「僕は改めて目を閉じた」
声が響いた。
『愉快愉快』
姿が浮かんだ。
『こんなに愉快なこともなかなかない。のう、弁慶?』
老人のくせに眼光は鋭く、眼は楽しそうに歪んでいるのに睨むような視線だった。
『さて、いつだか言っていたな。主は負けず嫌いで薬師にしておくのが勿体ないと』
くつくつと、喉を鳴らして見知ったにも程がある老人は言った。
『まさにその通りだったようだな』
『何、呪詛のこと、随分と我に聞いていたのはそういうことであったとは』
『ただ要らぬところまで無邪気に足を踏みこんできているだけかと思っておったが
『そのうえ、こんな風に我を奪ってくれるとは思わなんだ』
『それくらいの方が、面白いかの。さすが、我が見込んだだけのことのある』
愉しげに歪められた目で高みから見降ろしていた。
人の身でありながら禍々しさをめいいっぱいに映した口元が邪悪に吊りあがった。
『そう、見込んでおったのだよ弁慶』
ぞっと、背筋を撫でられたような感覚が走った。
耳元でささやかれたかのように、言葉は克明に僕に飛び込み、塞げなかった。
老人はいつしか眼前に迫っていた。ほんの少し下から僕を見上げていた。
『まさか寝首をかかれるとは思わなんだが、それくらいの方が、面白い』
『主は源氏のこせがれの犬にしておくのは勿体ないほどに、豪胆だ』
そしていつの間にやら手にしていた扇で僕の顎をつい、と押し上げた。
僕は息さえ飲み込めずにいた。
『畏れを知らぬ』
『敬うことすら知らぬ』
『あるいは、天下をも狙える器かもしれんな』
にたりと微笑んだ醜悪な顔が、つい、と鼻先に、触れ合うほどに迫っても動けずに。
『なにせ、我を殺したのだ』
『この国を統べる我を』
『しかも、我ら一門が京を牛耳っているのが許せないと?』
『龍脈を欲しいがままにしているのが許せないと?』
ぐい、と、むせかえりそうなほどに扇で顎を突きさされても、裏腹に過度に甘ったるく囁かれても、
『聞いてあきれる正義感よの』
『それを主が望むか?』
『鬼子とさげずまれた主が望むか?』
もし扇が小太刀に化けてもきっと、そのまま悲鳴を上ることさえできぬまま絶命したのではないかと思うほどに、僕は何もできず、
そんな僕の耳元にたっぷりと、押し込めるかのように、告げた。
『片腹痛いわ』
ずさり、と僕は力を奪われたかのように膝をついた。茫然と、見上げることすら叶わずにただ、空間に崩れた。
『ふん、面白い。まこと面白い。のう、弁慶? そなた、我が憎いと言ったその口で、その目で、何をした?』
(……う)
固く目を閉じ、耳を両手で覆った。
『龍脈を欲しいがままにするのが許せないと?』
『京を思い通りにするが許せないと?』
『それでこの有様。こんなに愉快な事も無い。のう?』
(違う)
言葉は紡げなかった。それでも漸く、僕の心が叫んだ。
『ふふ、だから主を我の手元に置いておきたいと言ったのだ』
『そなたは我に良く似ている そうであろう弁慶』
(違う)
龍脈を我が物にする我らが憎いと言いながら、この手で龍脈を穢し絶えさせた
「違うんだ」
京の為と言いながら、平家が憎いと言いながら、そなたの根源はただの、野心
「違う違う違う」
主の功績に、戦に巻き込まぬためにといいつつ、実際はこの体たらくで、
むしろ足を引っ張りかねなくて、言い訳にしているだけで
「違う、僕は、九郎は、」
いっそ自らの為と認めぬ方が、よほど、よほどに汚らわしい!
