赤誠 -後編-
不楽是加何 03
“女三人かしましい”という言葉があるが、男とて集まればやかましいものだ。
加えて、酒など入れば自制などなく混沌とするのがオチで。
混沌とするのは嫌いではないが、その混沌を楽しむのと、混沌に楽しまれるのは違う。取り留めなく、自由に会話しているようにしながら、自分達が手におえる範囲の話題に誘導する。互いの秩序と法則は混沌の下の根底にあって、無くなっては意味がない。
しかしそれよりも何よりも、この混沌が生まれた事自体奇跡だった。
一晩の部屋を用意するといったのは政宗だった。
その一晩に厄介になるといったのは幸村だった。
それがどれほど非常識であったとしても、自分達には“否”を唱える理由はない。もっと言えば、“非常識だから”という理由で“否”は唱えられない。
重臣の立場である“片倉小十郎”としては、酒を飲みながらも酔う事も、その混沌を嗜む事も出来ない状態だった。客人はあの真田幸村なのだから。
宴も酣‥‥いや、そろそろ終盤を見計らい、主人である政宗のお気に入りの濁り酒を出してきましょうと声をかけ、小十郎は席を立つ。その言葉が出ると、宴の沈静化に入り始めたと察しづく政宗は、とやかくケチをつけ始めるが、それを飲み込んでいると終わりがない。程ほどに酒には付き合ったので、軽くあしらう。
今日は客人が客人ということもあってか、開放は早かった。
廊下に出て、すぐに厨房へは向かわず、開放していた部屋の襖や障子を閉めてゆく。そろそろ夜風が冷たい季節になってきた。酒が入ってしまうと気付きづらくなるが、このまま夜風で身体を冷やすのはあまりよくない。
閉め終わり、静かに一歩を踏み出す。
離れから母屋への、渡り廊下を挟んだ中庭は、昼間のあの鮮やかな彩がまるで嘘のように、辺りは薄暗い闇に覆われ、色を奪われた姿でそこに立ち尽くす。
小十郎すら侵蝕しようとするかのように、闇が冷たい風に乗ってじわりじわりとやってきている気がした。
自分の中に渦巻くものを察知するように迫る闇。
小十郎は薄く笑う。自らの中の、闇の濃さに。
「片倉殿」
不意に発せられたその声で、自分を包む空気が変わったことに、小十郎はしばし呆気に取られた。心根が放つ気というものはこういったものかと、のんきに感心した。
「片倉殿?」
厠から戻ってきた幸村は、ぼんやりと立ち尽くしていた小十郎を不思議そうに眺める。
「失礼しました」
軽く頭を下げ、微笑む小十郎を、少しの間まだ不思議そうに幸村は眺めた。
「どうかいたしましたか? このような場所で」
今日の月はあまり綺麗な方ではない。この、澱んだ暗闇の広がる中庭を眺めているのは、確かに少々不自然だ。
「お恥ずかしい所をお見せしました。大したことでは‥‥真田殿こそどうぞ部屋に。追加の濁り酒をお持ちします」
「まだ飲みますか!」
素直な感嘆に、小十郎は笑う。
「無類の酒好きですから。それに、今日は特に酌み交わす事のできない相手と、酌み交わす事が出来るとなれば、美味しくて仕方がないでしょう。」
この時代において、幸村の素直さは一種の美徳といっていい。政宗がそれを愛でる気持ちはよくわかる。とはいえ小十郎にしてみれば、政宗も十分素直である。‥‥天邪鬼なだけで。
またにこりと笑った小十郎をじっと見つめた幸村だったが、意を決したように顎を引き、見直した。
「片倉殿。」
「はい」
「某にその‥‥堅苦しい言い回しは必要ないでござる」
「?‥‥と、申しますと?」
「初めて会った時の印象が、某にはどうも‥‥」
捲し立てる、罵声が飛び交う──そんな戦場で相対した時の、ありのままといった気性の激しい小十郎の印象が強く、あまり丁寧にされてしまうと違和感を覚える。コレはこれで見ていれば慣れるのだが、なにかこう‥‥
