自分の中に芽生えたどす黒い欲が君を食らいつくす前に、私は君の前から消えねばならない。
この黒い闇は私の心そのもの。鬼の術など切っ掛けにすぎぬと、肌で感じている。
これは私自身の闇だ。
腕を広げ、ただその身を捧げんとする綺麗な君を、飲み込もうとする……私の本性だ。
もう愛などではない。この闇は何も生まない、ただの怨念だ。
君に触れることはできない。君を抱くことはできない。
私は私を殺す。
それ以外に、この身を愛と呼ぶ手段はないのだから。
愛している。
愛している。
君を、ただ愛している。……鷹通。
鷹通…。
鬼の女は私に術をかけると、してやったりとでも言いたげに去っていった。
虚しく稀薄な交わりで、すっかり白けてしまった。おかげで、己のことに手一杯だった自分が見えてくる。
鷹通は……落ち着いただろうか。
切なく震える背中を抱きしめてやればよかった。どうせ死ぬのならば、自分の意志など殺して布越しにでも安らぎをあげればよかった。
心の泥を食らい育つこの闇は、鷹通を想うと侵食を止める。この穢れた身一つ食らえずに、育つことを諦めてしまう。まったく中途半端で情けない話だが。
……確かあの鬼は「日の光を浴びれば質量ごと消え去る」と告げた。
自分の足先すら見えぬ、この闇の中で、あと数刻。
そこで消え去ることが叶うのなら、最期に君を想う……その瞳、その声、その肌……そうだ。君に出逢えたのだから……君と結んだのだから、私の生は無駄なものではなかった。もう、生まれ変わる必要もない。何度繰り返しても、これ以上に幸せな生など訪れようはずもない。
流転の輪から、外れてしまおう。
そう決めて息を付くと、また闇が濃くなったような気がした。
まだ欲は消えない。まだ諦めきれずにいる。もう一度抱きたい。もう一度……触れたい。
早く、消えてしまえばいいのに。
「友雅殿」
凛とした声が響く。
幻聴と笑うには、あまりにも強い意志。あまりにも……強い、情の熱。
「たか……み…ち…?」
そんなはずがない。これは私の闇。
なのにどうして、囚われることもなく軽やかなまでに駆け寄る姿があるのか。
その指先が、惑いもせずに頬に触れる。
「駄目だ……触れては、いけない…」
「どうしてですか」
これは、鷹通か?
執拗に絡まる指先が、あの鬼を思わせるほど……しかし、あれほど感じた嫌悪感は、皆無だ。
「鷹通……?」
私を捉える呪いの鎖を、その短剣で落としていく。
手首に巻き付くそれを残して全て落としきると、身体に残った布地を引きちぎる。
「鷹、通…?」
なんだ、この、激しさは。
不機嫌な顔。
眉根に皺を寄せて肌を滑る熱は、確かに見知ったものなのに。
「もしかして…、怒っているのかい?」
そこではじめて目が合った。
一瞬逃げ腰になるほどの、凍りついた視線。
「言葉で説明する義務はありません。いくらでも教えて差し上げますから、黙って受けなさい」
沸点を知らないと言われるほどに柔和な性格。しかしこういう男が切れると、手が付けられないのだと……。
「何を、…する、つもりだい?」
どうしよう。楽しい。怯えている自分が、楽しい。
「黙っていないと舌を噛みますよ」
つい今し方まで、君に触れることもなく死んでいくつもりだったのに。
「舌を噛むようなことを、するんだ?」
腹の底からフツフツと笑いが込み上げてくる。
「貴方はあまりにも物を知りません。………知りなさい」
冷たく吐き捨てる声に、驚くほどの熱がこもっているのを感じて、眩暈がする。
いい加減な私にお灸を据えるように、胸に歯を立てる。
「つぅ…っ」
痛みと共に身体を駆け回るのは、紛うことなき快楽。
他でもない、この人から受ける痛み。受ける熱。それを幸せと言わずに恋などない。
闇の中に膝をつく。
相変わらず底辺を漂う煙のようなものが身体を覆うけれど……もう、消える気はしない。
消えてもかまわない。
「鷹通……なぜこんな所に来たのだい。君が死んでしまっては、京など救えないではないか」
笑いながら聞くと、やれやれというように溜息をついて乱れた髪を無造作にかき上げる。
