「お前と桜を見たかったんだ」
福原から戻ってきたらすっかりと春は終わっていて、少し汗ばむ程だった。僕は歩きながら外套の下の汗をぬぐった。
福原と京、そう離れていないのに気候が違うのは瀬戸内の海の風のせいだったのだろう。だから海はサイコーなんだと甥なら言うのだろうが……僕は彼ほどに海を愛せはしなかった。今でも海を見ると兄との厳島での負け戦を思い出す。負けは……好きではない。戦なら特に。関わる人が多すぎる。
景時の屋敷に着いたら桶に水を貰って足を浸そう、思いながら梶原邸に向かったら、望美さんが笑顔で出迎えてくれた。
「弁慶さん! お帰りなさい。長旅おつかれさまでした。大丈夫でしたか? 正体ばれませんでした?」
「ありがとうございます、望美さん。ふふっ、君の笑顔で旅の疲れも吹き飛ぶようですよ」
「またそんなこと言ってー。あ、九郎さん来てますよ、呼んできますね。くろーさーーん!」
彼女は一切取り合おうとしなかったけれど、僕にとって結構本音だった。彼女の清涼で可憐な姿は誰も彼をも癒すだろう。
「弁慶、戻ったか!」
「ただいま九郎。今日はお休みでしたか?」
「ああ。丁度何も用事がなかったからこっちに顔を出していた。まさかお前を出迎えられるとは思わなかったぞ。運がよかった」
「ふふ、もしかしたら龍の神のお導きかもしれないですね」
「そうかもしれないな。白龍には後で礼を言っておかなければ」
「変わりないですね、君も」
「お前も元気か?」
「はい。……ああでも、いくつか平家の内情を掴んできましたから、後でそれを君にも」
「だったら景時も一緒の方がいいな。急ぎでないなら、明日の朝餉の時でいいか? あいつ、今日は遅いらしい」
「ええ、もちろん」
「九郎さーん弁慶さーん!ごはんだよー!」
話がまとまったところで、丁度よく望美さんが僕らを呼んだ。
「はい、今行きます!」
「まったくあいつは……どこから叫んでるんだ!」
「ふふ、いいじゃないですか、元気が一番ですよ」
「だが……俺はあいつの将来が心配だ。嫁の貰い手がなくなる」
「へえ、兄弟子というのはそんなところまで心配しますか?」
「なっ!!ちがっ!!」
顔を赤らめて九郎は叫んだ。この頃、九郎は女性、という彼にとって守るべき対象がごくごく間近にできて、少しそわそわとしていた。
「さめますよー!」
「ああ、今行く!」
九郎が立ちあがって、僕も追った。
九郎だけじゃない、僕もそれなりに浮ついていた。
八葉と望美さんの近くは、おそろしいほどに居心地が良かった。
「九郎さん弁慶さんまた明日」
「ああ、明日な!」
「早く寝てくださいね! 特に弁慶さんは帰ってきたばかりなんですから」
「ふふっ、君にそう言われてしまったから、今日はそうしましょうかね。また明日君の笑顔に会うためにも」
「もーまたそういうこと言って! でも私も元気な九郎さんたちに明日も会えたら嬉しいです」
「ならお前たちも早く寝ろよ」
「はーい!」
彼らと別れ六条堀川の屋敷に戻べく別れを告げ、遠ざかる時、九郎はいつも、ほんの一瞬だけど寂しそうな目をしたものだった。けれど福原から帰ってくるとそれは無くなっていた。
「よかった」
「何が?」
「いいえ、こっちの話です」
まさか、正直にそのまま話すわけにはいかない僕は意味深に誤魔化した。九郎は首を傾げたけれど、
「あいつを見てるとこちらも頑張らなければならんという気になるな」
九郎なので、あまり気にせず話題を変えた。
「あんな細腕であの腕前だ。いくら先生に教わったからとはいえ、恐れ入る」
「僕がいない間、打ち合ったりしたんですか?」
「いや、そんな時間はとれなかったが、並んで怨霊を倒してればそれくらい分かる。腕もあるし、度胸もある。元々剣を習っていたわけではないと譲や将臣は言っていたが……それが本当だとしたら末恐ろしいな」
「将臣、というと、譲くんのお兄さんですか? 見つかったんですか?」