「はは。客人として迎えているのです。あまり失礼な事も」
「失礼も何も‥‥佐助には、その」
「度量がないもので、真田殿を客人として扱うのが精一杯で。それでなくとも、色々と口が滑りそうになる。いや、既に滑っていますがね」
やんわりと断り、笑む小十郎を見つめ、幸村は呟いた。
「片倉殿は‥‥まるで不知火のようですな」
「は?」
突然の話題に、小十郎は眼を丸くさせる。
「不知火? 海に浮かぶ妖火ですか」
「はい。某は実物を見たことはないのでござるが、海の闇の中に、淡い炎が浮かんでゆくそうです。海神‥‥竜神が闇夜に迷わぬよう灯された、灯火の役割だといわれております」
全てを言い終わった後、韻を踏んでいる事に気付き、幸村は笑う。
「政宗殿は奥州の竜。まさしくぴったりですな。」
「‥‥なぜ不知火と?」
「幼き頃、佐助に不知火の話を聞き、色々と想像したものです。闇のしじまに浮かぶ、炎の様でいて、炎のように輝かしくなく、そこに在るようでいて、ない‥‥。されどそれは導く光‥‥今、片倉殿を見て、ふと思い出しました。」
「存在が薄いですから」
「いえ、そうではなく──」
続く台詞を躊躇うよう飲み込んでから、口をもう一度開こうと唇を動かす。が、言葉が発されることはない。
サワリと二人の間を渡った風は、冷たい手で両者の頬を撫でる。
その言葉に、自分の中の暗いものが動いた事を感じながら、小十郎は極力穏やかに彼を見据えた。それに促されるように、幸村は呟く。
「初めて刃を交えた時は、どれほど‥‥」
小十郎に、“手加減”という言葉はありえない。敵として対峙すればなおのこと。
初めて相対した時の、恐ろしいまでの殺気と変わらない闘志に、背中がゾクゾクとした事を幸村は覚えている。しかもそれが、政宗に力を抑制された‥‥つまり“手加減”をしいられた状態でと聞いて、さらにゾクリときた。
全身全霊を晒す事の出来る・ぶつける事の出来る人間というのは、どうであれ貴重だ。だからこそ、その存在を所有する、政宗がうらやましくもあった。
それがこう、きっちりと線引きされ、抑制・制御されている節に、なんとも言えない違和感や寂しさを感じたのだ。かといって、それを本人に伝えるというのもおかしい気がし始め、言い出したまま幸村は収拾がつかなくなり始めていた。
人生の先輩が、そういった感情を察せないはずもなく、小十郎は笑う。
「刀は己を語り、闘いとなればその刀で、全身全霊で己の命を張るものです。だからこそ、我々は武士であり、武士から離れられないのではないでしょうか?──それに慣れてしまい、口下手になってしまいましたが」
「某も!」
元気よく反応した幸村を笑うと、照れくさそうにしながら、彼は微笑んで返してくる。
「それにまぁ、なんだ」
小十郎の口調が変わったことに、少し驚いて幸村は視線を上げる。
「“政宗様”の客人の扱いは慎重にしねぇと、逆鱗に触れて後々厄介な事になる──勘弁してくれねぇか?」
そう言って一線を画した笑みではなく、本来が滲み出たように柔らかく微笑む小十郎に、「あい解った」と幸村も笑顔で答える。
「さ、ここで話していたら身体が冷える。部屋に」
頷いて、部屋に戻りかけた幸村だったが、くるりと踵を返した。
「某、真剣での手合わせを望んでおりました。本日は冥利につきましたぞ!」
真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ、振れる事の知らない炎。
「それは光栄」
そこになく、そしてそこにある不知火。
「また、機会があれば手合わせいただきたい。」
「いつでも」
幸村は人懐っこい笑顔で、楽しそうに瞳をキラキラとさせてから、部屋に戻ってゆく。