「煩い!」
僕は目を見開き拳を繰り出した。
しかし、それは空を切った。
確かに目の前の男を狙って拳を繰り出したはずだったのに何にも当たらなかった。
なにもなかった。
なにもなくて、むしろあれほどくっきりと、いくら目の前にいたからといって相手が見える明るさではなく、
薄暗くて、見知った褥で、僕は夜着を纏っていて。
「……夢、だったの…か?」
ぜえぜえと息を吐きながら、おもむろに額を手で覆った。汗で濡れていた。気付けば全身もじっとりと湿っていて、唇を閉ざして額の汗をぐいと拭った。
(ひどい、夢だった)
大きく息を吐いて、まずは平静を探した。すぐには辿りつけそうにもなかった。両腕は自然に自らを抱いていた。次第に寒さを感じた。まだ汗をかくには早い季節だった。
たかが夢だ。なのにこの有様の自分にますます動揺してしまって、闇雲に、部屋の中に灯りを探した。
消し忘れた燭台の炎はまだ消えていなかった。それが重く部屋中の影を揺らすのを目に映した。落ちつくかもしれない、と、なんでもいいから縋りたかったのだ。
実際、見つめていれば次第に、夢と現実の境をくっきりと理解し、僕はようやく、腕をだらりと落とした。
そう夢なのだ、何も、何も今更気に病むことでなかった。繰り返し見た夢で、この先も見ることになると識っている夢だ。過去の見せる領域。対抗する手立ては無い。向き合わずに横になり眠ってしまえばいいだけの話。
事実だとしても、眠るしかない。それだけの話。それだけの。
僕は改めて目を閉じた。眠れるとも思わなかったけれど、気分を晴らせるとはそれ以上に思えなかったし、この時は翌日に約束をしていたから眠らなければならなかった。
約束の相手は九郎だった。とはいえ、少し前まではありふれていた、仲間内の気安いものではなく、鎌倉殿からの任務の随伴だった。
春もとうに過ぎた頃、ある日九郎が言った。
「武蔵国まで行く事になった」
「武蔵国、ですか」
「一緒に行かないか。遠乗りついでに。……別に、何か、お前の助けが特別必要とか、そういうわけではないが」
つまり私的な誘いだと、九郎はいくらかの緊張を浮かべつつ告げた。断ろうかと思ったけど、迷った。情勢を知るのは良い事だしそれに……卑怯な僕は、九郎との主従関係を壊したいとは一切思っていなかったので、頷いた。
「そうですね……折角だからついて行ってみようかな。構いませんか?」
「俺が誘ったんだ、当然だ。出立は明後日だ。朝は早いからな、遅れるなよ」
「君より早く起きる自信はないですが、分かりました。気をつけます」
僕は冗談めかしつつ微笑んだ。九郎もつられたように笑った。
悪夢に起こされた僕が再び眠りについたのはほとんど明け方だったのだと思う。
瞼に光が落ちたのを感じて飛び起きた。簡単に身支度を整え馬小屋へゆけば、九郎は既に待っていたけどそう長く経ってはいなかった様で、顔を顰められる事はなかった。
あまり天気のいい日ではなかった。曇天。とはいえ雲からほんのり明かりは透けていたから、方向を見失わずに済んだし、初夏の煌々とした陽射しを浴びなくていいのも助かった。
彼と遠乗りなど久しぶりだった。距離を置いた春の日以降はもちろん、鎌倉に来た頃からずっと、僕は京へばかり行っていたし、九郎も頻繁に鎌倉殿の用件であちこち出向いていたようなので、昼間に共に過ごす時間もそうあったわけでは、なかった。
駒上でいくらか会話はした。少なくとも僕は『九郎の従者』としてあるべき程度には彼に親しげに接していた。恋愛めいた事を抜いた上で平静を保つのは、最低現僕の責任、あるいは道理だと思っていたから。
けれど鎌倉での暮らしは賑やかで、同じ家で寝起きしていても、驚くほどに二人きりの時間など、意図して作ったりしなければ無いものであったので、二人きりで遠出をするという、この誘いに対して、僕はたしかに身構えていた。