「ん? ああ。お前は会ってなかったか。そうだ。なんだか世話になってる人がいるとかで、もう京からは離れてしまったが、無事だったようだ。なによりだ」
将臣くん、という名前を九郎の口から聞いたのはこれが初めてだった。この時の印象としたら、ああ九郎は彼が気に入ったんだな程度の事でしかなく……、
先の事も彼の正体も九郎の本心も、そもそも彼が八葉であるという事も知らない僕も、譲くんのお兄さんで望美さんの友達だったら九郎が好いて当然かな、なんてありきたりの感想を抱いていただけだった。
「よかったですね、またいい人と出会えて」
「ああ。三人ともいい奴だ。特に将臣は面白いやつでな。腕も立つんだが、獲物がこう、すごく大きくて型破りだ。性格は譲より望美に近いな……面白そうな事にはなんでも首をつっこむし、言ってることも面白い。景時あたりは完全に振り回されていたな。望美一人でも随分と賑やかなのに、あいつがいる間は……ああ、そうだ」
もうすぐ六条堀川に着こうという矢先、九郎がはたと足を止めた。
「どうしましたか?」
僕も立ち止まれば、いきなり、九郎に持っていた荷をまるっと奪われた。彼はそのまま邸に向かって駆けだした。
「九郎?」
旅の終わりでそれなりに疲れていた僕だったけれど、それを追おうとしたところで九郎が振り返らずに叫んだ。
「いいからお前はそこにいろ!」
どこかに出かけたいのだろうか、という僕の予想通り、九郎はすぐに屋敷から出てきた。一頭の馬を連れて。
「荷は預けてきた。構わないか?」
「ええ、大丈夫ですが」
「じゃあ乗れ」
「……君と一緒にですか?」
「お前の馬は奥で休んでる。いちいち連れてくるのは面倒だからな。ほらっ」
と、九郎が僕の前で馬にまたがったので、とりあえず倣う事にした。
「平気か?」
「望美さんには早く寝ろと言われましたが」
「それは……、」
「ふふっ、冗談ですよ。そう遅くまでかかる用事でもないでしょう?」
「ああ」
「じゃあ行きましょう」
屋敷から持ってきた、まだ火のついてない松明を九郎の手から取りながら僕は促した。
「まったく、相変わらず人が悪いな」
仕返しとばかりに小突いた後、九郎は前を向いて手綱を取った。
駆けだした方角は北。街中を、彼にしてはのんびりと駆けた。次第に道が坂になって、その頃には西の山合いに大きな陽が沈んで。春の薄雲が空に広がりぼんやりと橙を映して綺麗で、ああ京だなあと思った。
馬はそのままどんどんと進んでいった。あたりは少しずつ暗くなってきたけれど、月明かりもある夜だったし、馬を駆ることに長けた九郎がこれくらいで速さを落とすことはなかった。
辿りついたのは上賀茂神社だった。
「目的地はここですか?」
「ああ。……本当は大原あたりまで行ければよかったんだが、さすがにこうも暗くなるとな」
「大原?」
九郎は一体どうして僕をここに連れてきたのか、見当もつかないままに僕は馬を木に繋ぐ九郎を待たずに境内へ足を踏み入れ、松明に灯を貰った。
「ああ、やはりここでは駄目だったか」
着いてきた九郎が悔しそうな声をあげた。暗がりでもわかる眉間の皺の理由がなおも分からず僕は問い返すことしかできなかった。
「駄目、とは?」
「お前と桜を見たかったんだ」
「桜?」
それは意外な理由だった。
「ほら、お前と平泉では何度も桜を見たけど、京では見たことがなかったから」
「ああ、そういえば」
遠い記憶を紐解いた。僕と九郎が出会ったのは桜が散った後で、次の春を待たずに僕らは平泉に出てしまったけれど……、
「でも、それだけで?」
「……それだけで悪かったな」
「悪いとは言ってないですが」
僕は言うけれど、そもそも九郎の表情は清々しいものへ戻っていた。
「平泉で二回目くらいの春だったか、その頃から俺は密かに決めていたんだ。お前と京へ戻ってきて、桜を見るぞって」
「それは……知らなかった」
「言ってないからな」
「そうですが」
けれど、そんな九郎の願いもむなしく、花は半分も残っていなかった。遅咲きの八重の桜でも綺麗に形を残していたのは更に半分といったところか。葉の緑の方がよほど色濃かった。