自分は政宗の気に入ったものを試す事しかできない。だが、試せるだけでも幸せではないか? 体感できるだけでも。存在を知るだけでも。
小十郎は柔らかく微笑む。
この、闇夜のように。
「──そんでそんで? 竜の旦那は何考えちゃってるのかなぁ?」
「あぁん?」
鬼の居ぬ間になんとやら。幸村も今は席を外している。佐助はこの時とばかりにニンマリ笑った。
「テメェもうちょっと忍べよ」
「今日は客人だもーん」
「テメーを客に呼んだ覚えがねぇ」
杯を片手に、政宗は佐助の胡坐を蹴る。
「野蛮ねぇ」
「ケッ」
「で?」
「言う必要があるのかよ」
「ここまできて秘密ってひどくない?」
「自分で調べるのが仕事だろ? 手を抜くなよ」
「だから聞いてんじゃん」
緊張感を極力出さないようにしながら、引く事のない瞳を向ける佐助に、政宗は片眉を器用に上げ、謀ったようにニヤリと笑った。
「ならこき使ってやる」
“聞いたが最後”という事らしい。
「ついこの間起こった北の農村の虐殺の件。どうやら明智で確定だ」
「ま、だろうね‥‥」
奥州のさらに北で起こった、侍による農民の惨殺は、被害はそれほど大きくなかったものの、色々と問題を孕んでいた。
まず、虐殺に意味が無い。まったくする必要がないという事。又、東北勢力を飛び越えて虐殺に及んだ事実。他勢力に気付かれず、行えた船の存在。
その船の所有者が魔王・織田信長という真実──。
「信長が、計略にもならん惨殺をするか? もししたとして、秘蔵の船でわざわざ見せびらかすなら、自らではなく明智にさせる意図がまったく見えん」
「魔王のする事なんて元々人知外だ。無理に計ることじゃないんじゃない?」
「いや、信長は人知外といっても、天下を掌握するという野心の基盤がある。」
「つまり?」
「今回の件、明智の単独犯だ」
ピリッと佐助の顔に緊張が走る。
「それこそ意味が無い。」
「いや、人知で計るから意味が無い」
「? どゆこと?」
「明智は謀反起こすぞ」
そう言い切ると、固まる佐助の横で、杯の酒をクイッと一気に飲み干した。
「まさか、」
「明智の野心には天下取りへ基盤がない。むしろそれは、奴の趣向のおまけの様なもんだ」
佐助は押し黙り、視線を右下に向け、自分の中の情報を色々と照らし合わせている様だ。その様子を静かに眺めてから、政宗は杯を膳の上に置く。
「乱世‥‥とはいえ、勢力が固まってきた所でコレは一波乱あるぜ」
「まだ謀反があると決まったわけじゃ」
「あぁ。もちろんだ。だがもし起こったとなれば、また勢力がごっちゃになる。織田から明智が離れる‥‥コレを機に動くのは多分大猿だ。力がさらに均衡化する。そうなれば、色んな奴がしゃしゃり出てくるだろうなぁ」
“クククッ”と楽しげな声を喉の奥で鳴らす政宗に、佐助は溜息を吐く。
「右目の旦那に同情する。俺、アンタの面倒だけは絶対ヤダ。」
「こっちの方が願い下げだ。」
「で? うちの大将への布石は何?」
「別に。挨拶して何が悪い」
「ここまできて」
はぐらかす政宗に食い下がる。探れば解るだろうが、その口から聞けるのならばその方がいい。
政宗はしかたなさげに、首をぽりぽりと掻いた。
「──奥州を出る。」
その言葉の意味を理解するのに、佐助は数十秒かかった。
「はぁ!? なに、今、なんて」
「奥州出るっていってんだ」
「ま、まてまてまてまてまて、アンタが!?」
こくりと、何当たり前のをと言いたげな顔をして頷く政宗に、佐助は他人事ながら、事の重大性に混乱を隠しきれない。
「か、片倉さん承諾したの?」
「しなきゃ連れていかね。」
「承諾すると? いくらなんでも無茶苦茶だ!」
思わず声を上げた佐助に、政宗はにっこりと笑った。
「するさ。」
