少女の、ずぶ濡れだったはずの黒髪と衣服は、もうほとんど乾いていたのだ。
少なくとも彼女と同じ程度にはずぶ濡れだったリオンは、まだ金髪の先から塩味の雫がときどき落ちている状態なのに。
不可解な事態にきつく眉根を寄せたリオンは、少女の異国風の衣の
みがかれた珠玉を百余りも連ねた首飾りだ。
夢のように美しいが、リオンには単純に見惚れることができなかった。
(……まさか、この首飾りに、不思議な力があるとでも?)
奇跡じみた力を持つ秘宝の噂は、七つの海のあちこちで聞いている。
北海にある、どんな人間でも
沙漠の国に伝わる、こすればドロンと魔神が出てきて、願いを叶えてくれるランプ。
リオンの母国にも、身につけているだけで一切の傷を負わなくなる伝説の剣の
(さすがに、本物にお目にかかったのは初めてだが……)
この首飾りに何か不思議な力があるのだとしたら、こんな華奢な少女が冷たい海水に浸かっていたはずなのに死をまぬかれただけではなく、まだ手当てもしていないのに頬が血色を取り戻していることにも納得はいく。
黒真珠を思わせる美しい乙女と、その胸に抱かれた秘宝。
といえばロマンチックだし、普通の海賊ならうっとりする場面だろう。だがリオンは「普通の海賊」よりも数段性格がねじ曲がっていて、時に悲しいほど頭が回る男だった。
(こんな、船も島も見えない海の上を流れてた、綺麗な子供。しかもお宝つき)
(……尋常じゃない)
(絶対に面倒くせえ事情がありそうだな)
ひとまず少女を置いて自分の肌を拭き、白木綿のたっぷりしたシャツとズボンに着替えながら、リオンはめまぐるしく考えをめぐらせる。
着替えの最後に手をかけたのは、右目を覆う漆黒の眼帯だ。
濡れたそれを外し、急いで替えのものをつけ直そうとして、不意に手を止める。
――古傷を見たくなる衝動に、ふと駆られたのだ。
ときどき、そういうことがある。
ベッドの脇に置かれた古い鏡を覗きこんで、リオンは金色の前髪をざっくりとかき上げた。
鏡に映る左目は、海の青。
だが今さらされた右目は、血を凍らせたかのような深紅色をしている。
普通の人間にはありえないその色彩は、リオンの最大の秘密だ。腹心であり長年の友人であり兄代わりでもあるランディにさえ、見せたことはない。黒髪の副長はああ見えても典型的な海の男というか、自由な気質のくせに信心深いから。
――『おまえ……その目はなんなの』
――『悪魔よ。やはりおまえなど生むのではなかった!』
あの惨劇からもう十年以上も経つのに、まだ生々しい記憶。呪わしくて吐き気がする。
もっとも苛立たしいのは、まだ忘れられない自分自身だとしても。
「――あ……」
不意に響いた儚い声に、リオンは肩を硬直させた。
ぎくりとして振り返れば、黒髪の少女がベッドの上で身を起こして、彼を見つめている。
驚きに揺れる藍色の瞳で、リオンは色違いの双眸を彼女に見られた失態に気づき、かすかに顔をゆがめた。
痛むほど奥歯を噛み、少女の表情が怯えにゆがむことを内心覚悟したが――
「あなたは、異国の方ですか?」
予想に反して、少女はまずそんなふうに問いかけてきた。
リオンは驚き、片手でつかめてしまいそうなほど小さな顔をまじまじと見つめた。
だがいくら探っても、少女のあどけない表情には遠慮や戸惑いがあるだけで、リオンの異形の瞳に対する恐怖は見当たらない。
予想外の反応に、色違いの瞳を隠すことすら忘れて棒立ちになっていると、少女が困ったように小首を傾げた。
「あ。もしかしてわたしの言葉……通じませんか?」
「――……いや、ちゃんと通じてる」
そこで初めてリオンは、目の前の東方人の少女が、意外なほど達者にこちらの言語を話していることに気づいた。
「おまえこそ、俺の話す言葉がわかるのか」
「はい。ときどきわからない単語もありますけど、なんとか……」
「どこで習ったんだ?」
「港に南国や西方の船がくると、わたしの兄は決まって商人たちを城で歓迎して、
発音はぎこちないが、文法は教本を丸暗記したかのように正確だ。律儀な性格の片鱗がうかがえる。
ベッドの上にきちりと正座した少女は、おずおずと問いかけてきた。
「それでその、すみませんが――ここは一体どこで、あなたはどなたなのでしょう?」
「母港をログレス王国に持つ帆船の中、と言ったら理解できるか? 俺は船長のリオン」
「ログレス王国は――西の島国ですね? あなたは、きゃぷてん、リオン……?」
「リオンでいい。皆にもそう呼ばせてる。おまえは何者だ?」
「わたしは輝夜。
名乗りはしたが、それだけでは二人とも相手の立場をちゃんと理解したとは言えなかったから、その後はなんとなく交互に質問する流れになった。予想した通り、少女――輝夜はややこしい背景を背負っていたが、島国の片隅での小競り合い如きなら海賊稼業に悪影響を及ぼすとは思えないので、とりあえずよしとする。
リオンが海賊だと告げた時にはさすがに警戒の色を見せたが、女子供から奪う気はないと補足してやると、輝夜はほっと胸を撫で下ろした。
(無防備な奴だな)
仕草のはしばしに香るそれとない気品や表情の素直さに、育ちのよさが出ていることもリオンは認めた。小国とはいえ、領主の姫というのは本当らしい。
あきれるほど真面目で純粋そうな娘だ。
それでいて、秋の桃のような頬の線や、練絹を思わせる黒髪のしっとりとした流れには、思わず手を伸ばしてみたくなる何かがある。瞳が大きいせいで幼く見えるだけで、そこまでお子様ではないのかもしれない。
(そういえば、東方人は俺たちより若く見えやすいっていうな)
(十五……はまずいが、十六より上なら)
とりとめない思考の途中で、愕然とする。十六歳以上ならなんだというんだ俺は。
ベッドになんて座って話をするから、しばらく陸に上がってないから、こんな信じられないくらいの勢いで心が傾いて――いや、違う。
(俺の目を見たくせに、こいつが少しも怖がらないせいだ)
自覚してしまうと余計にいたたまれず、リオンは少女の澄んだ瞳から、さりげなく目をそらした。理性をかき集めて何食わぬ顔を装い、話を続ける。