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「凛としろ」


 鎌倉殿は九郎を過度に重用しようとはしなかった。
 最初はそれに不満を募らせていたようだった。嫡男ではないものの、同じ源氏の悲願を果たそうと駆けつけたのに、と、大きな声こそ上げなかったけれど、言葉よりも素直な表情が雄弁にそれを語っていた。
 次第に諦めたのか、いつしか僕は九郎のそんな姿を見ることが減っていた、と、気がついたのは、一年は過ぎた頃だった。その頃にはもう、着々と、日々御家人としての仕事をこなしていた……ようだった。

 景時と親しくなった影響なのだろうか、と、僕は思っていた。
 梶原兄妹と僕が出会ってから、九郎はますます景時と親しくなったようで、よく、互いの家で酒を飲むようになっていた。
 とはいえ、元々、誰とでも親しく話す景時の家には頻繁に人が集まっていたらしく、九郎、あるいは僕もその一員として加わった、という方が近いかもしれない。
 景時とは年も近く、それに彼自身、鎌倉殿の脇を固める八幡太郎義家及び、鎌倉殿や九郎の父に元から縁のある武家が多い源氏軍の中で、血縁とはいえ源氏と離れて生きてきたせいか九郎とは話しやすい、とも言っていた。その時はただの方便だと、九郎でさえ思っていたらしい、という話も後から聞いたものだった。

 そんな言葉に甘え、梶原の家にお邪魔すれば、彼らの母上がよく僕らを歓迎してくれた。賑やかに人の集まった夜も、そうでない時も、朝まで飲み明かすことも少なくはなかった。
 僕はこの頃には積極的に酒を口にはしていなかったので、時として、そんな酔人特有の調子について行けない時もあったけれど、九郎が楽しそうに皆と武士の世を語っているのを見ているのは悪いものではなかった。
 鎌倉での九郎はいつだって希望に満ちた顔で未来を語っていた。
 特に、冬の合間、珍しく風の弱かった夜、景時の庭で椿を眺めつつの宴でのことはよく覚えている。
 鎌倉殿もいらしたからかもしれない。なんにせよ、あの日は特に、饒舌に語っていた。兄上はきっと素晴らしい世を作ってくださると、その手伝いができるのが嬉しい、と、僕の好きだったきらきらとした瞳で語り、皆もそれに賛同して、口々に輝かしい話を挙げ、九郎はさらに目を輝かせてそれらを聞いていた。
 京では抱くことすらなかった、平泉でも漠然と描くことしかできなかった「それ」は、鎌倉では十分に現実となっていた。僕も、きっと鎌倉殿はきっと武士の世を作るだろうし、九郎もまた……僕は彼ほど無邪気に鎌倉殿の兄としての姿は期待していなかったけれど、きっと九郎は彼によく仕えるだろう、そう思っていた。
 その世で九郎は一体、どんな人物になるのだろう。僕は思い描いた。武はあり礼儀も正しい九郎だったけれど、人の上に立ち政をするところは想像できなかった。
 けれどいざとなれば立派にそれを成し遂げてしまうのだろうと言う確信はあった。
 いつかの川辺でうまくやれているのかと、おずおずと僕に聞いた彼はいつしか消失していた。そう、いつしか僕にも元のように笑顔を向けるようになっていた。きらきらと近くで輝くそれに、いつも僕は密かに息を零した。笑ってくれるなら、それが一番だった。
 いつもたくさんの御家人に囲まれて、九郎の元に集った郎党や雑兵たちにも慕われ、剣の稽古も不器用ながらにつけていたし、鎌倉殿にも特別視こそされなかったものの、他の御家人と同程度にはあちこちに重用され、昼はおろか、たまに夜までも出向いていた。鎌倉殿が直接に戦をしにいった時は留守を任されていたし、周囲の、未だ源氏に与すると決めかねている御家人の説得に行ったりもしていると……僕は、話の上でしか知らなかったけれど、相変わらず比叡に赴き怨霊のことを調べている僕でも感じるほどに街がいなく九郎は注目を集めていた。鎌倉殿の弟だから、というだけではなかったはずだ。九郎を慕う人の数はどんどんと増えていった。彼から距離を取っている人には悪く言われることもあったけれど、どちらにせよ、彼は無視できない存在になっていて、
僕はすっかり郎党のただの一人になっていた。