その自信は何処からかと、佐助は問いたくなりながらも、“他人事、他人事”と心の中で念仏のように唱えた。
「留守中、攻め落とされたらどうする」
「これから冬になるここを、簡単に落とせると思ったら心底おめでたい。小十郎以外は置いていくつもりだからまず無理だ。ま、小十郎も置いて行ってもいいが。‥‥明智は目立つ行動をしたから、次は派手に立ち回ることは出来ん。最上も今は少々忙しい。謙信は筋さえ通していれば侵略などありえん。むしろ良い盾になる。」
「北条は?」
「同盟がある。‥‥まぁ暇なく揺さぶっていたらこっちに目はいかないだろうよ」
「‥‥なんか色々布石あるみたいだね」
唇の端だけを上げ、政宗は応えない。
「奥州の若侍が、見聞を広めるためにちょっと旅にでた所で、虎はピリピリするものでもないだろ?」
「言うねぇ」
確かに、その目で動向を見る方が、対応が早くできる。だが、リスクが大きすぎる。
「‥‥旦那、将棋は王将つんだら終わりって知ってる?」
「じゃぁ、つんで見せろよ」
政宗は又ニタリと、不敵に笑む。
「丸腰の王将だ。つめるもんならつめばいい」
「‥‥」
たしかにその通りだ。この王将をつめば、ここでこの勝負は終了かもしれない。だがその後、何が起こるのか。彼が生きて行動している得と、彼が死ぬ事によっての得。
政宗は、自分の価値をよく知り、また、他者に高く売りつけることに長けていた。
そして、自らの運も。
「アンタの家臣じゃない事に感謝するよ」
「こっちの台詞だ」
張り詰めた空気の中、互いに唇の端を伸ばす。と、タイミングよく「失礼する」と言った幸村の声が、そこにあった空気を一瞬で変えた。
スルスルと襖が開いた時には、まったく違う空気となった。
「旦那、お帰り。長い厠だったねぇ」
「あ‥‥少し迷ってな。それに、片倉殿と少々立ち話をしておった」
嬉しげに語りながら胡坐を組む幸村だったが、その瞬間、空気が又妙な方向に流れたことに気付かない。
「小十郎と?」
「濁り酒を持ってくるといっておられた。まだ飲まれるのか? 政宗殿」
「夜は日が暮れないって言葉知ってるか? ‥‥に、しても何話してたんだ?」
小十郎と幸村の接点が思いつかない政宗は、興味深げに聞く。大体、酒の席で酒の肴になるのは、席を外したそいつだ。流れ的にはおかしくないのだが、あからさまに政宗の心境が解り、佐助は楽しむ事とした。
「他愛ない話でござる」
「だから、」
「いえ、また、手合わせできたらとか、」
「とか?」
「聞かせる程の話では…」
「それは聞いてから俺がきめる」
己の、気に入った対象が他に興味をそそられる事が面白くない。それでいて己の手中たるものが、他にいい顔をするのも面白くない──そんな無意識な心理が垣間見え、佐助は腹の奥底で笑いを堪える。
まったく、先刻の“将”の顔ではない。
「後は本当に‥‥不知火のような方だと」
「不知火? 海に浮かぶっていう炎か?」
話の脈絡が見えない政宗は、眉を少し顰める。佐助は、“また感覚で語っちゃったか”とは思うが、付き合いの長い分、言いたいニュアンスはつかめた。
「はい。某も見たことはないのでござるが、炎だとゆうのに、柔らかく光り、そこにありながら無い‥‥ただ静かに竜神を導く灯火だそうです。まさしくだと思いませぬか?」
自分が認めるものを、他者からも見とれられるという事は素直にうれしい。さらに、その他者が、自分が認めるものなら尚だ。
そのうれしい心境を隠すように、「ふん」と興味なさ気に政宗は相槌を打つ。
「何つまんねー話してんだか」
そう呟いた政宗を、どうしても堪えきれず佐助は緩んだ顔で見てしまった。
「! てめー、なんだその顔」
「あは。ごめーん。だってあんまりにも‥‥あははは」
