「僕は見失っていた」
飛び起きた。
鼓動は早く、全身にびっしりと、手のひらの指先まで汗をかいていた。反射だけで額の汗をぬぐった。
「今のは……、」
夢を見ていた。ただし、妙に生々しい夢だった。僕は普段あまり夢を見ない。たまに見る時はたしかに悪夢ばかりだ。けれどそれにしたって生々しかった。鎌倉にいた時に幾度か見た清盛の夢とは全く別の生々しさ。
夢の中で僕は一人泣いていた。望美さんやヒノエ、他の皆は僕を残して遠くで嘆いていた。
僕は嗚咽を漏らさず泣いていた。声を失っていた。あまりにも大切な物を、僕が見殺しにしてしまっていた。
夢のはじまりは、九郎の笑顔だったのに。
『院が官位をくださることになった』
現実と変わらぬ、触れれば熱を感じそうな温かな笑顔だった。
『ようやく君の働きが認められたんですね』
僕は喜んでいた。喜ばないわけがなかった。九郎が源氏の大将、鎌倉殿の名代と成った時と同じく誇らしかった。自分の事より嬉しかった。やっと九郎の努力が、彼のまっすぐな心根が認められたんだと思った。
それが鎌倉方だけでなく、院にまで認められたとなればなおさらで、夢の中の僕は、まるで……やはり生々しく喜んでいた。
(これは、夢だ)
踏みしめた砂の感触までも鮮やかに思い出せそうな、喜ぶ九郎ととりあった手の温度を大事にするように両手で包んでしまうほどに鮮明で、
鎌倉へ報告に向かった九郎が戻って来ないことを案じた焦燥も、
その後の「処断」を知った僕を襲った悲しみも、
官位を貰うと喜んだ九郎を……鎌倉はどこか冷たいと思っていたのに、知っていたのに、なのに僕は止めもしなかった、その絶望もまるで現実なのに、
(でも、夢だ)
起きてしまえば、ああ、夢だったんだと思えた。そもそも官位を戴くなどという話すらでていないのだ、夢でしかなかった。それでももしかしたら僕があまりの事実に錯乱してしまって、すべてを忘れてしまって、そう思い込んでいるだけなのかもしれない、という可能性を否定できなかった。
けれど、外から聞こえた明るい声が、やはり夢は夢だと知らせてくれた。
「九郎さん、おはようございます」
「珍しいな、こんなに早起きか」
(聞こえる)
僕を起こしたのは、九郎と望美さんが朝の鍛錬をはじめた声。
「よし、行くぞ望美、まずは呼吸を整える」
(君の声が、)
『弁慶……俺は兄上に会いに行ってくる。会って、兄上に逆らうつもりはないことをお伝えしてくる』
(聞こえる)
声が、九郎の声が、僕の脳裏に焼き付いて離れなかった。
夢の中の僕は激しく後悔していた。
(僕は何をしたかったんだろう)
夢の中で僕は、失った悲しみ以上の空しさを感じていた。
(僕は九郎と共に何を見たかったのだろう)
意識がしっかりとしてゆくほどにそれは増していった。
京で出会って、平泉へ行って、兄の役に立ちたいと鎌倉までやってきて、そしてまた京に戻って。
僕が九郎と行動を共にしたのは、共にしたいと思った理由は……数多すぎて最早、言葉にすることはできなかったけれど、
それでも、こんな九郎の無念さをこの胸に抱く為ではなかったはずだ。
断じてなかったはずだ。
僕は頭を大きく振った。髪が大きく触れた。鬱陶しかったけれど、重さで目が覚めた。
そのまま立ち上がった。
『僕は何を見ていたんだろう』
夢の終わり、立ったまま泣いていた僕の悲しみがそのまま被さってきた。
(ならば都合がいい)
こうしているうちにはあの残像を忘れずにいられるなら、それでよかった。
僕は忘れていたのだ。僕がどれだけ九郎を大事に思っていたのかを。
庭を見下ろせば、やはり、きちんと生きた九郎がそこにいた。
「九郎!」
呼んでしまった。すると九郎が髪と衣を翻しながら僕を仰ぎ見た。
「なんだ弁慶、お前まで早いのか。今日は雨でも降るかもな」
「もーっ、九郎さんまだ言うんですか? 私や弁慶さんだってたまには早起きくらいします。ね!」
「ええ、そうです。そうですよ、九郎」
望美さんの笑顔は相変わらず可憐で、僕はこれが夢ではないと確信した。何故か確信できた。
「……どうした? 顔色が悪いが」
「いえ、大丈夫です」
「ならいいが……」
それでも、確信してもなお、僕は歩みを進めずにはいられなかった。
「九郎」
縁から手招きすれば、当たり前だが彼は普段と同じ振る舞いで僕に寄った。その九郎の手を握った。温かかった。脈打っていた。生きていた。
「ここは、鎌倉ですよね?」
「当たり前だろう。……どうした?」
「僕たちは、平家が鎌倉を狙っていると言う噂を聞いて……君は、兄上を守るためにここに来た、そうですよね」
「ああそうだ。間違いない」
何を言っているんだ、という顔をしながらも九郎は律儀に僕の質問に答えた。ヒノエといい、僕の周りはどうしてこうも素直な人が集まっているのだろう。