気付いている様子もないが、今の君は壮絶な色香に包まれているのだよ、鷹通。私は完全にあてられて、息を付くことすら難しい。
「くだらない事を仰らないでください。それより覚悟は宜しいのですか」
怒っているのだから、確認など取らなくともよいのに。
「覚悟なんてしていないよ。全て捨てたのだから……君が望むようにしたらいい」
「……すべて、捨てた?」
ほら、また絶対零度の視線。
こんな鷹通は見たことがない。きっとこの先も、見ることは叶わないのだろう。
「私も捨てたと仰いますか」
「ああ。捨てたよ」
というより、君を捨てたら何もなくなったのだが。
感情に乏しいような静かな湖面が、見る見るうちに溢れ出す。
瞬きもせずに泣いた君の涙は、きっと甘いのだろう。
とろけるように、甘いのだろう。
「捨てたんだよ。振り払って此処まで来たのに。全て忘れるための闇に紛れたというのに。………無理だと気付いた。死にきるまでは無理なんだよ、鷹通」
手首に残った鎖で、胸の傷を掻きむしる。
腕に乗った鮮血を舐め取ると、やはり少し甘い気がした。
「この血が、君を求めている。君に触れたいと騒いで暴れて温度を上げるから、私は君を忘れられない。……忘れられないんだ、…鷹通」
無様に愛を乞う自分が滑稽で、笑い出しそうになる。
鷹通は大きく舌打ちをしてから止めていた動きを再開した。背を滑る指先に悶えて、首筋を覆う唇に鳴かされて、最後は蹴り飛ばすようにして身体を組み敷かれた。
「言い訳は終わりですか。……私は貴方が憎い。こんなに愛しい人を殺そうとした貴方が、許せないほど憎い。先程までは、どんな事情があったのかと心配もしていましたが、気に掛けるほどでもないようです。私は死ぬまで貴方を許しません。一生……この手を弛めることはありませんから、覚悟なさってください」
高らかに宣言したあとで、沈みこむ契り。
君の欲望。
声が出なかったのは、ただ、それを幸せだと思ったからだ。
振り向いて、震えるばかりの身体を抱いてやりたい。背に落ちる涙を拭いたい。
不安で不安で不安で仕方なかったのだと叫んでいる心に、口づけたい。
綺麗な愛など無いのだ。何処にも、無いのだ。
宝玉は泥にまみれても、その輝きを失わない。
月光は雲の向こうで輝き続ける。
汚物のような欲望の中、己から逃げたい程の心を越えて其処に在る、ただ純粋な想い。それを『美しいもの』というのなら。
それは、私の中にも確かに存在している。
欲を吐きだして離れた身体を追い、その首を自由にならぬ腕で引き寄せる。
「捕まえた」
間近に見つめると、まだ怒ってるという顔をして明後日の方向を見る。
「何故そんなに楽しそうなんですか」
「君が迎えに来てくれたからではないかな」
「私を捨てたのではないのですかっ」
「捨てきれなかったと言ったじゃないか」
「………後悔、なさったのですか?」
「したさ。あたりまえだろう?……せめて泣いている君を抱いてから来ればよかったと」
「…っ!?」
息を飲んだ喉に、君の悲鳴が消える。
「見て………おられたのですか……」
何を驚いているのだろう。
「ああ……。あまり涙が綺麗だったのでね。こんな私では君に申し訳なく思えて、出てきたのだが。其処で鬼に逢って…………ん、……」
いきなり口元を覆った感覚が不思議で、身じろぎをする。
「まったく……貴方という人は…」
呆れかえったような声が、愛に溢れている。
「どうしたのだい?…機嫌は直ったのかい」
「教えてあげません」
ふうん……まあいい。あとでゆっくり聞き出すことにしよう。
「ところでどうやって此処に入ってきたのか、そろそろ教えてもらってもいいかな」
「ああっ」
大急ぎで身支度をする鷹通から、軽い羽織を投げられて、破れた着物の上に被った所で………見ていたのかと思うほど、素敵な間合いで………泰明殿の印の中に、落ちた。
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見てたのかなー。見てたのかなー。見ーてーたーのーかーなー。 |