「このっ」
取っ組み合う二人を、幸村はきょとんと見つめ、笑う。
「仲が良いでござるなぁ」
「a〜? お前何処見てんだ。」
「旦那、見てないで助けてよ」
「邪魔してよいのか?」
「は?」と二人が声に出した時には遅かった。幸村は「ふん」と鼻息荒く袖を捲くったかと思えば、二人の上に乗りかかる。
その後は文字通りの“混沌”。
濁酒をもって来た小十郎が、「あんたたちわっっ!」と、三人まとめての大雷を落としたのは言うまでもない‥‥。
■□■
酒のため、身体が少々熱い。冷たい風が火照った体に丁度よかった。
酔いもほどよく回り、千鳥足の一歩手前で政宗は、離れから本邸への渡り廊下を歩く。
後ろで見守る小十郎の眉間の皺は、川の字どころかそろそろ州の文字である。とりあえず、宴がおひらきとなっただけ良しとするべきか。
「政宗様、足元を。」
「んぁ?」
少し身をかがめ、手持ちの行灯で政宗の足元を照らすが、照らしたとたん、その足がピタリと止まる。
なんだか嫌な予感がして見上げると、目の据わった政宗の表情がそこにあった。
「……いかがなさいましたか?」
「真田幸村は俺のrivalだからな」
「はい」
宴の相手は好敵手である真田幸村とその家臣、猿飛佐助であった。信じられない宴の席だが、やってしまうのがこの主である。
「俺のだからな」
「はいはい」
宴の席で、この時とばかりにお互いなかなか出来ない話に花を咲かせるが、幸村にとってみれば、小十郎も早々話の出来る相手ではない。いやむしろ、刀を政宗より交ぜ合わしていない分、興味は先に立つだろうし、また彼の近辺に小十郎のようなタイプの人間がいないらしく、それが更に輪をかけて、幸村の興味をそそったのだろう。
元々子供好き……もとい、兄貴肌の小十郎が懐かれないわけもなく、政宗としてはその事実が複雑に面白くない。
別に自分の存在がぞんざいに扱われたわけでもない。終始楽しい宴だった。それに、小十郎の良さを他人が評価するというのは誇らしい限り。ましてライバルが。
だが、それがなんとも面白くない。
そして小十郎も幸村を認めている。無論、自分がライバルと認めているものを、家臣が認めないとなれば、それはそれでもっと腹立たしいが、そことは違うところで何かが面白くない。
こう色々と、理不尽な理由というのは重々承知であるが面白くない。
「わかってんだろうなぁ」
「わかっています」
溜息混じりに相槌を打って、小十郎は目がどんどん据わり始める政宗の背中を叩く。元々酔うと、クダどころかとぐろを巻き始めるのはいつもの事だが、悪酔いというよりも、
「政宗様、酔いに酔ってるでしょう?」
「酔ってねぇよ」
酔っているのは嘘ではないだろう。だが、本来の酔い以上に酔っている事は見て取れた。“酔っている”という事実に甘えて、更に意識を酔わせてると言うべきか。
──こりゃ早く寝床に届けねぇと何が起こるか‥‥
と、思った時には遅かった。
政宗が横で、にたぁ〜りと不気味な笑みを作る。
「政──むぐっ!」
突然、首に両手を引っ掛けて抱きついてきたかと思うと、無理やり唇を唇に当てつけてきた。それは色っぽいものではなく、どちらかといえば嫌がらせに近い。
「ま、まさむっ」
首にぶら下がるように抱きつかれ、更に無理やり唇を押し当ててくるものだから、小十郎は前へ後ろへとよろよろとよろめく。突っぱねようにも、片手は行灯で塞がれ、こけて大怪我させるわけにもいかないので、重さ軽減もかね、政宗の腰に手を当て抱えようとするが、こんなところを見られればひと騒動である。
しかもここは離れではなく本邸にかかる。
焦り、打開策に脳みそをフル活動させる小十郎に、ここぞとばかりに政宗は唇を舐め、本気のキスをしようとし始める。