「いえ、すみません。少し変な夢を見て」
「夢? それはどういう」
「いえ、夢ですから……ひどい夢、でしたけど」
夢、と言葉に紡いだところで、僕はいよいよあの残像は夢なのだと得心することができた。やっと九郎の手を離して望美さんに笑顔を向けた。
「ああ、見苦しい恰好で君の前に出てきてしまってすみませんでした。着替えてきますね。では望美さん、九郎も、また後で」
「はい……」
「……」
二人とも、何か言いたげに僕を見ていた。それでも奥の部屋へ戻った僕を追いかけはしなかった。
僕は朝日に柔らかく照らされる景時の屋敷の壁を…罪無きそれを睨みつけながら歩いた。
(よかった)
僕は噛みしめた。
(本当によかった)
今まで僕は何度も失敗を重ねてきた。龍脈は蘇らなかった。厳島で平家に負けた。懲りていた、し、もう繰り返しすぎてある程度、やむを得ないと割り切る策を取りもした。
けれどそれらの失敗は僕の行いの結果で僕だけを取り巻くものであった。
だからかもしれない、九郎があんな風に、戦と何ら関わりない死に方をするなんてことを、僕は考えたことがなかった。
戦場を駆ける九郎は強かった。それでも命を落とすことのないよう、僕だけでなく景時や望美さん、リズ先生なども加わって万全を敷くようにしていた。
それもあって、彼が命を落とすことなど、真剣に、こんなにも身近に考えたことはなかったのだ。
「僕は……」
噛みしめざるを得なかった。夢の恐怖を。震える身を抱きしめた。寒かった。だけど頭だけが熱を持っていた。
ああ、泣いているんだと気付いたのはしばらくの後だった。それがまた夢を呼びもどし、波間に漂う小舟のように僕はたゆたった。
そうしているうちに足音が近づいてきた。九郎だ、とすぐに分かった。慌てて顔を拭った。
「弁慶!」
と同時に彼が飛び込んできた。
(どうしてそうやって君は)
「本当に大丈夫か?」
「九郎…。ええ。平気です。あまりに現実味のある夢を見たので、少し混乱しただけです。もう平気ですよ」
(君は僕に優しすぎる)
僕は九郎に何もしてあげられないのに。
九郎は僕を見、心配だと言わんばかりに近づいてきた。
「そうか? 珍しいな。その、お前が夢を見る話なんてあまり聞いたことがない」
「そうですね。君ほどは見ないかな。だから少し驚いてしまったんですよ」
「具合でも悪いんじゃないか? お前いつも具合悪くても平気な顔してる」
ぺたり、と九郎は僕の額に手を乗せた。
「酷いな。君こそ頭痛をいつも隠してばかりだ」
「俺のはあれは、持病みたいなものだし、毎度大げさに寝込んでたらいくら時間があってもたりん……んー、熱もなさそうだな。じゃあ腹が減ったか? お前昨日夕飯早かっただろう」
「空腹で夢見が悪くなるなんて聞いたことないですよ。ふふっ」
その言葉が本気だったのか冗談だったのかは分からない。けれどあんまりな発想に僕はつい笑ってしまった。
「ですが、そうですね。朝餉をいただくのはいい案です。譲くんのご飯は美味しいし、にぎやかなのも好きです。行きましょうか。九郎が空腹で暴れる前に」
「よし、そうときまれば弁慶急げ。俺も着替えてくる」
「はい」
そして九郎はまたばたばたと走り去って言って、僕をまた静寂が包んだ。
するり、と寝着を落とした。秋風が素肌を撫でて、なんとなく、僕は九郎が触れていった額をなぞった。
(僕が君にどれだけ救われたのか、伝えられればいいのに)
唇をかみ、立ち上がり、衣服を着て、顔をぴしりと叩いた。
(……でも、おかげで思い出した)
僕は見失っていた。
(僕は九郎を)
僕は忘れていた。
僕は罪にまみれ、償いをしなければならない立場だ、それでも、
それでも、それ以前に、九郎の命が奪われるなんて、許せなかったはずだ。
(それこそが僕の望みだったはずで、九郎の無事を請うくらい……咎人である僕でも許されるはずだ)
思い出して僕は焦りだした。
(もっと確実に、九郎を守れて、龍脈を滅する方法が欲しい)
僕は九郎を救えないし、寄り添えない。
それでも八葉として選ばれた今、僕の償いの過程で、その先で、少しでも守ることができるなら、九郎の幸いがみえるなら、それだけで、
そうして思い至った。
九郎を守るため、いっそ戦を避けるため。
僕が平家に潜入して中から壊してしまえばいいのだと。
それは彼だけでなく八葉の皆や源氏の郎党の命も守れる上等な策に思えた。
それを選び、離れてしまえば、本当にもう君と歩くことはできないのだという事実に打ちひしがれようとも、
(君が笑ってくれるなら、それだけで)
(あの残像のような事を起こさせはしない)
(02.20.2018)(04.25.2022)