でも。だからといって無下にするつもりは僕にはなかった。
「……花を見るのが花見、ですからね。まだいくらかは残っていますから、お花見といえるでしょう? それとも明日にでも大原まで遠乗りに行きますか?」
「いや、明日は洛中の見回りを引き受けてしまった」
「でしたら、なおのこと今宵を楽しまないといけないですね」
花の盛りを過ぎてしまっているせいだろうか、庭には人はもうほとんどいなかった。
「久々にこうして静かなところで君とゆっくりするのも悪くない」
「別に無理に盛り上げなくていい」
「無理なんてしてないですよ。行きましょう、ほら」
「…………」
僕は九郎の手をとり静かな境内を進むことにした。
そういえば、九郎とは京で出会ったけれどあまりあちこちに出向いたことはなかったな、なんて思いながら、月明かりに照らされた桜を眺めた。
「月があってよかった」
「満月の頃合いを見計らって福原を発ちましたからね。今日は十六夜かな」
「そうか……じゃあもうあれから10日くらいたつのか」
「あれから?」
「ああ。望美たちとも一度、夜桜を見に行ったんだ。あいつらはあいつらであちこち行ってたみたいだが、俺と時間が合ったのがその時だけで。その夜は三日月だった」
「なるほど」
「その時はほとんど見えなかったけどな。でも楽しかった」
と、よほどいい思い出なのだろう。九郎はまるで目を輝かせて僕に言った。
「俺はいい仲間を持った」
「ええ、そうですね」
「お前今、自分の事だと思っただろう!」
「いやだな違いますよ。僕も彼女たちに会えてよかったという意味で言ったんですよ。もちろん、君にとっては僕もいい仲間であれと思いますけどね」
「よく言う」
そしてますます笑った。
京でしばらく過ごして、九郎は少し変わった。
そんなに変わったわけじゃない。相変わらず生真面目で、怒りっぽくて、なのにすぐにけろっと忘れて笑ったりしていた。でも望美さんたちと会って明らかに変わった。
異世界から来たと言う望美さんたちは何物にも縛られない。源氏も平家も武士もなにもかも関係のない(九郎にとっては望美さんは源氏に、彼の兄に賛同していると見えていたのだろうけれど、)彼女たちに、随分と九郎は気を赦し、また、癒されていたようだ。
僕もそうだった。望美さんの健気な姿は僕や皆を奮い立たせた。少しそそっかしいところは心配もあれど、可愛らしさにほころびもした。譲くんの語る知識は面白かった。『僕もまだ学生なんで、ちゃんとした事は分からないんですが』と彼はよく言っていたけれど、僕からすれば十分に興味深く、語り口もわかりやすかった。彼が望美さんを思っていつも心配している姿は気の毒でもあった、けれど、やはり彼のほのかな恋心の瑞々しさにはつい目を細めてしまったものだ。
そんな彼女たちが、僕の罪の意識を随分と軽くしてくれたように、
ああ、あのお陰で九郎は大将としての重責を全うできているのだろうな、なんて、僕は勝手に思っていた。きっと九郎本人以上に僕は安心していた。
なので、僕は続けた。
「望美さんは元気で健気で、いい娘さんですしね」
「ああ」
「それにとても可愛らしいときている」
「ああ」
「いいじゃないですか」
そこで、ようやく僕が何を言いたいのか察したらしい九郎が、ぱたと立ち止まった。
「お前……本気か?」
振り返った九郎の顔は月明かりに青く照らされていたせいだけじゃなく、あからさまに傷ついたかおをしていた。
「結構本気ですけど」
存外、僕の胸はちりと痛んだ。それでもしれっと返したら、九郎の肩がびくりと揺れた。
九郎は瞬きながら僕を見ていた。僕は微笑みもせずに彼を見返したすると僕の言葉をようやく受け止めたらしい九郎も、次第に真剣そのものになって。
「そう、なのか? そ、そうか……なら、俺は止めないが…………だがあいつを泣かすようなことはするなよ」
……ああ。告げた言葉はなんて九郎らしい勘違い。
「僕が、じゃないですよ」