 それからいくらかの後。氷のような雨の降る日だった。
 家で調べ物をしていた僕の元に、顔見知りの九郎の郎党が飛び込んできた。
「ああ、弁慶殿がいらした。よかった」
「どうしました?」
 巻物から顔をあげると、息を整えながら彼は問いかけた。
「九郎殿を見かけませんでしたか?」
「九郎? 今日は朝早くにばたばたと走る音を聞いただけですが……何か用ですか?」
「はい……って、俺じゃなくて、梶原殿が。今日、一緒に道の増設(じゃなくてさあ)の下見に行く予定だったそうなんですが、待ち合わせの場所にいないと」
「景時が?」
「はい」
「ここへ…来ているんですか?」
「はい」
「分かりました」
 困惑した彼の横をすり抜け、すぐさま庭へ降りれば、僕の声が聞こえていたのか景時が駆け寄ってきた。
「あ、弁慶!」
「話は聞きました。九郎が現れないとか」
「そうなんだよ〜。で来てみたんだけど、いないんだね。なんか心当たりない?」
「そんなの……いえ、僕には」
 あるはずはなかった。この時気づいたのだ。この日だけでなく、普段から九郎がどこに行っているのか、碌に知らなかった事に。
「……分かりました。後はこちらで探しておきます。景時は、仕事に戻ってください」
「ん? ああ、別に急ぎとか、そういうんじゃないんだよ〜。ただほら、九郎って普段あまり遅れたりしないから、何かあったのかなって気になったんだ」
「待ち合わせはどこで?」
「八幡宮」
「ではもう一度、そこまで道を辿りましょうか。僕も行きます」
 そして僕は外套を羽織り、傘を広げて景時の後をついて道を辿った。
 道中、しとしとと傘に響く雨音の向こうで、景時はしきりに「普段はさ、こんなことないんだよ〜」と、繰り返し口にしていた。それはなんだか言い訳のように僕には聞こえた……彼がそんな振る舞いをする理由は無かったのに。
 間も無く待ち合わせ場所に到着すると、景時の郎党であろう男が駆け寄ってきた。
「景時殿!」
「九郎が見つかった?」
「いえ、それが、鎌倉殿から報せが入りまして、九郎殿は今日は急遽、政子さまにお供することになったとこと」
「え、そうなの? そっか、そうだったんだ〜」
 景時は随分とほっとしたように見えた。
「分かった。それで、オレはどうすればいいとか、鎌倉殿は言ってた?」
「今日の予定は改めて明日に、としか伺ってません」
「そっか、今日はじゃあオレ休みだー!」
「今のうちに下見をしておかれたらどうですか?」
「うっ、うん……そうだね、そうしようかな、うん」
 そんな、彼らしいやりとりを一通りした後、肩を一度竦めて、景時と彼の郎党は去って行った。
「じゃあ弁慶、騒がせてごめんね、ありがとね」
「いえ、僕も話を聞けて安心しました。では、お気をつけて」

 景時の、まるで九郎を庇っているような、助勢するかのような姿は、帰路につくまで僕の脳裏を離れなかった。
 同時にとある言葉を思い出していた。
「あいつは駄目だ。兄である頼朝殿とは比べることすらおこがましい。腕っ節だけはたつが、それだけだ。融通の利かないとんだ無能だ」
 当時僕がよく(もちろん直接ではなく、偶然に)耳にしていた、御家人衆の言葉だった。 発言者が大体、自分の地位を上げることにばかり必死な男だったせいもあって、僕はそれを九郎の立場への妬み僻みによる発言だと決めつけ、たいして……せいぜい、たまに、彼らの立場が危うくなりそうな噂を流す程度にしか気にしていなかった。当然九郎に言う事もなかった。
 けれど……この景時の様子。なぜ、明らかに九郎の味方である筈の僕に対して、九郎を援護するような素振りをしきりに見せるのか。
僕の中の景時の印象を落としたくないのか?それにはいくらなんでも雑すぎだろう。だったら。
(もしかしたら、彼らの言っていた事は……ただの僻みではなかったのか?)
 それは種火のように僕の心で燻りだした。


