数日後。
アダマース号は、とある南海の孤島で、水と食糧の補給をすることになった。
「本当の名前は違うが、俺たちは『エメラルドの姫君』って呼んでる」
「えめらるど……?」
「きれいな緑色の宝石のことだ。今度お宝で手に入ったら見せてやるよ」
ぽん、と頭を撫ぜられた。……この人のこういう仕草は、嫌いではない。
そうして、リオンの詩情あふれる言葉の意味を、輝夜はその島を舷側から視認したときに本当に理解した。
「すごい……! こんな場所があるんですね」
「一部の海賊だけに伝えられてる島だ。のんびりできるぞ」
空の青と海の青の狭間できらめく、緑にあふれた恵み豊かな島は、確かに宝石のように美しかった。翡翠よりもなお濃い緑の木々と、やわらかな黄灰色をした砂が、青ばかり見つめてきた輝夜たちの瞳を癒してくれる。
停戦作業ののちに、狩った野生の鳥や新鮮な果物を使っての、ぜいたくな夕食。半日の自由時間が与えられたので、輝夜もみなと浜辺で遊んだり、森の中を探索して初めて見る動植物にふれた。サボテンという摩訶不思議な植物から蒸留した甘露も味わった。
初めて尽くしに、輝夜の心臓はどきどきが止まらない。
(わたしの国とは何もかもが違う――)
(わかってはいたけど……世界には、わたしの知らないものがたくさんあるんだ)
さらに薪と新鮮な水がたくさん手にはいったため、久しぶりに海水風呂ではない風呂につかれることになり、船員たちは一様に喜んでいる。
(……わたしにはちょっと無理だけど)
と羨ましく思っていた輝夜だったが、乙女らしく身を清めたいという望みは、意外な形で叶えられることになった。
屈強な海賊たちによって、川でくんだばかりの新鮮な水が沸かされて、船長室に運びこまれてきたのだ。わざわざ。
リオンは言う。
「俺は入れるときはこうしてるんだ。風呂んときは、一人でのんびりしたいからな」
「……大変じゃないんですか?」
「いいんだよ! 船長の頼みごとを聞くのは俺らも楽しいんだから」
普段は権力をふりかざすことのない船長の唯一のわがままだそうで、力仕事を任された船員たちはやたらに張り切っていた。古傷のある強面には、リオンに対する本物の敬意と慕う想いがあふれていて、輝夜は男の絆がかもす世界にちょっと圧倒された。
「湯はこれだけでいいんすか船長!」
「なんならもっと――」
「いや、あふれても困るって。――ご苦労、後で俺のとっておきのワインをやる」
ひゃっほう! と素直に喜ぶ船員たちを見送ると、リオンは輝夜を振り返った。
「おまえが先に使え」
一瞬「え?」となり、それが湯のことだとわかると、輝夜は少したじろいだ。
「……いいんですか?」
「一緒に入りたいんなら俺は一向に構わんが?」
「そ、そういう意味じゃありません!」
色めいた冗談に、発火したみたいに赤くなった頬を押さえて、あわてて衝立の向こうに逃げこむ。もう、と少し頬をふくらませつつも礼を言うと、リオンは笑ったようだ。
ややあって、トントンと衝立を叩く音に振り返る。向こう側から声をかけられた。
「じゃ、俺は少しだけ出かけてくる」
「え? どこに――」
「大丈夫だ。鍵はしっかりかけてくし、すぐに戻ったら見張ってやるから」
輝夜ははっとなった。
そこまで気遣ってくれているとは予想外だったし、同時に妙に気恥ずかしくもなる。
「……ありがとうございます」
細い声で再び礼を告げ、さっさと済ませてしまおうと、少年海賊の衣裳を脱いでいく。
昼間の暑さが去った夕刻のこととはいえ、南方なので空気はまだ温かいから、一糸まとわぬ姿になっても寒くはなかった。しかし脱いだものを見ると、いつも少し複雑になる。下着に至るまですべて、リオンが用意してくれたものだと思うと……どうも。
