「いいえ、なにもありませんよ」
虚ろに揺れる天秤を見ていた。平衡を取り動きを留めようとするたびに、僕が匙を傾け次々薬粉を足していくものだから、それは頼りなく揺れ続けていた。揺らされ続けていた。息を詰め僕は見詰めていた。慎重に、少しずつ薬を混ぜていた。けれど、少しの油断で匙加減を誤り天秤が大きく傾いてしまった。
はあ、と、潜めていた息を一気に吐いて、僕は薬包紙を天秤から降ろし、中身ごと丸めてその辺に投げ捨てた。
「はあ、駄目だ失敗」
一度で飽き足らず、くしゃりと前髪を掴んだあとにもう一度溜息を落とした。しばらく瞼を閉じそれでも振り切ることができずに体を倒してから更に「あー」だの「うー」だの意味のない音を発してしまった。既に数回目の失敗だったのだ。貴重なものではなかったけれど、だからといって気にならない訳ではない。
そうしているうちに、遠くからばたばたと足音が聞こえた。そして予想通りの姿がすぐさま部屋に飛び込んできた。
「弁慶弁慶……っ!?」
彼は全く勢いを殺さず踏み込んだ。そのせいか、或いは運が悪かっただけなのか。即、九郎の足がずるりと滑った。僕が投げ捨てた紙くずを踏んでしまったのだ。
「っ!」
それでも体勢を大きく崩さなかった彼をさすがと褒めるべきか、足を滑らせたこと自体が珍しいというべきか。浮かんだ感想を、けれど口には出さずに淡々と見ていたら、九郎がやはり駆けてきた勢いのまま、踏みつけた物を指しつつ言った。
「なんだこれは!!」
「配合を間違えた薬草ですよ。で、君こそなんですか、そんなに騒々しく走って。何か大事な事があった風には見えませんけど」
「話をそらすな。お前さすがにこれは散らかしすぎだろう! 塵屑があちこちに落ちてるし、訳の分からぬ薬も広がってるし! こんな風に平気で放って置くとか、童でもするものか」
「責任転嫁は可愛くないですよ。そもそも君の注意不足が原因でしょう、今のは」
「責任を転嫁してるのはお前だろう!……だから日頃から散らかしておくなって言ってるのに! 俺じゃなかったらどうしたんだ」
「そんなに落ち着きないのは君くらいじゃないですか。もうじき君も20でしょう? そんなんでいいと思っているんですか」
「関係ない」
「ありますよ。事実です」
「うるさいくどいもういい黙れ」
走ってきた時と一転、九郎はすっかりしかめ面になっていたけれど、それでも結局、僕の隣に音を立てて座り胡坐をかいた。
無意識にまた溜息をついてしてしまった、と、気付いたのは九郎が僕を睨んだ視線ゆえだった。それにもう一度、息を落とした。気を逆立てる彼がひどく億劫に思えて、言葉を交わしたい気分ではなかったけれど、沈黙しているのも、見下ろされているままなのも具合が悪かったので、起きあがり、再び薬材を天秤に乗せながら声をかけた。
「それで、何の用だったんですか?」
「…………他愛もない話だ。もういい」
「今更……気になるじゃないですか。あんなに慌てて来たのに」
「……道を金に似た犬が歩いていただけだ!」
「…………」
「だから言ったのに」
確かに、他愛もない話だった。思わず無言で視線を向けてしまえば案の定、九郎はぶすっと、だから言っただろうと言いたげに僕を見ていた。
こんな気分でなければきっと綻んだのだろう、と思えば、また溜息が落ちた。
(……金、か)
それでも、離れてから一年以上を経ていた彼の、わん、と愛らしく鳴くその声は記憶に残っていて、懐かしさに赤くたゆたう平泉の夕暮れに想いを馳せてしまいそうになったけれど、九郎に遮られた。
「で、お前は?」
「僕は君に用事はないですよ」
「そうじゃなくて」
僕は反射的に刺を隠さぬ声で返してしまったし、九郎の眉間にはなおも皺が寄っていた。にもかかわらず、九郎は僕の両頬……というよりは、両耳を、ぐいと掴んで自分の方へ向けて、投げやりに言った。