「へっ?」
ある意味……『龍の神子の力』に興味を持っている、という意味だったら近からず遠からず、だけれど、
でも僕は今度はにこりと微笑み訂正した。
「君に、ですよ。いいんじゃないですか。源氏の御曹司と天より舞い降りた神子。お似合いですよ。望美さんは可憐な姫君ですが、君よりよほどしっかりしてますから、君がなにか騙され」
「は? ……何言ってるんだ!?」
「『嫁の貰い手』、心配しなくてよくなりますし」
「それは軽口だろう!」
九郎は結構真剣にに怒っていた。でも僕だって冗談で言っている訳ではなかった。
「でも、君は随分と望美さんに好意を抱いている」
「それは、そうだが」
「可愛いと思っているんでしょう?」
「それは、妹弟子だし。か…わいい、と、思わなくもないが、そもそも大体あいつは口やかましいし少し生意気だ」
「そういう所が気に入っているくせに」
「それは」
顔を赤くして口ごもる。ほら脈ありだ。僕は思った。
「ね、考えてみたらどうですか?」
「勝手に話を作るな」
「それはもちろんそうですけれどね。もちろん僕も彼女の意思は尊重しますよ」
けれど、望美さんも九郎を嫌悪しているようには見えなかった……し、なにより僕が少し介入すればきっと、かなりの確率でどうにかなるのではないだろうか、
と、傲慢な僕はそんな算段を立てていた。
「これは、忙しくなるかな」
からからと、僕は笑った。けれどそんな僕に、振り払うように九郎は言った。
「お前はそういうけどな、それだったら、可愛いければいいっていうなら、お前だって『可愛い』になるぞ」
「え?」
ぷい、と横を向いて言われた言葉はあまりにも突拍子がなかった。僕は不覚にも呆然と見上げてしまった。ふてくされている、というよりは、照れていたような…顔で。
言葉の意味が分からなかった。理解らないまま、ただずっしりと胸の奥が重くなった。
「それは」
だというのに、ゆっくりと再び僕に視線を戻した九郎の表情からまるっと感情が落ちてしまっていて、
僕は瞬いた。ざあと風が吹いて、いくらかの花びらが僕と九郎の微かな間を通って行って、
「でも、お前は親友だし、だいたいお前だって望美のことを可愛いと思ってるんじゃないか? 自分のことは棚に上げるのか?」
ここでようやく我に返った。
「そう、ですね…………そう言われてしまうと……返す言葉もないな。たしかに、少し決めつけがすぎたみたいです」
「そういうことだ」
微かとはいえ困惑を残したまま続ける話題ではないだろう、判じて退けば、九郎は微笑んだ。あまりにも大人びた、あまりにも優しい笑顔は、月明かりに照らされて明々と見えた。
「だから、そんなお節介はしなくていいんだ」
「そうですね」
僕は静かに目を逸らした。月を背にするように。
「……冷えてきたな。帰るか。お前も疲れただろう?」
「ええ。そうしましょうか」
そうして僕らはそれきりこの話題に蓋をしたまま家路に着いた。
こういう時に日頃からよく回る口は便利だった。沈黙も避けたくて、丁寧に丁寧に遠ざけながら他愛もない話をつづけた。
僕も、きっと九郎もそれ以上語る言葉を持ち合わせていなかった。
彼の言葉の真意はこの時には分からなかった。ただ僕が「間違えた」という直感だけはあった。騎上でしがみついた九郎の心臓の音ばかりが耳について、自分のそれが速くなってゆくのが煩わしかった。
(親友と彼は言った。それは事実のはずだ。けれど何を、あんな、なにもかも無い顔で、)
(それでも、いいじゃないか、いいはずなのに、何故僕はこんなにも心を乱している?)
それはきっと、親友と、言った彼の言葉に別の感情が潜んでいたからだった。きっと、僕への色恋めいた好意だった。
後から思えば簡単なことだ、けれどこの頃の僕はそれに思い当たることができなかった。
できず、一連の言葉にわけも見いだせず動揺したまま。
(あんな顔で、親友と、)
その言葉は僕へ沈んだ。
(02.11.2018)(04.25.2022)