたままでは、右目の立場がない。
「その前に姫様、この様な慣れない場所に一人旅という無謀、この小十郎、感心いたしかねます」
目蓋を開き、その目を市に向ける。見定めなければいけないものが多すぎる。
「何か宛てはあってのことで?」
「宛て?」
市はきょとっと小十郎を見つめ、微笑む。
「市は‥‥貴方の光を見に来たの‥‥」
さて、その光がなんであるか、確信を持って言っているのか、それともそうではないのか。‥‥どちらにせよ怖い。
「長政公はお許しに?」
その名が出たとたん、黒く美しい瞳の眼光が弱まる。しかしその瞳こそが、小十郎には人の目に見えた。
「長政さまはお許しになってくれたわ。市、一緒にとお誘いしたのだけれど‥‥」
小十郎からやっと視線を逸らし、市はその瞳をどこへでもなく彷徨わせる。
まぁ、長政の対応は妥当だ。交流のない領地の中へ入り込むなど、正気の沙汰ではない。しかし、なら尚更、新妻を一人出す気も知れない。それとも市が、この天然な調子で抜け出してきたか。
──ありえる。
どっと疲れてきた。
「姫様、長政公が心配しておられると思います。まずは公に──」
彷徨っていたはずの瞳が、素早く、小十郎に標準を合わせる。
瞬間、固まる身体。
──しまった。
「ひかりは?」
柔らかい、呟き。
ゆらりと、白く、しなやかな手が伸びる。
「貴方のその瞳に映った、その傷をつけたひかりは?」
「!?」
「見せて。市に。闇にとけぬひかりがあること‥‥」
別の生き物のような、女の指先が、男の頬に触れるか触れないかの刹那、ガサリガサリと派手な足音が、二人の耳に届き、その接触を止める。
音の先に立つのは、いつもの不敵な笑みを浮かべたその人。
「han? こんな所で逢引とはやるじゃねぇか、小十郎?」
「ま、政宗様!」
「‥‥」
慌てて一歩後退し、小十郎は政宗に向かい頭を下げる。そんな小十郎を無表情に、ともすれば退屈そうに眺めてから、市はゆっくりと立ち上がった。
「政宗‥‥?」
馬を引き連れ小川に入ってきた政宗は、小十郎の連れてきた馬の傍に自分の馬を置いてから、彼女と対峙する。武将の面持ちで。
「お初にお目にかかるお市殿。我はこの地を統べる奥州筆頭・伊達藤次郎政宗。以後、お見知りおきを」
戦場のような口上を、ぼんやりと市は聞き入ると、「あぁ」と何かを思い出したように笑いかけた。
「お噂は‥‥兄様から‥‥。悪路王の末裔に、やっと、悪路王らしき者が現れたと‥‥」
「!」
思わず顔を上げた小十郎を、政宗は視線だけで制止する。そのやり取りを気付かない様に、市の顔には、穏やかな笑みが浮かぶ。
「私の名は市‥‥。浅井長政が妻、市。こちらこそ‥‥よろしく」
軽く下げる頭から、はらりはらりと黒髪が流れ落ちる。溜息を漏らしたくなる優美さに、不謹慎ながらも、政宗は口角を上げた。
「さて‥‥残念ながら俺は田舎武者ゆえ、礼儀は挨拶の口上で精一杯。その辺り、許していただきたいのだが、お市殿」
こくりと、市は力なく頷いてから、視線を、小十郎に向ける。
「彼は‥‥政宗様の‥‥?」
「あぁ、俺の右目と呼ばれている男だ」
右目にかけている小鍔の眼帯を、指先でコツコツと叩き、笑う。
「‥‥まぁ。政宗様に、仕えている人だとは、薄々思ってはいましたが‥‥そんなに、偉い方でしたのね」
“ふふふふ”と口元を押さえながら笑い、市はちらりと小十郎を見る。
その言葉は、事実か、本心か、それとも──
「さて、お市殿、立ち話もここまでにして‥‥少々、距離はありますが、我が城に招待したく思いますが?」
改まった言葉で誘いながら、「男臭い城で申し訳ねぇがな」と最後に付け加える。
反対の声を寸前の所で止めた小十郎だったが、小首を傾げながらも、「えぇ」と承諾した市に対し、また叫びたくなった。
市の侍女などは、まったくの無関心といった面持ちで、こちらを見ている。
止めるのは自分しかいないらしい。
「僭越ながら」
「あん?」
異を唱えようとする小十郎を、“きたか”とばかりに政宗は見る。少し楽しげだ。
「お市の方はつい最近輿入れを済まされたばかりの」
「そんな事は俺もよく知っている。かといって、こんな寒空の下、立たせておく方がどれだけ失礼か。それに市殿の“兄上様”と俺の親父は交流があった。もてなすのが筋ってもんだろう?」
「しかし!」
「しかしもかかしもねーよ。第一、本人が快諾してるのに、なにか問題があるのか?」
「問題も何も!」
“浅井長政が妻”──彼女は、そんなに生易しいものじゃない。
反論しようと口を開く小十郎の前に、ツカツカと足音をわざと鳴らしながら歩み寄り、政宗は見下ろした。
「それとも、主の言う事が聞けねぇのか?」
その台詞を出されては、これ以上、この場面で異を唱えることは政宗の顔に泥を塗る事となる。また、自分を見下ろすその瞳が、感情的な色ではなく、何らかの意図が含まれてるように見え、小十郎は折れる事にした。
「っと、そうだ、小十郎」
「はい?」
「お前もいい部下もってるな。だが、俺の黒脛巾組舐めんなよ?」
得意気な笑みを残し、勝ち誇ったように政宗は馬の元へと歩く。
“黒脛巾組”とは政宗直属の忍だ。言葉からして多分、自分が用件を頼んでいた者たちは、
──口を割らされ、黒脛巾で上意をかけたか‥‥
思い立ったらの行動が早いのが我が主君。どうのこうのと理屈をつけたところで、それが通用しない人でもある。
‥‥それにしても黒脛巾は、領地外を専門にこなす事の多い、いわゆるスペシャルチーム。こういった小さい私用に使うのはどうかとと思いつつ、小十郎は長い溜息を吐いて立ち上がるしかない。
市は、馬を引き連れてやってくる政宗を確認してから、侍女に馬を連れてくるよう合図する。
冷たい風が吹く。
「さて、日も陰る。外れた道を戻るとするか」
ゆっくり大きく伸びをしてから、政宗は上機嫌に馬を撫でる。
自分の撒いたかもしれない種とはいえ、これからの展開に頭が痛くなりながらも、小十郎は政宗から手渡された手綱を、素直に受け取るしかなかった。
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