……間違いなく嫌がらせだ。
小十郎は政宗に抱きつかれたまま、よれよれと後ろ手に、近くの部屋の障子を開き、後ろ歩きに中へと退散しようとするが、政宗&行灯死守によるバランスの問題により、入り口付近で豪快に背中から転んでしまった。
どーんっと、派手でありながら鈍い音が部屋に響く。背中にじんわりと傷みが広がった。
「つぅー‥‥」
行灯の火は大丈夫。政宗はもちろん自分が背中から転がったことで大事はない。
痛みに頭を振る間もなく顔を上げると、倒れた小十郎に守られていた政宗は、敷いている小十郎からゆっくりと身体を退かせるかと思えば「よいしょ」と脚に馬乗りになり、そこから退こうとせず、馬乗りになったまま身体を伸ばし手を伸ばして障子を閉めた。
“たんっ”という、障子の木と木が合わさる音が、いやに耳につく。
「‥‥政宗様」
「なんだ?」
ずずっと脚に跨っていた身体を、政宗は少し擦るようにして男の腹の上に移動させる。
目が据わったままにっこりと形作られる笑みは、何をしても・言っても無駄だという引導だ。
「その‥‥ですね」
「ん?」
這うように、覆いかぶさるように近づくその顔。
もう、腹をくくらねばなるまい。
「手加減の方、お願いします」
諦めたその言葉に政宗は、この上ない満面の笑みを作る。──目は据わっているが。
「その台詞、そのままそっくり返してやる」
唇は、どちらともなく引き寄せられる。
酔いの為、手加減を忘れるのはどちらになるのか。
火照る身体が冷めるのは、どうやらまだ先のようだ。
■□■
すぅっと大きく息を吸うと、ヒヤッとして、それでいて透明感のある朝の空気で肺が満たされる。奥州の空気は早朝でなくとも思いの他冷たく、心地よい。この空気に当てられれば、いつもと環境の違う野山を、駆けずりたくなる主の気持ちもわからなくはない。
朝食の後、一通りの支度をし、逸る主を追い出したはいいが、それはそれで暇になった。
──なにすっかなぁ‥‥
離れの、中庭の見える廊下で大きく背伸びをして大あくび。すると、ここの家臣達が遠くの方から、なにやらぶつぶつ言い眺めながら、こちらを見てくるので、笑顔で返す。とたん、そそくさと相手は撤退していった。
少し面白くない。
「あまり挑発はするな。ウチのもんは気が荒いのも多い」
声の方に目をやると、ここの要とも言ってよい重臣・片倉小十郎が茶等を持って立っていた。
「なに、愛想振りまいてただけだよ?」
敵ではないが味方でもない猿飛佐助の言葉に、“どうだか”と目で語り、小十郎は無言で彼らが泊まっていた部屋に入る。倣って、佐助も部屋に入った。
「幸村を追わなくてよかったのか?」
「俺もそこまで過保護じゃないよ。ちょっとした遠出ぐらい好きにさせるさ。それこそ、そっちの方こそ付いて行かなくていいの?」
「右に同じで昨日の今日だ。それに、まぁ‥‥無理はするまい。」
どこか確信を持った物言いをし、二人分の茶を注ぎ入れ、顔を上げた小十郎と視線が合うと、佐助は“にやり”となんとも言いがたい、いやらしい笑みを浮かべた。
「ははーん。‥‥昨日は“乱れた”からねぇ」
「“荒れた”と言え。“荒れた”と」
小十郎の頬が、ピクリと引きつる。
昨晩、酒が入り、濁酒が入り、二人の主が心地よくとぐろを巻き始めたところで、宴はなんとかおひらきとなったが、佐助はそれだけで済んだとは思っていない。
普段、コンタクトの取れない小十郎に対して、幸村の中に興味と、どこか慕うに近い好感があった事は言うまでもなく、また、客人として幸村を迎え入れた小十郎も、彼の持つ天然の美徳を素直に評価していることがわかった。
それをみて、竜が何を思うか。
言葉の端々と視線の配せ方で、小十郎の主であるあの竜が、機嫌とはまた別のところで、不満を募らせていたのは見て取れた。