 九郎がその日戻ってきたのは夜遅くだった。
 待っていたつもりではなかったのだけれど、また巻物に目を通しているうちに夜が更け、彼と顔を合わせる形になった。
「おかえりなさい」
「弁慶? ……まだ起きていたのか」
「ええ。半端な所だと目が冴えてしまいますからね。つい。ところで……政子さまとお出かけになられたとか。お役目、お疲れさまでした」
「何で知ってるんだ?」
「それは、」
 簡単に成り行きを話すと、九郎は疲れた顔のまま納得した。
「そうだったか。景時にも心配させてしまったな。明日謝らないと」
「そうですね。ところで、遅くまであちこち歩いていたんですか? 体力がうりの九郎が随分とぐったりしていますね」
 そんな九郎に、やめればいいのに僕は聞いていた。
 好奇心ですらなかった。九郎を知らない事に対する、無意識の焦り。
「……別に、ただ、政子さまのお側についてまわっていただけだ」
 それと、なんとなく落ち込んでいそうな九郎を気にかけたかった、なんていう、突き放した癖に、半端な同情。
「『ただ』って、立派なお務めです。政子さまも君を連れて歩けたならきっと鼻が高かったことでしょうね」
「そんなことあるか!」
 それは結果、九郎を傷つけた。
「俺は……本当に何も……ただついていくだけで、気の利いた事なんか……」
「九郎?」
「もう寝る。追ってくるなよ」
 ぴしゃり、と、九郎は僕を拒絶し出て行った。
「九郎……?」
 その姿に、僕は困惑していた。昼間に抱いた予感はきっと正しかった。
(知らなかった)
 困惑して後を追うこともできなかった。
(九郎は……九郎は、充実した日々を送っていたんじゃなかったのか?)
(九郎はいつも、あんなに誇らしげに)
 足元が崩れるような感覚を覚えた。
(僕は……何かを見落としていたのか?)
 この時の僕は気付かない。知らない。当時の僕は、九郎から離れることに精一杯で、自分で思っている程、彼と言葉をかわしてもいなければ、なにより彼の目をまっすぐに見てすらいなかったのだと、
 そんな可能性すら考えないから、知る由もない。