裏腹に。九郎は麗らかに馬を繰っていた。
「風が気持ちいい」
平泉から来た時に通った道を辿りながら、実に晴れやかに九郎は言った。
まるで何でもないように。まるで普段通りに。目を細めて風が愛おしいとでも言うように。
僕は馬の腹を蹴った。ぐいとあがった速度。襲いかかる風が僕の外套を重く引っ張った。
「弁慶?」
「折角ですから、やはり飛ばさないと」
九郎を抜き去っても緩めずに構わず僕は加速した。
「やるな!」
力強い蹄の音、ごうごうと耳元で唸り飛んでいく風の音に混じって、九郎の声は思いの他近くから聞こえた。
ちらりと見れば、九郎はすぐそこに迫っていた。
「さすがですね!」
僕は更に速めようとした、けど、振り返ってしまったせいで外套が変に風を絡めてしまって左へよろめいた。
「っ」
だからといっていくら賢い馬でもすぐに止まれるわけはなく、僕は馬首にしがみつき無理矢理体制を立て直した。重心が戻ってしっくりくると、正しい加速に高揚感が増した。束ねた髪が一層ふわりと浮いてうなじがさらされた。
「ああ、やっぱり遠乗りはいいな」
「だろ?」
「ええ。着いてきてよかったです」
再び九郎に並ばれて少し悔しい気もしたけれど、けれど僕は本心で、風に消えそうな九郎の言葉に微笑みを返した。九郎も笑っていた。
九郎と僕の距離は変わった。会話は減り、共する時間も減った。
けれど、逆に言えばそれしか変わらなかった。見えるわずかな時間の中では、主に夜を共にしなければ、僕と九郎は自分でも驚いたほどに、変わらなかった。ただ、挨拶をして、ただ、他愛のない話をして、ただ、笑った。
九郎は良く笑っていた。
駆けた後、大きな川へ出たところでしばらく馬を休ませた。丁度行程の半分ほどの所だった。草丈の低い、開けたところで僕らも水を飲んで、そしてまた馬にまたがり、川沿いに西へと上って行って。
そんな調子で目的地へ向かった。
着いたのは昼前だった。九郎は堂々と館の門を叩き、付き従う僕も共に中に通された。九郎と顔見知りだという、僕も何度か目にしたことはあった、鎌倉殿と旧知のその御家人に、無事書状を渡した。彼が返事をしたためている間に昼餉もごちそうになった。更に泊っていけばいいとも言われたけれど、兄上に早く返事を渡したいと九郎が頑なに断り、僕もそれを後押しし、結局一刻程の滞在で、僕たちは彼の邸を後にした。
外に出れば、内陸特有のむっとした暑さが平野に落ちていた。
「暑い」
「蒸してきましたね」
「平泉が恋しいな」
「京よりは過ごしやすいですけどね」
僕は外套を脱ぎ、馬に縛り付けてしまうことにした。
むき出しになった腕を日がじりりと焼いた。けれど涼しさ軽さには換えられるものではなかった。馬に跨れば、それだけで早速、川を抜ける風が肌を滑り心地よかった。
「行きましょうか」
「ああ」
ゆらり、と髪を大きく揺らして僕は手綱を握って、先に出た九郎の後を追った。
行きと同じように、川を今度は東へ向けて駆けた。
行きと違って言葉は少なかった。九郎は延々と僕の前を走らせていた。行きのように速さを感じるものではなかった、けれど、僕も抜きもせず、従者のようにそれを追った。葦が揺れる音と、川のせせらぎと、川鳥の囀りと。単一に繰り返される音だけを、少しずつ陰ってゆく日射しを、無感情に受け止めながら、まるで淡々と、僕は駆けた。
おそらく帰り道は行きほどに柔らかなだけの道程にはならないだろうと予感するには十分だった。
一刻経っただろうか、といったあたりで辺りで、行きに休んだ、川と街道の交わるところまで戻ってきた。
何も言わずに九郎は馬を止めた。僕も手綱を引き、問うた。
「休むんですか?」
「ああ」
「夜までに間に合えばいいですが」