この重臣、勘が鋭い割には、自分の事となるととんと疎い。となると竜は、
「わかった。言い換える。“荒れた”し“乱れた”んだろうねぇ」
「急須頭からかぶりてぇようだな」
脅しはするが、そこまでということは図星と取っていい。佐助はそっぽを向いて、耐え切れず笑い始めた。
佐助は、二人の微妙な関係を知る数少ない人物の一人だ。知ったのはたまたまの成り行きだが、それをネタに策を練ることは考えなかった。確かにスキャンダルではあるが、スキャンダルなど実際、瞬間的な何かにはなろうが、それ以上にはならない。そして、もう一つ加えて言うのであれば、“人の恋路を邪魔するやつは──”である。馬ならまだしも、竜に蹴られれば、どれほど佐助であったとしても、生き残れるか否か。
渋々入れた茶を差し出す小十郎と、なんとか頑張って緩む頬を引き締めようとする佐助。しかし早々と顔は元に戻らない。
「! まさかてめぇ、又覗──」
「してないしてない! 昨日は大人しくウチの旦那寝かして俺も寝た。大体、あんたらの夜事は慣れてる俺でも心臓に悪い!」
事の成り行きとはいえ、目撃してしまった時の衝撃は、世慣れしている佐助にすら久々に動揺を誘うほどだった。
あれを“情事”と称するには少し違う気がする。食うか食われるかの“攻防”。その表現の方が近いか。見ているこちらの魂まで抜き取るようなソレを。
目の前にいるこの男が、竜の右目と称されようと、竜にとっては“称されているだけ”なのだろう。そのために、あのプライドの高い竜が理性を完全に預けてまでこの男の本来を欲し、姿を暴こうとする行動。また、この男はこの男で、“竜の右目”という名で封殺されているはずの、もう一つの様が絡む姿は、夜事というには余りある。
「あれを見続けるほど俺、根性据わってない。」
もしかすると、二人の位置が逆であるならまだ何か納得もあっただろうし、多分“夜事”の範囲で納まってただろうが、アレは‥‥今思い出しただけであの時の動揺と、妙な罪悪感が湧き出てくる。
小十郎も、その複雑な表情に眉間の皺を一層深くしながらも、同じく複雑な表情になっていった。
「ま、茶化した俺が悪かったよ。これに関しては、軍配は全部竜の旦那だ」
右目ではない姿を晒しだすのは、小十郎にとって不本意この上ない。目の前で撃沈している姿を見ると、この話題はよしてやろうと佐助の仏心が囁く。
さてさて、不自然でなく、どうやって話題を転換してやろうかと思案をめぐらせる前に、昨晩の気になることを話しておけばいいかと思いつく。
「そういえばさ、竜の旦那で思い出したけど、なんか物騒な事口走ってたよ」
「物騒な事?」
ゆっくり、撃沈した面を浮上させる小十郎に、「そうそう」と相槌を打つ。
「なんかね、奥州出るとか出ないとか」
「あ〜‥‥」
先刻と比べれば、動揺はまったく無いといっていい。つまり、
「‥‥知ってたの?」
「宣言されていた。」
「意外なもんだ。落ち着いてる」
動揺した自分が馬鹿みたいだ。
「落ち着いてる‥‥というのは少し違うな。」
「諦めてる?」
「いや」
「? じゃぁ何?」
不思議そうに見つめた佐助に、小十郎は笑った。
「可能性に──賭けてみたいといったところか」
ざわりと、静かに背中が粟立った。
口の端を上げただけの、ただそれだけの笑みが、あまりにも楽しげで言葉を亡くす。
「‥‥あの主の従者だわ。あんた」
「フン。あの方はいずれ天下を取られる。先見の目と勘を、ここに留めておく必要はない。」
佐助は口笛を吹く。“言い切りやがった”と。
こんな博打を、止めるでなくあえて打たせるのは、この右目あっての竜の飛躍といえるか。