「なにかあったのか?」
「何か、って?」
「昔のお前を知る奴に脅されてるとか、お前の兄上に何かあったとか」
「……はい?」
「気落ちしてる」
「気落ち……」
感情を控えた口調とは裏腹に、あまりに突拍子もないことだった。
「……別に、落ち込んでなどいないですよ。ああ、でも貴重な薬草を無駄にしてしまったのは悔しい」
「それだけじゃないだろ?」
「…………だとしても、僕が脅されて落ち込むと、君は思うんですか? それに人の兄に勝手に事件を起こさないでください」
「だったら一体なんなんだ」
「だから、何がですか? 君こそ言いたいことははっきり言ってください。そこが取り柄なんだから」
慰めたいだけなのだろうかと思っていた。けれど、含みのある九郎の言い方に僕が刺を返すと、一瞬迷いを見せた後、気に食わない、と言いたげに白状した。
「……じゃあ言うが、お前、京で何かあったんじゃないのか? 戻ってきてから様子が変だ」
「京で……」
「ああそうだ。さっきだって、あれくらいで目くじら立てないだろ、お前は」
僕はぴくりと眉を動かしてしまった。
確かに自分の態度が悪かった自覚はあった、けれど、まさか見抜かれるとは思わなかったのだ。
「君の行いが悪いだけでしょう? 僕のせいにしないでほしいな」
「いいや。お前は絶対に変だ。何かあったんだろ? 話なら聞くぞ」
肯定したも同然の僕を、九郎はじっと見つめていた。
(『何か』……)
ぎゅっと手を握りしめた。柔らかな息が零れた。逡巡した。顔を歪ませ目を伏せてしまいたくなった。
簡単な計量を何度も失敗するほどに自分を波立たせる原因も勿論、知っていた。聞き出そうと気にかけてくれた事実がいくらか堪えた。それでも。
「いいえ、なにもありませんよ」
そう、なかった。九郎に語れることは、何も。
龍脈を穢し消しさる呪法を使い始めて一年。どうなっただろうかと、久方ぶりに京に行った僕は、街に踏み入れるなり吐き気を覚えた。
気が重かった。停滞ですらなかった。禍々しい何かが、かの町を蹂躙していた。
龍脈が止まったままなんだ、と、思ったのは直感だった。けれど確信だった。龍脈だの気だの、陰陽師でなければ霊力すら弱い僕に見えるものではなかったけれど、それでも分かるのだから深刻だっただろう。
そのまま僕は京の町を彷徨った。
少し歩いただけで、人々の暮らしにまで影響が出始めているのも分かった。市に活気がなかった。話を聞けば今年の京は稀なほどの冷夏で米どころかほとんどの作物が不作だったらしく、まだ冬の入りだというのに春まで食料が持つのかと誰もが不安を隠せずにいた。
呪詛は冬に戻る前に止めていた。夏に応急処置として、留まった五行を巡らせる法も行っていた。もう一度確認すれば、やはり祓ってあった。もしかしたら逆効果だったのかもしれないから、夏に仕掛けた巡りの法は止めてきた。けれど、それで良くなるとは思えず、かといって、他に手段も見出せず、
……いっそ、僕が罪に問われようと解決してくれるならば構わないと思った。思いながら、
なにひとつ収穫などないままに鎌倉へと帰還したのだった。
「何もない、か」
九郎はなおも疑っているようだった。僕は当然のように返した。
「ええ。無いです。あるわけないでしょう?」
「何かやましいことでも隠しているんじゃないのか?」
「……そういう君こそ、あるんじゃないんですか?」
「俺は、無い」
すっと起伏を無くした声音に、強すぎる視線に、嘘だ、と思った。ただの直感だ。けれど追及はしなかった。
「そうですか」
向こうの嘘を暴けばこちらも手の内を明かさなければならなくなる。それならば、九郎が何か悩んでいるならば別の機会に聞けばいい、と思った。