馬に休息は必要だったとはいえ、ひらりと馬を降りた九郎の影は長さを持っていた。けれど九郎はごく真面目な声で指摘した。
「夏至もすぎたばかりだ。大丈夫じゃないか?」
「……そう、ですね。そうでした」
「忘れてたのか? お前にしては迂闊だな。考え事か?」
「そういうわけではないのですが、そうですね、少し忙しくて、日付の感覚が無くなっているのかもしれません」
「そうか」
(考え事を……していたのは九郎自身のことだろうか)
僕もひらりと馬を降りて、九郎と同様に荷を降ろし、草履も足袋も脱ぎ、馬に水を飲ませながら少し毛を洗ってやった。気持ちいいのか、ぶるぶると体を震わせたので、しぶきが顔にかかった。案外冷たかった。足をさらさらと洗う川の水も。やはりまだ夏の入りだ。
それでも川を降りる風の清涼さには息を吐かずにはいられなかった。上流を見据えながら僕は髪を遊ばせた。深く息を吐いた。あっというまにそれは浚われていった。
それでも何か、何も、変わるはずもなく。
休息を取った事で唐突に疲れを訴え出した足を動かし、川からあがり、この先どんどん気温は下がるだろうから、と、腰を降ろし荷から外套を解いていると、九郎が近づいてきた。 彼は自然な仕草で手頃な石の上に座った。足元には露草が、背後には紫陽花の株が揺れて彼を青く縁取り、澄んだ印象を挿していた。
変わらない。そう思えたのは、次の彼の言葉を聞くまでだった。
「……友人として、聞きたいことがあるんだ」
僕は手を止めてしまった。幾分低めの声音はぞくりと耳奥に響いた。人一人分離れた九郎を、見もせず、僕は再び手を動かし、外套を引き抜いた。
「…………なんですか?」
「俺は、うまくやれているだろうか?」
風に消えそうなほどに無難な声音で告げられたそれは、それは本当に意外なものだった。 僕はとっさに振りかえり彼を見てしまいそうになるのを堪えた。
帰り道に彼は何か言うのではという予感はあった。罵られるかと思った、お前は最低だと。身勝手だと。もう友としても付き合いきれないと、もう使者の役割も終わったこの時ならば言われるかと思っていた。それだけの事を僕はした。
なのにそんな……本当に友人か、否、それ以上の相手に問うような無防備な言葉を紡がれるなんて、思っていなかったのだ。
気を落ち着けた後、外套をきつく抱えながら改めて僕は顔を上げた。九郎は弱気な目で僕を見ていた。
いつにない顔。
返したい言葉なら決まっていた。
(ええ、九郎。君は頑張ってます)
……決まっていた。
「まだまだですね」
なのに、まるで感情の籠っていない言葉を紡いでしまって、僕は反省した。
「君は配下の方々の使い方がなってなさすぎです。そう、少し、厳しすぎる」
だから続けて、今度はきちんと心を込めて返せば、九郎は小さく息を飲み、でもすぐに問い返してきた。
「甘やかせというのか?」
「違いますよ。君はもともと有情です。けれど、言葉選びが悪すぎるんです」
「……本当のことを言ってるだけだ、何が悪い」
「訓練についていけていないことを指摘するのに、もう帰れ、なんて言われたって理解できるはずないでしょう」
「帰った方がいいから言っているんじゃないか」
「明らかに疲れている人に休養をとって欲しいのに、その言い方は駄目でしょう、と」
(それが君の美徳のひとつでは、あるのだけれどね)
応える僕に、九郎の語気もどんどん荒くなっていった。目に火が灯った。
「じゃあ何か、お前みたいにだらだらと回りくどく喋ればいいっていうのか」
「そんなこと誰も君に期待などしないでしょう? けれどゆっくり休養をとってまた来い、とか言えばいいのではないですか。君がそう言葉をかけるだけで、随分状況は変わると思います。あとは鍛錬の話なら他にも。体調ではなく実力が伴わずについていけていない方もいますよね。そういった人たちにこそ、君が直接指導して差し上げてもいい。違いますか」