「俺ってば、あんた達の見方、甘かったかもねぇ…。ちょっと反省だわ」
いや、あんた達ではなく、右目の見方か。薄々は察し付いていたが、“重臣”という役柄で封殺しきれない、闇のようでいて、そんな穏やかなものではない何かがある。炎のような熱さではないが、なにか──
『本当に‥‥不知火のような方だと』
──‥‥あ。
自らの主の言葉に納得する。
闇ではなく、光ではない。自らを主張するわけでもなく、しかしそこに在り、消えず導く竜の灯火。
──ウチの旦那は出来る子だ。
独り納得する佐助をしげしげと見つめ、何事も無いように小十郎は先に入れた茶に口をつける。
「ま、政宗様の好きにさせるだけの話だ。策はない」
「それで、大将への根回しも黙認したってわけだ」
「根回し? ただの文だろ?」
また口の端を上げる小十郎に、“この家臣あってあの主あり”と心の中でエコーがかかる。
「その分だと、“文”とやらは沢山撒かれているようだねぇ」
「主の文にとやかく言う主義ではないんでな」
佐助も、笑む。
「あんまり仕事増やさないでよー?」
「さぁ、それは約束できん」
穏やかな、朝の風がどこからとも無く部屋に入り込んでくる。
小さな湯飲みに入っている茶で、二人は、居ない主君達に杯を上げた。
「寒いでござるな!」
馬上で吐いた息が真っ白に広がり、幸村の視界を遮る。
奥州の寒さは甲斐の寒さとは又違い、空気が張り詰めて、頬にピリピリと寒さが突き刺さるようだ。袴に厚手の羽織を着させられた時、“そんな仰々しい”と思ったが、今は佐助に感謝せざるをえない。
「もう少し時間が経てば空気も温まるがな」
そう言ってこれまた馬上から政宗が指し示す山は、朝日独特の光を浴び、昨日の夕刻の表情とはまったく違う、燃える秋の赤を見せる。
幸村は素直に感嘆の声を上げた。
住む場所がこれほど離れていれば、同じ日本とはいえ、景色や醸し出る雰囲気が違う。それでいて紅葉の赤が映える山は、装いは秋であっても、既に厳しい冬の訪れを訴えかけているようにも見えた。
見栄えのいい風景。だが、際立つ山の荒さ、馬で駆け上った坂の土壌、そしてこの環境というものからは、目に見える華やかさではなく、生きる厳しさというものを感じる。
甲斐の、厳しいながらも育む自然ではなく、どこか距離を置き、我々を突き放そうとする自然──それが、この伊達政宗の統べる地。
「ここが政宗殿の地ですか」
「そうだ。俺の地だ。──幸村」
「?」
「俺は天下を取る。」
山々を見つめ、政宗は静かに、それでいて力強く宣言する。
幸村は、それに対し“否”と唱えるわけでも無く、政宗の横顔を眺めた後、その政宗が見つめる先へと視線を移す。
「そのために奥州を少し離れる。天下を取る者がぬくぬくと引きこもってもしかたねぇからな」
「‥‥あい解った。」
宣言に疑問を投げかける事もせず、幸村は真っ直ぐ彼の言葉を受け入れる。
幸村は今のところ、直接“天下”というものを見据えているわけではないが、甲斐の虎・武田信玄の傍で、彼が見据える天下を見る。だからこそ、政宗が世迷い事を言っているとも思わないし、その志に否を唱えるつもりもない。
その隻眼は天下を見ている。
ただそれだけの事実でいい。
「次に会う時は、敵でござろうか?」
「なに寝言言ってんだ? 今も味方ではないだろう?」
「違いない」
二人、笑う。
譲らない。譲らない。
それが残酷で、それていて悲観的でなく心地よい。
「甲斐にも参られよ。一宿一飯の恩を返しますぞ」
「その時、敵でなければな」
「味方でもありますまい」
赤い赤い山間を、上昇気流に乗って鳶が舞う。
独特の高く、美しく長いひと鳴きが、山と、二人の間にこだまする。
朝日に舞うその姿を、二人は満面の笑みで見送った。
了
back←