 その翌夜だった。景時の家でまた酒宴が開かれて、僕も呼ばれた。景時の家に行くと、彼と共に行動した九郎もいた。
「弁慶来たか! こっちこっち」
「九郎もいましたか、と、随分飲んでる様子ですね」
「お前が来るのが遅いんだ!」
 珍しく、満面の笑みで九郎は僕を呼んだ。昨日とは雲泥の差、なのは、今日は景時との任務が上手く行ったからか、もしくは皆の前だからか。
 それはさておき、僕は九郎の横に腰を降ろした。酒を抱えた景時もやってきて、彼の郎党も数人混じって、話は盛り上がった。そのうち続々、他の御家人たちも集まって、気付けばまた、いつものように大きな酒宴になっていた。
「梶原殿、これはまた近いうちに鎌倉殿も呼ばねばなりませんな」
「あー、うんそうだねーははー」
 と、名は知らぬ御家人が言う通り、毎度参加していたわけではない僕から見ても、規模は毎度開くたびに大きくなっていたし、この夜もだいぶ遅くまで賑やかで、そうなれば酒を飲む勢いなどどんどん上がってゆく一方だった。
 九郎も飲んでいた。彼や御家人衆ほど強くも無いのに僕も随分盃をあけていた。ぼんやりとしている自覚はあったが、どうしてかこの日は飲むことを止められなかったのだ。
 回りも皆、随分と言葉遣いが荒くなってきた頃に、ふと目の前の御家人が言った。
「やーしかし、九郎殿が羨ましい。良き部下をお持ちのようだ」
 はっはっはと笑いながら、なんの悪気も無いような様子で彼は言っていた。
「部下……九郎が、ですか?」
「ああそうだ。もし鎌倉殿がつぶれても、京に熊野、どこにでも取り入れるように動いている部下がいるそうじゃないか」
 問い返した僕に、その人は続けた。その言い方はさっきとは打って変わって厭らしく。
「どういう意味でしょうか……僕にはよく分かりませんが」
「おやそうですか? 弁慶殿、と言いましたか、あなたがそうなのでしょう? なんだか随分と頻繁に都に出向いておられるとかで、てっきりあなたを使って九郎殿は根回」
「ぼくは、鎌倉殿のご指示で動向を探っているだけですが?」
「だが随分と好き勝手もされているとか? 鎌倉まで御噂が聞こえてくるのですから、余程派手に動いておられるのであろう?」
「それは鎌倉殿の名を汚しかねませんな」
「そもそもそのようなりで何を探れるのか」
「鎌倉殿に目立った成果を献上している様子もないとか」
「弟君とはいえ、それは聞き捨てなりませんなあ」
 言いたいことはよくわかった。十分分かった。どん、と僕は盃を床に乱暴に置いた。
「聞き捨て、なりませんね」
「そういう態度をとられるとは……やはり事実だったのだな。くく、九郎殿もやり手だ」
「ふむ、これはもしかして先に手を打つつもりなのかもしれませんな。だが古参の御家人衆の結束は固いですから易々と負けはせぬがな」
「根も葉もないことをそれ以上仰るなら、こちらも黙っているわけには行きませんが」
 僕は酒に随分と酔っていた。回りの声量が落ち僕たちを伺いはじめたことに気付かずに、掴みかかる勢いで睨みあげていた。むしろ殴ればいいと言いたげな男の顔に、僕は拳に力すら込めていた。
 けれど。
 唐突に後ろから圧し掛かられた。頭も押さえつけられ床に打つほどだった。周りがざわめきたった気もしたけど気にしなかった。
「っ!」
「やめろ!」
 はねのけようとした僕を、更なる力が押さえつけ、声が制した。
「すまない。酒の席に免じてこいつの無礼は忘れてください」
「九郎!?」
 驚き頭を上げようとした僕を、更にぐいぐいと声の主…九郎が押した。
今まで会話には入ってなかったとはいえ多少は聞こえていたであろう彼のそんな態度に。僕の血はますます煮えたぎっていった。
「くくっ、九郎殿がそこまで仰るのならば、今日は見逃してやらなくもないな」
「源氏の血を引かれる方にこれ以上頭をさげさせるわけにもいかんですし」
「かたじけない」
(何をそんな、君が引き下がるんだ)
 先の話はひどい侮辱だった。九郎が謀反の準備をしているなど……彼が幼いころからどれだけ源氏を、兄のことだけを思って過ごしてきたか、その忠義を知らない癖に!と、僕は激高していた。
(しかもこういう話は訂正しなければ、悪い噂は広がっていくばかりなのに)
(なのにどうして九郎は黙っているんだ……)
 怒りはだんだんと九郎に向き始めた。許せない、と強く思った。
(そんなの君じゃない)
(君は……変わってしまったのか? もう僕の知る九郎はいなくなってしまったのか?)
 僕の頭を押さえる九郎の手が、そうして緩んで、僕は一気に頭をあげた。
 けれど途端、
「気持ち悪……」
到底耐えきれぬ程の吐き気に襲われ、そのままくらりと僕は意識を失った。



