【逢夢辻】〜22〜
「欲しい」
即答した兄さんに抱きつきたくなったなんて‥‥ちょっと言えない。
黒龍の逆鱗を取りに行くということは、清盛を相手に戦わなきゃならないってことだ。兄さんは何も言わないけど、それは‥‥あの絶望の中で兄さんを救い上げてくれた人に刃を向けるということ。
たぶん同じことを俺がやるより、ずっとキツイんだろう。
兄さんは、義理堅い人だから。
それでも「やめていい」とは言えない。それがどんなにワガママなことだとしても、俺は平家に兄さんをくれてやる気にはならない。
だから、忘れて。
全てが終わってからなら、いくらでも恨み言は聞いてやるから。今は苦しい現実も越えなきゃならない壁も忘れて、俺を抱いていて。
甘えるように後ろから抱かれて、泣きそうになる。
愛しくて、泣きそうになる。
兄さんの弱さは、甘い毒のようだ‥‥。
「譲‥‥大丈夫か?」
机に凭れたまま余韻に浸っていると、不安げな声に抱き上げられて、そのまま机に乗せられた。
いつまでも変わることのない、放課後の景色。
時が止まったままの夕暮れの教室。
いつもはそれを意識することもないけど‥‥オレンジの光に包まれる兄さんは、なんだかとても綺麗で、急に恥ずかしくなってくる。
俺は‥‥兄さんの目に、どんな風に映っているのかと。
「兄さんは、俺が好き?」
「ああ」
「どうして?‥‥綺麗でもなきゃ可愛くもない‥‥」
兄さんには、可愛い女の子が似合うよ。‥‥先輩みたいな、フワフワで柔らかい女の子が。
別に、愛情を確認しようとか、安心しようとか、そういうことを思ってたワケじゃない。本当にそう思ったんだ。だから‥‥笑ってくれれば良かったのに。
「あのな‥‥‥お前以上に可愛い奴も、綺麗なものも、俺は見たことがないぜ?」
そう言いながら椅子に腰掛けて、投げ出した太股に甘えてくる。
「お前以外、抱きたいと思わない俺は‥‥オカシイのか?」
オカシイんじゃないか、やっぱり。
少し笑いながら、それじゃあ俺は兄さん以外の人肌を求めるのかと聞かれれば、それがどんなに可愛い人でも‥‥たとえば憧れていた春日先輩でも、イラナイと、思う。
なんだかそんな会話にドキドキして、兄さんの頭が乗ってるのに‥‥俺は‥‥。
「なんで急にモジモジすんだよ。俺なんてさっきから立ちっぱなしだぜ?」
笑いながら、唇で包まれる。
「あ‥‥っ」
ゆっくりと見せつけるように舐め上げながら、感じてる俺を見つめて嬉しそうに笑ったり、空いた両手を使って扱いたり、揉んだり‥‥。
「やあ‥‥‥‥」
頭が変になりそうだ。
ここは夢の世界。だけど目に入るのは見慣れた教室で‥‥そうだ、無事に帰れば、こんな教室で授業を受けたりするはずなのに。
「んんっ‥‥兄さん、ダメ‥‥ッ」
「ばぁか、止まれるかよ」
恥ずかしくて。こんな所で感じて、それでも本当は「やめないで」とか思ってる自分が、恥ずかしくて。気持ちを誤魔化すように頭を抱きしめながら‥‥白濁した欲を‥‥兄さんの口に、吐き出してしまった‥‥‥。
目が覚めて、溜息を吐く。
ここに兄さんが居なくて良かったと思ったのは、初めてかもしれない。
頭を冷やすためにブラブラと歩いていたら予想外の人影。
まだ朝というには早すぎる時間だというのに、弁慶さんが月を眺めてボンヤリと立ち尽くしていた。
やっぱりどこか様子が変だ。
黒龍の逆鱗についての話をした後からずっと、思い詰めるような瞳で歩を進めていた。
かける言葉も見つからないままそっと近づくと、既に気配に気付いていたらしい弁慶さんが、振り向きもせずに語り始めた。
「譲くんは、この世界へ来たことを後悔していますか」
後悔?
唐突な質問に戸惑いながら、考える。
兄さんの苦労を思えば、来るべきじゃなかったんだろう。だけど‥‥たぶんあのまま平和に暮らしていれば、兄さんとの距離は縮まることがなく、俺は見当違いの嫉妬で狂いながら、あの人を苦しめ続けていたわけで‥‥。
それに、先輩が白龍の神子にならなければ、きっと九郎さんも救えていない。
自分がこの世界に在ることが、何かの縁で何かの役に立っているのなら‥‥それは、後悔をすべきことじゃないような気がする。
「後悔はしていません」
悔やむべきことは沢山ある。それはこの世界に来たから気付いた自分の業なのだから、むしろ感謝すべきだろうとすら思う。
「そう‥‥ですか」
月の光に透けてしまいそうだった儚い姿は、いつもの弁慶さんに戻って、座りませんかと笑いかけてくる。不思議な引力を感じて誘われるまま素直に従うと、独り言のような昔語りが始まった。
それは熊野の戦から始まる、長い長い旅の話。
退廃した京の町。作物も実を結ばず、病の蔓延する、治安の悪い京の町。それは、自分が作り出したものなのだと語る弁慶さんは、単純な慰めや救いを求めているわけじゃなさそうだった。だから何も言わず、曖昧な相槌を打つ。
「それらは全て『応龍の不在』が及ぼした影響なんですよ。白龍の対となる黒龍を失ってしまったことが、今の酷い有様を作り出している‥‥そこまではすぐに解ったのですが」
比叡山で学びながら新たな黒龍が生じない理由を探っても真相には辿り着けず、ただそれが清盛の力と無関係でないことだけは予想できたから、敵対する勢力として好都合な源氏側について様子を見ていたのだと、乾いた声で笑う。
「まさか、逆鱗が‥‥黒龍が、怨霊の元にされていたなんて」
全ては自分の罪だと言い切るけれど、俺には、そこまで思い詰めるほどの罪が弁慶さんにあるとは思えなかった。
「それなら、取り返しましょう」
こんなに優しい人が、心を凍らせたまま生きているのはおかしい。
それが弁慶さんの過ちだというのなら、そのせいで辛い戦の中に自分を置いて、罪を責め続けながら地獄の底を這い回るように生きてきたというのなら。
「弁慶さんの光を取り返しましょう」
黒龍の逆鱗は清盛が持っている。それを取り戻して京の空へと返すことができたなら‥‥凍り付いた心も、月が満ちるように光を取り戻すだろう。
「譲くん?」
「どのみち、あれは壊してしまわなくてはならないんですから」
それできっと救われる。今は落ち込んでいる場合じゃない。
「そう‥‥ですね」
いつもあれほど毅然としていた弁慶さんが、弱々しく肩に凭れてきた。あまりにも意外な姿に固まっていると‥‥静かに、息をするように、綺麗な雫が落ちた。
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