「つあ‥‥‥‥っ」
神子殿と手を触れ合わせた刹那、燃えるような、凍てつくような、壮絶な感覚が体内に流れ込んできた。
頭の中で黒い影が暴れる。
「あ、ああああああ‥‥‥」
割れるような激しい痛みの中に浮かぶのは、懐かしい灯り。
それは海を行く舟灯りのような幻想的なものではなく、どこか無機質で機械的な美しさを持つ‥‥そう、あれは街路樹を飾るイルミネーション。
そして隣で手を取る、優しい存在。
『幸鷹』
私を呼ぶ人の名前を思い出せない。いや、そもそも名前でなど呼んだ覚えがない。パパ。ママ。そう呼ぶことが多かったようにも思う。幼さのせいばかりでなく、それは習慣として。
心配をかけただろうか。
すっかり忘れ去っていたと知れば嘆くだろうか。
『いつでも君の幸せを祈っているよ‥‥』
耳の奥に残る、口癖のようなそれ。
まだ幼かった私が留学を決めた時も、動揺を見せることもなく背中を押してくれた声。
その直後。
突然に襲った、大地の軸がブレるような感覚。
思えばあの瞬間に、この時空へと落とされたのだ。意図は解らない。意味など無いのかもしれない。右も左も解らぬ私を抱きしめてくれたのは‥‥。
『幸鷹っ』
この身に降りかかった事件のトラウマに、毎夜泣き崩れた私を抱く、母の腕。
どれほどの心配をかけたか。
自分ではそれなりに現実を受け止めているつもりでいたが、理性で抑えが効くのは日のあるうちだけ。そうだ‥‥だから記憶を。私を苦しめる酷い事件の記憶を封じた‥‥京の父と母は、とにかく優しい人で、少しばかり心配性で。
『貴方がしたいようになさい。いつでも見守っているから』
愛を疑うことなど無かった。
まやかしの生い立ちを疑う余地もないほど、惜しみない愛情を注いでくれた人。
痛みの中で目を開く。
気遣わしげな神子殿の眼差しに、僅かに笑い返して、もう一度目を伏せる。
そこに浮かぶのは鮮やかな海の色。
異国の海を思わせる、エメラルドグリーンの湖面‥‥翡翠色の瞳。
何を考えているのかは解らない。
まるでこの世界へと運んだ神の御手のように、あれの言動は理解の範疇を越えている。
だが、それでも。
私は翡翠の全てを信じると決めたのだ。
恩に報いたい気持ちがあるのならば、まずはこの京を救うことだろう。
末法の世など、認めぬ。
淀みない優しさが涙に変わるような世界を許してはいけない。
神子殿が、その為に舞い降りたのならば、私の存在にも意味があるのだと信じよう。
私は白虎に選ばれた、神子殿の守護者なのだから。
夜分遅くに連れ出したことを詫びながら、神子殿を屋敷へと送り届けて、その足であの場所へと向かった。