 涼しい、と思って意識が戻った。誰かが傍にいて、煽いでくれてる気配がした。
「くろ……」
 目を開けたら、いたのは思い描いていた人物ではなかった。
「景時、でしたか」
「あ、気づいた? 大丈夫?」
「はい、たぶん……。それにしてもまさか君に看護させてしまったなんて……すみません、うう痛」
「だよね〜、うん、九郎もすごい心配してたから、九郎に頼もうとしたんだけど『俺じゃ駄目なんだ』だって言われちゃってさ。あ、水飲む?」
「ええ、お願いします……」
 ゆっくりと起きあがり、手渡された水を一気に飲み干した。そうしたらさっきより少し冷静になれたような気がした。
「ああ、おいしいです」
「それはよかった」
 息を少し整えてから、僕は静かに聞いた。
「……さっきの話、ですが」
「ん、どれ?」
「九郎が、京や熊野に取り入る準備をしている、という噂。あれは、広まっているんですか? 鎌倉殿も?」
「ああ、うんそうだね……うん、鎌倉殿は本気にはしてないし、九郎をよく知る人も気にかけてないけど、そうでもない人は、ね」
「……それは、僕のせいですか」
 そう。冷静になれば、九郎があんなことを言われていた原因もわかるというものだった。
「あー、弁慶もう一杯水飲んどく?」
「……はい」
唐突に水を差し出され、素直に受け取りながら僕は景時の話の続きを待った。
「…………まあ、うん、仕方ないんじゃないかな」
「……」
「君があちこちに出向いてるのは個人的な用事で、鎌倉殿にも許諾を得ている、ってオレは君から直接聞いてるから知ってるけど……九郎をよく思わない人から話を広げられちゃうのも、知らない人がそれを信じちゃうのも、無理ないと思うよ、やっぱり」
「……」
 そしてそれは不在の、ただの郎党でしかない僕ではなく、九郎に向かっていたというのに、侮辱されていたというのに、彼は黙っていたのか。事実はひどい重さを持って僕に沈んだ。
(何故僕は気づかなかった)
 誰より鎌倉殿を慕っていた九郎だ、本当ならそんなくだらない中傷など一蹴してしまいたかっただろう。おそらくそのせいで相当立場も悪くなっていたに違いなかった……この前日に、景時が九郎を妙に庇いたてていたほどに。
 でも、その誤解の元である僕の上洛は事実で、そして誤解を解くには僕を止める必要があったかもしれず、
(けれど九郎は行くなと僕に言わなかった)
(そして、僕もそれを止める事はできない……)
「そういうこと、ですか」
 僕はもう、九郎を、九郎の現状を本当に知らないのだということ、
そして、僕のせいで彼の立場が悪くなっていても何もできないということ。
 目の前の景色からさあっと色が消えていった。
「九郎からは何も聞いてないの?」
「仕事の話もいくつか聞いてはいましたが……いい話ばかり、でした」
「うん……そうだね、九郎らしいね。きっと君を心配させたくなかったんだろうね。大事な友だって、いつも言ってるよ」
「……ですか」
 景時の言葉はやけに優しく心に染みた。
(なのに、僕は)
(あんなによくしてくれた九郎の友以前に、もう郎党ですらないのかもしれない)
(かといって全てを投げ捨てて駆け寄ることも……できない)
「平行だ」
 僕は口にしていた。
 景時は何も言わずに、そんな僕を扇いでくれた。いい奴だ、と、思った。彼になら安心して九郎を託せる。そう確かに感じた。
「ありがとうございます。君と知り合えて、よかった」
 彼になら安心して九郎を託せる。そう確かに感じた。
「え、大げさじゃない?照れるな〜」
「今だって水、美味しかったですよ」
「うーん、あー、だったら是非、今度妹の前でも褒めてよ。たまにはいいとこ見せとかないとね」
「ふふ、僕の言葉でよければ、いくらでも。……ですが僕も、朔殿には一度胡散臭いと言われていますからね。効果があるかどうか」
「え、そんなこと言ってたの、ごめんねうちの妹が」
「いえ、事実だと思いますから気にしていませんよ。それに物事をはっきりいう人は好ましいですから」
「それは、うん、弁慶はそんな感じするよね」
 なんだか力の抜けるような笑みで景時が笑って、そして立ち上がった。
「さ、帰るでしょ? 九郎呼んでくる」
「……お願いします」
 合わせる顔はないままだったけれど、僕も頷いた。



