鬼の女に同情したわけではない。
ただ一途に縋る姿を自分に重ねて苦しくなっただけだ。
貴方の手を取るまで、こんな気持ちは知らなかった。何も知らなかった頃なら、もう少し冷静に受け止められたのかもしれない。
可哀想だと思う。あんな風に捨てられたら可哀想だと、身が凍る。
鬼の女に同情したわけではない。
打ち捨てられたその姿に、自分の抱える不安を投影して震えていたのだ。
まさか………まさか、その姿を認める視線が在ったとは知らず。
私の涙などに傷つく人が在るなどと、想像もせずに。
暗闇の中で気持ちが引くのを待っていた。
いつの間にか夜も更けていることに気付き、少し物悲しい気持ちになる。
今日は、あの人は来ないのだろう。
約束をしていたわけでもないのだから仕方がないが…。
「逢いたかった、なぁ…」
子供のように呟いてみる。
自分から人を求めることなんて、物心着いた時からこちら、記憶にない。
まったく。変われば変わるものだ。
微笑ましいばかりの自分の変化に笑って、床に身体を伸ばした時。
にわかに屋敷が騒がしくなった。
「鷹通さん、鷹通さん…っ」
神子殿の声?
慌てて其方に向かうと、人払いの声を忠実に守っていた屋敷の者が、泰明殿の袖に縋っているところだった。
「どうかしましたか」
その場の全員に響くように声を掛けながら、走り寄る。
「鷹通さんっ」
神子殿は倒れそうなほどの顔色で、安堵の表情を浮かべた。
傍にいる連れが泰明殿だけというのも、少し不自然な気がした。
「とにかく、あがってください」
途轍もなく嫌な予感がした。
「………友雅殿が」
泰明殿が静かな口調で語る話は、俄に信じがたい内容だった。
しかし信じないというわけにはいかない。
状況からも表情からも、この二人の人柄からも、疑う要素は微塵もない。
「そうだ。鬼による術と思われるが……」
白虎との戦いを迎えた場所近く、誰も訪れることのない深い場所で、得体の知れない闇が生まれていると……そしてその中心に据えられた者が、友雅殿だと。
「そんな……まさか…」
信じていないわけではない。信じたくないのだ。
「事実だ」
その異変に気付いた泰明殿が、神子殿を訪ねた。
現場では今、安部晴明殿が出来うる限りの制御を試みているという。
深夜の出来事だったことと、すぐに被害が広がる気配のないこと。そしてあまりにも異質な事件への混乱を考えて、まっすぐに此処へ来たのだと。
「しかし何故、私の所へ…」
苦しく掠れた声を絞り出すと、神子殿がギュッと手を握った。
「鷹通さんの助けが必要だからです」
私の、助け…?
「しかし神子、それは危険すぎると何度も言った」
「じゃあ、試すこともなく、友雅さんを殺すって言うの?」
友雅殿を、殺す…?
「これで鷹通まで亡くなれば、鬼に対抗する手段など無いぞ」
「泰明さんっ」
神子殿は私の手を離し、泣きながら泰明殿の肩を揺すった。
「泰明さん………これが私なら、あなたはどうしますか」
嗚咽混じりの声に、泰明殿の表情が凍る。
「龍神の神子となれば話は別だ。お前がいなくなれば京は穢れにおちる」
「じゃあっ……、戦いが終わって、私が神子でなくなってからなら、どうなんですか。見捨てなければ、それこそ京を道連れに破滅するのなら……何もせずに、捨てますか」
「そんな………」
混乱して力無く首を振る泰明殿を、ぼんやりと見ていた。いつも冷静な無表情を通すこの方が、こんな表情をするとは……想像したこともない。
「どうなんですか、泰明さんっ」
縋り付くように泣き喚く神子殿の涙が、胸に刺さる。
友雅殿が、死ぬ…?