「俺はそんなに暇じゃないし、教え方など知らん」
「ええ、確かにそうでしょう。ですが君自身の鍛錬のついでならどうですか? 君の言うとおり誰かに教えるということは易しくはありません。だからこそ、君の実力もあがるかもしれないと、僕は思います。信頼というのはそうして上がってゆくのでしょう」
「……俺は別に、あいつらを信頼している。それでいいだろ」
「良くないですね。全く良くない。それが相手に伝わらないなら意味が無い。ただでさえ君は今は『鎌倉殿の弟』という、難しい立場なのに」
「そんな他人事みたいに言うのか!?」
ついに叫んだ。馬が嘶いた。鳥が羽ばたいた。そして、静寂。せせらぎだけが僕らを包んで、九郎は、すぐに冷静を取り戻した。
「……すまん、悪い。八つ当たりだな」
「ええ、そうですね」
淀みなく返した僕に、九郎の瞳が再度弱弱しく揺らいだ。
「本当に、お前はもう俺が…………いや、なんでもない」
消えていく。風に溶けるかのように、川に浚われたかのように九郎の瞳から先程灯った強烈な意志が消えていって。
「……こういうところが、駄目なのだな」
「そういうところも、ですね」
「…………そうだな」
そして、苦々しい笑みと共についには沈黙した。彼を縁取っていた花の青が悲壮感を増長させるようにさえ見えた。
手折ってしまいたい衝動に駆られた。けれど、僕はただ静かに外套を抱きしめて。
(だから、僕がいるでしょう?)
(僕がいればきっと、君にかけているところを補える。補ってみせる)
(君の素直で優しい気持ちが上手く伝わらないなら、伝えきれないなら、僕が代わりに伝えればいい。鍛錬をつけてあげたいなら、仕事を請け負いましょう。辛抱強い君が愚痴をこぼしたいなら、僕が夜中までだって付き合う)
前なら容易く言えたしできたことが、こんなにも難しくなっていた。
(僕の想いは変わってないのに)
「それでも、」
僕は紡いだ。
「戦が起きれば君は称えられるでしょう。馬術も剣術も、君はずっと磨いてきましたからね」
(……ああもう、起こせるものなら起こしてしまいたいな、戦を)
(そうすれば、そうしなければ、僕の罪も消せるのに)
(…………開放してしまえるのに)
俯いている九郎からは見えぬ位置で、ぎゅっと袷を握りしめた僕の頬と、一際冷たい風が撫でた。
天を仰げば、いつの間にか朝よりずっと厚く重苦しい雲が広がっていた。
「…………帰るか。嵐が来そうだ」
僕に倣った九郎が零した。そうだろうか、僕は思いながらも同意した。
「ええ。戻りましょう」
「……そうだな。帰ろう」
立ち上がって僕を見降ろした九郎は笑っていた。と同時に、何かを飲み込んだようにみえた。
でも、僕はやはり、追及はしなかった。
彼の目に浮かんだ色の、少なくともそのうちのひとつを、僕は知っていたのだから。
外套をしっかりと羽織っていると、視線が気になって、ふと振り返れば九郎が馬上からこちらをひどく曖昧な顔で見下ろしていた。
「すみません、お待たせしてしまって」
「いや、お前、やっぱりそれ、似合わないな」
「……酷いですね、これ、気に入っているんですよ」
「ああ、それは知ってる」
(君こそ、その笑い方、似合わない)
僕も馬に乗って、そしてまた、元来た道を走らせた。
まっすぐに棚引く九郎の髪を見ながら彼を追いかけた。
揺れる橙はどこまでも、当たり前に彼を追っていた。波打って軌跡のように鮮やかに彩っていた。
宵闇に包まれても消える事のなさそうなそれを辿っていた。無言でついていくつもりだった。
けれど、次第に少しずつ離れてしまっていた。多分ぼんやりとしていたせいだ。九郎の姿が美しかったせいだ。理由は分かっていた。僕はとっさに追いかけた。