(そういえば……)
自分の裸身をまじまじと見るのは、あの夜以来だと思い出す。
もちろん身体を清める機会は何度かあったのだが、いつも大急ぎに済ませていたから。
(……どこか、変わったんだろうか)
湯のたまった桶の中にしゃがみこみ、心地よい温もりに浸りながら、そっと自分の身体を見下ろしてみる。腕から胸元をたどり、なだらかな下腹部へ。そしてその下でひそやかに息づく――
「ッ……」
視線を落とした刹那、肌を愛撫する男の姿を幻視してしまい、輝夜はタブの中でびくりと身を震わせた。
――『いい子だから、おとなしく俺にまかせろ。な?』
――『意地悪じゃねえよ。……身体は正直だって言ってるんだ』
リオンの言葉が次々に甦る。彼にされたことを五感すべてで思い出し、肌がざわめく。
輝夜は、言い知れぬ恐ろしさに吐息を震えさせた。
(わたしは……もう……)
これが男のものになるということかと、今初めて痛感した気がする。
単に貞操を奪われるだけではない、取り返しのつかないことをされたという感覚。自分はもうリオンに抱かれる以前の輝夜ではなくなっていて、もう戻ることができないという単純な事実が、なぜかあの夜よりも重く感じられた。
――『おまえはもっと綺麗で強い女になれる素質を持ってる』
――『俺はそうなったおまえが見てみたいし、俺の手でそうしてやりたいと思ってる』
けれど、深い感情のこめられた言葉を思い出せば、胸の痛みがなだめられる気がして、ひどく切なくなってしまって……身も心もあの異国の海賊に振り回されている自分を、輝夜は持て余した。
淫らな記憶をどうにか振り切り、湯浴みを済ませると、これ以上余計なことを考えないようにして衣服をまとう。
衝立の陰から出ると、リオンは壁際の長椅子に腰を下ろして本を読んでいた。
「お待たせしました。お湯、どうぞ」
「おう。――輝夜、手を出せ」
唐突な命令に、反射的に従うと、手に小さな花束を押しつけられた。
百合に似た、可憐な白い花だ。
茫然としてリオンの顔を振り仰ぐと、彼は照れたのか、そっぽを向いている。
「こんな花しか生えてなかったけどな。……嫌いじゃないだろ?」
「あ……はい」
初めて見る異国の花は、澄んだ白さと、いきいきとした雰囲気が魅力的だった。そういえば海の上では、こんな花を見て心なごませる機会はなかった。
「やる。――じゃ、俺も浴びてくるから、新しいシャツ用意しといてくれよ」
「わかりました。あの……ありがとうございます」
「……おう」
あわてて感謝を伝えるのに、リオンは目をそらしたまま行ってしまう。それが妙に可愛く見えてしまう。
(やっぱり……照れてるの?)
ひとりになると、輝夜は改めて花束を見下ろした。
初姫神女さまへの捧げものとしての花はいくらでも見たことがあるが、こうして個人的に殿方から花をもらうのは初めてだ。驚きと戸惑いで支配されていた心の中に、じわりと温かいものがにじむ。
顔がおかしなくらい熱かった。なぜだか、泣きそうにさえなる。
(リオン船長は……これを、わざわざ自分で摘んできてくれたの?)
(わたしにくれるために)
他の船員に命じるわけにもいかないだろうから、それしかない。それしかないのだが、信じられないという想いが消し切れない。決して悪い気分ではないけれど複雑だ。
ひどく気恥ずかしくて、くすぐったくて、けれどうれしくて――リオンに運命を変えられた悲しみが遠のいてしまうから。許さないと言ったはずなのに、警戒心や反発が保てなくなってしまうから。
ぎゅっと目を閉じ、花束を胸に抱いたまま、輝夜はしばらく立ち尽くしていた。