 九郎と連れだって、沈黙のまま景時の家の門を出たところで、彼は僕に背を向け軽くかがんだ。
「ほら」
「なんですか?」
「まだ調子悪いだろ? 倒れられたら俺が面倒だ、おぶってやる」
 僕は少し躊躇った。彼に何もできない僕が優しくしてもらう謂れはないと思った。でも、
「ほら早くしろ」
という、拒絶したら苛立って声を荒げそうな様子に、僕はおずおずと彼の背に手をまわし、体を預けた。
「……お願いします」
 九郎は無言のまま僕の足に手を回し立ち上がって歩きだした。
(駄目だな、結構弱ってる)
 実際、だいぶ足元が覚束なかったし頭も痛かったがそれだけではなかっただろう。先程辿りついた事実を否定したいのか……そんな資格ないのに、僕の腕に無意識に力がこもっていた。九郎の固い背によりしがみついていた。
 昼間にどこぞの道の修繕作業を見に行っていた九郎は少し土臭かった。
 こんなにも間近で彼に接したのは久しぶりだった。九郎はあの僕が切り捨てた日以来、本当に僕に近づこうとしなかった。もちろん笑顔を向けてくれたし言葉だってかわした。それでもけっして触れようとしなかった。こんな風に、意地っ張りな九郎は頑なにそれを守った。僕のことなど忘れたのかもしれない。それならそれでもよかった。
「お前京とか熊野でもこうなんじゃないだろうな」
 黙る僕にかけられた声は軽さを装っていた。ずきり、と頭が痛んだ……けれど、僕も九郎に倣って笑いながら返した。
「向こうでは帰るのに支障をきたすほど飲みませんから」
「そうか。ほどほどにしろよ」
「そうします」
 霜月の夜だ、風が冷たくて、九郎の体温が温かくて……所有していたとでも主張するように、首筋に僕は鼻をすりよせた。
 汗と埃の臭いに混じって景時が好きで焚いていた梅の香のにおいがした。
(めんどうだ)
 酒がすべてを怠惰にした。
 歩くのも、考えるのも置き去りにした。
「止めないんですか?」
 先程聞くべきではないと思ったのに、止められたとしても鎌倉へとどまることはできないのに口にしていた。実際、行くなと言われたらどうしたのだろう。けれど九郎は僕を留はしなかった……僕も、心の片隅で予想していたのかもしれなかった。
「今更だ」
 彼の口調は平坦だった。
「何をしているのか、疑わないんですか?」
「言う気もないんだろう?」
「ええ、それはできません」
 彼の優しさに報いる、というなら、せめて全てを告げるのが誠実な対応だ。それが郎党としての義務だ。何度も思った事があった。
 でも……僕はなおも首を振った。
 弱い僕は、一度言ってしまったら、罪を告白してしまったら、九郎を頼ってしまっただろう。
 そうしたら九郎は源氏の事をおろそかにするかもしれない。そんな事をさせるわけにはいかなかった。断じて。たとえ、彼に不利な噂を広げることになっても。
(もう君と同じ場所に立つこともできないのに、僕は)
(何をしているんだろう、僕は)
 最低だ。沈黙するしかできなかった。話を流すための自己弁護。ぎゅっと馴染んでいた筈の肩にしがみついた。
「……今更だ」
 押し殺したように九郎は言った。
 九郎がどうしていたのか何を思っていたのかを知らぬ僕が、その重さの意味を知る由もない。けれどこの時の僕は、京での僕の悪行を見透かされたような気がしていた。
 なのに九郎は続けた。
「凛としろ。正しいと思うなら前を見て。背筋を伸ばしてろ」
「……」
 ただ呟いただけの、少しも励ましていると思えない口調だった。けれど九郎がこの期に及んでそう言ってくれるのが……彼の本心や気苦労を鑑みることもできないほど嬉しくて、
「…………ごめんなさい」
僕の返事に深い深いため息をついた九郎を気にかけることもできぬほどに、
悔しかった。
 悔しかった。
 赤い灯が主を待ちわびる門は目の前だった。




ぜったい弁慶と景時さんこの時点でこんな仲良くないとおもうんですけど(2かいめ
(07.10.2017)


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サソ