振り返って欲しくなかったからだ。その向こうで彼が浮かべているだろう顔を、僕は無意識に、自動的に脳裏に描いてしまっていて。それが見たくなかったのに。
なのに気付けば呼びかけていた。
「……僕も、ひとつ聞いていいですか」
それでも小さな声で、ただの気まぐれで。届かなくてもいいと思っていた言葉だった。彼との間には強い風が吹いていて……まるで呻き声のような風音に遮られて、聞こえないだろうと思っていた。
なのに九郎は馬の手綱を引いて速度を落とした。すっと馬が並んだ。
「呼んだか?」
そしてこちらを見た、予想通りの瞳に逡巡してしまった。声をかけたのは僕の方だったと云うのに。
なんでもない、と、誤魔化すこともできただろう。けれど結局、僕も馬に速さを落とさせた。
「少し……君に聞いてみたいことが、あったんです」
「……」
無言の九郎を肯定ととった僕は、喉を、音を、震わせた。
「君は……どうして君は、そうも頑なに……まだ平泉に着いたばかりの頃から、あんなにも源氏の血を引く者として、武士として生きようと、生きたいとしていたんですか?」
聞いたのは、衝動的なものだった。自分でも、どうして口にしたのか分からない質問だった。ただ……ずっと悪夢が消えなかったから。風を切っていても川の水に足を委ねていても消えなかったから、きっと聞いてしまったのだ。
九郎はずっと、源氏として生きたがっていた。それは例えば、この時点の頼朝に仕えたいと、こんなに力を持ち始めていた彼に合流したいと願うのは自然ではあったと思う。実際そういう武士たちは多かった。
けれど九郎が源氏であろうとしていたのは京にいた頃からだ。あの頃は『兄が伊豆で生かされている』という事しか、九郎よりもよほど不自由な暮らしを強いらられているという噂しか、僕たちは知らなかった。その存在は、九郎の助けどころか足かせになるかもしれなかった。
なのに、九郎は兄を助ける事をずっと目的としていた。押しつけられた、打倒平家というあまりにも大きな悲願に向き合い続けていた。
いくら武士として生きることと引き換えにするといえども、あまりに重く、遠く、現実味もなくて。
(今にして思えば)
いつ達成できるかなど、できることがあるのかすらも分からないそれは。
先の見えぬ未来は。
(絶望だったのでは、ないのかと)
(それでも九郎は一途にも)
「……この名を受け継いだんだ、当たり前の事だ」
そう一途にも、静かな静かな、夕暮れ色の瞳のままに、風の向こうで答えた。
「当たり前ですか」
「そうだろう」
「ですが」
「俺は幸運だったから」
続けられた言葉を紡ぐその声音は、実に淡々と、当然として。
「仇を討ちたいと望んだ。それを叶えられる血が流れていた。道や武を教えてくれる人がいた。支えてくれる人もいた。奇遇にも。これ以上、他に何の理由がいるというんだ?」
流暢で。
「だから、俺は夢を叶える。この手で、必ず」
「夢」
「そうだ、夢だ」
「夢、ですか」
遠目には、その顔はいびつにくすんでいるように見えた。
「それだけあれば、生きていける。お前なら……分かるんじゃないのか?」
(聞かなきゃよかった)
僕は悔やんだ。
(代償に愛と、僕とはぐれても)
(九郎は)
彼の瞳に、水面のきらめきと共に浮かんでいた感情のひとつは、たしかに失意だったのだ。
「……日が暮れる。そろそろ行くぞ」
「…………はい。変な事を聞いてしまってすみませんでした」
九郎が再び前を向いた。当たり前のように手綱を握り、長く伸びた影が遠ざかって行った。
黄昏を前に雲が厚くなっていた。灰色の風景。滲みだしそうなそれはそれぞれに僕らを包んで、
逃れる術はもう、なかったのだ。
イメージはいちおう現埼玉って感じで書いたよ!イメージだけ!
遠乗りって何する事なのか遠乗りって言葉を小説に取り入れ始めて10年くらいたつんですけど未だに分かってないです
(07.01.2015)