「眠れない夜は」
灯していた灯りが消えて、急に闇に包まれた。
あんなに長かった蝋燭が尽きたのか。そんなに時間が経っていたことに、読んでいた書物に夢中で気付かなかった。続きも気になるけれど、今日は薄雲が空を覆っていて、火の力を頼らずに文字を、少なくとも僕には無理そうだ。
仕方なく、最早裂けてしまいそうな竹栞を挟んで、僕はゆるゆると膝に手を充て立ち上がる。
眠れない夜は書物を読んでやりすごす。昔からの僕のやり方だった。まだ開いた事のないものも、繰り返して内容を覚えているものも様々に読み漁って、それでも駄目なら酒を飲む。
酒に弱くもないけど、強くもない僕は、比較的簡単にそれで感情を……眠れる程度には流すことができた。
するりと土間へ降り、いつだか九郎が貰ってきた酒を、銚子に並々と移して僕は再び、元いたところへ腰を降ろす。盃にそそいで、ぐいと口をつける。
酒の味に詳しいわけでも、ましてや味の違いが分かるわけでもないけれど、僕の好みではなかった。九郎はなんでもうまいと言って飲むけれど、僕は甘すぎるものはあまり好きじゃない。口内でとろける米の甘さには美味を感じる。ただ、僕が酒を口にするのはこんな時ばかりだから、もっと薬のように苦いくらいが丁度いい。
開け放った戸から流れ込む風にますます目が覚めていきそうだ、という気もしたけれど空の盃にもう一度ついで、また飲み干す。そういえば九郎はこの酒を殊更大切に、少しずつ飲んでいたような気もしたけれど、構わずに僕はどんどんと喉に流し込んでゆく。
飲むしかないのだ。流石に少しは憚られたし、喉の焼けを感じたので盃を一時膝に置き、肴代わりに月明かりにたゆたう木々など眺めてみても、占めるのは鳥も虫も鳴かぬ静寂。空は薄く広く雲に覆われていて、星も瞬かないものだから、まるで絵画のような世界。
一人きりの闇と動くことなき庭。脳裏に抱えるたくさんの思い出をただ映し、展開して、ますます眠りを遠ざける。酒などちっとも効かずに眼ばかり冴えてゆくようで。
僕は更に酒をあおる。息をつく。
思いのほか深く響いた。
思いのほか喉も掠れた。
こうしていると、たまに九郎がやってくることがあった。
どうしたんですか、と問えば、別にどうもしない、と、返されたものだった。申告通り、何かに悩んでる風もなかった。僕のように眠れずにつらい、という訳でもなさそうだった。
ならば、僕が起きている気配で目を覚ましてしまうんですか?とも聞いてみた。それにも首をかしげ良く分からない、と、言った。
彼の心中が気にならなかかった、といえば嘘になる。それでも大抵、そんな夜は……眠れずにいた夜なのだ、僕は既に思考することに疲れ果てていたり、あるいは人恋しかったりしていたから、深く考えずに九郎と過ごした。
平泉にいたころなどはそのまま寝るのを忘れて飲みあい語らって、あるいはじゃれあったりもして、日が昇ると共に落ちるように眠っていたりしたものだった。幾度も幾度も繰り返したあの日々は、似たようなのに多様で多彩で、ふとした拍子に顔を覗かせる。
そんなささやかな記憶もまた、目の前の景色に……あの奥州のものとは異なれど、重なって、僕はまた思考に呑まれる。価値なき回想。どうしようもなくなればあるいは、それらを拾い集めては言の葉にして心に沈める。逡巡はとめどなく。夜は続く。綴り、続いてゆく。
(ああ、九郎は、眠っていればいい)
静かな夜。静かな闇。
眠れない夜は、九郎の事ばかり考える。
(05.30.2017)