「わ……からない」
「誰にだってわかりませんよ。答えなんか無いんだから、わかるはずがないんです。考えてください、今すぐ考えてください、泰明さんっ」
「神子が死ぬ…くらいなら……、私が死ぬ」
私が死ぬ。
それが、この方達が此処へ向かった理由なのか。
「私の命を差し出せば、友雅殿は助かるかもしれないのですね」
二人の肩に置いた手が、怯えるような震えを伝えてくる。
「いや……駄目だ、危険だ…」
肩を掴む神子殿の手に縋るように、泰明殿が顔を伏せた。
取り乱していたはずの神子殿は、そんな彼を抱えるようにしながら、強い眼差しで頷いた。
「鷹通さん。…どうしますか」
「迷う要素が見当たりませんね」
助からないと決まっているのなら、血反吐を撒き散らしながらでも方法を探して走り回るだろう。
「詳しくお聞かせ下さい」
何も持たぬと思っていた私に、ここで差し出す命があったことを、感謝する。
賭けでも綱渡りでもよい。
可能性など低くともよい。
貴方のために出来ることが残されていたと、それだけでよいのだ。
「それではその闇は、鬼の作るものではないと仰るのですね?」
「そうだ。おそらく核になっているのは鬼の術と思われるが、あれは友雅自身が吐き出している闇なのだろうと、お師匠は言った」
「同じ五行を持つ私ならば、その中に入れるかもしれないと」
「違う。同じ魂を持つ者ならばと、言ったのだ」
同じ魂……?
「なんだ、気付いていなかったのか」
泰明殿が、驚くほど優しく笑った。
「友雅は気付いていたようだぞ。お前との縁を手繰るように、いつも傍に在ったではないか」
友雅殿と、同じ魂………私が?
「鷹通さん…」
呆然とした私を、神子殿の声が呼び戻す。
「ええ…ああ、すぐに向かいましょう。案内をお願いできますか」
「承知した。……鷹通、迷いはないか」
「ございません」
心は静かな湖面のように澄み渡っていた。
「いい目だ。お前に賭けよう」
神子殿の手をとり早足で向かう後ろ姿を追いながら、穏やかな笑みがこぼれる。
『置いていかないでおくれ。私の対は、君しかいないのだから』
『君の存在が、私の心そのものなのだよ、鷹通』
『愛しくて泣けてしまう』
友雅殿の声が耳の奥にある。
『私の愛しい人……』
友雅殿。何をやっておいでですか。
とても強かな貴方が、実はとても脆い部分をお持ちだとは気付いておりました。
ですが。
おぼろ月の中で掻き消えそうだった貴方を、私は迎えに行ったでしょう。
月夜の中で互いに溶け合ったでしょう。
……友雅殿。消えてしまうなんて許しませんよ。
私の対は、貴方しかいないのですから。
「ここだ、鷹通」
泰明殿が避けた視界の中に、丸く小さな闇が浮かぶ。
月の光を拒むように歪む闇が。
「いらしたか、藤原鷹通殿。……この闇と戦う必要はない。どうやらこれ以上の大きさに膨らむつもりもないらしい。あと数刻もすれば陽の光に溶けて、消えて無くなるのだろう」
「助ける手段は……」
「なに。この者が闇を作ることをやめればいいのだ。鬼の術はキッカケに過ぎぬし、こちらから手の届く範囲で、それは解いた。……目を覚ませと、力一杯殴って差し上げればよい」
気軽に笑う晴明殿は、しかし闇を解く作業で灼いた指先を隠すように握りしめている。
「手のかかる対で申し訳ありません」
「なんのことやら。…早く行かれよ、夜が明けては二人とも儚くなってしまうぞ」
晴明殿と泰明殿の印が重なる。
「鷹通さん。友雅さんを引きずり出して……私にも一発殴らせてくださいね」
「承知しましたよ、神子殿。石でも握ってお待ち下さい」
友雅殿。貴方の元へ参ります。
その弱く脆い心に、私から逃げる術はないのだと教えてさしあげます。
貴方を不安にさせたのは、きっと私の強さなのでしょう。
殻も鎧も信念も……全てを捨てて参ります。私のこの、むきだしの不安と欲望に触れて怯えてください。貴方を想う心に清らかな響きなど無いのだと、知ってください。
貴方に嫌われてもいい。
私は、貴方を取り戻します。
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ま。不安はお互いにあるのでしょう。本気になると怖い。それはどんなに恋に長けた人でも同じだし、この場合の友雅や鷹通のような人には死ぬより痛いものかと。 |