だから、僕はこの話はここで終いにしてしまおうと思い、天秤を片付ける振りをして立ち上がり彼に背を向けた。
多分、繕えて無かったと思う。……九郎だから繕いたかった。けれど、九郎だから無理だった。
現に、彼はまだ話を続けた。
「……弁慶、道理に恥じる行いはするな。お前はそういうことのできる奴じゃない」
その上確信を突くような事を言ってきた。……彼は、この時点で何も、僕の一切を知らなかった。それは後から知り得た事実で、これは彼の鋭すぎる勘ゆえの発言でしかなかった。
ただ、この時の僕はそんな事を知る術もなく。必然的に取り乱した。
「君は……さっき僕にしつこいと言ったくせに、君こそいつまで続けるんですか? もう一度言いましょうか、そんな仮定の、君の思い込みの話をするより、『鎌倉殿の弟殿』にはもっとやるべき事があるでしょう?」
「お前が心配なだけだ!」
強引に話を逸らせば、突然九郎の語調も変わった。振り返れば顔色も変わっていた。ああ、確信を踏み抜いたんだな、なんて僕は思った。気付かれたのを悟ったのだろう、九郎は一瞬しまったという顔をした後、仏頂面で誤魔化した。
「ちがっ………、……そう、心配なんだ、俺は。お前は、お前はすぐ嘘をつくから、」
「ひどいな、まるで信用がない」
「だってお前、優しいから、悩んでてもあんまり言わないし」
そしていくらか平静を取り戻した九郎は、暗く呟きながら、ぐい、と下から僕の手を引いた。そんな姿だけ見ていれば、本当に彼は僕を心配してくれている風だった。事実そうだったのだろう……僕とは、違って。
「最近、あまり笑ってないし」
「笑ってるじゃないですか、ほら」
「……目が笑ってない」
「気のせいですよ」
「……」
笑顔を作りながら、だったら抱きしめてくれればいいのに、と思った。ひどくそうされたい気分だった。そうすれば安堵の息を落とすことができたかもしれない。間違いなく、悪かったのは僕の方だ。彼に言えない事をしていたのは僕だ。それでも、抱きこまれて赦されていると勘違いしてしまいたかった。そうして誠実な彼の心に愛おしさだけを返していたかった。
けれど九郎はただ手を握って、ぽんぽんとも弄ぶように包み込んでいただけで。
ならば、僕はもう苦笑するしかなかった。
「……分かりました、九郎。君に余計な気を回させてしまっていたんですね。すみません」
「余計なんかじゃ! ……いや、うん、俺も悪かった」
すると漸く気が抜けていったような顔を見せた彼に、今度こそ僕はにこりと微笑んだ。
「仲直りに、接吻でもしましょうか」
「え、あ、うん、……そうだな」
そう言って、いくらか離れた時、九郎もはにかみながらも微笑んでいた。僕の言葉に、纏う表情に簡単に綻んでしまった。簡単に。
そんな九郎は好ましい。筈だ。それは彼の美徳で、また、僕に好都合であるはずだった。けれど、この時の僕は突き放されたような、隣でこうして手を繋いでいるのに遠くにいるような寂寞を感じてしまっていた。
(『優しい』、か)
九郎は僕をよくそう評していた。けれど僕から言わせればそれは九郎が僕を知らないだけだった……彼がそんな事を言うのは、きっと真っ当な九郎の世界は綺麗なものだけでできているからで、ゆえに、彼の中の僕もまたそのようなもので構成されているのだろう、としか思えなかった。
優しいというなら九郎の方だ。
それ自体が不満だったわけではなかった。僕の事を理解して欲しいなんていうつもりもなかった。少し諦めていた部分もあった。けれど、ただ、
僕らは同じ所に立っているようで違うのだという事実は、時として、僕の視界を曖昧にした。
彼の柔らかな想いは僕に確かに向かっているのに、包んでいるのに、それは僕に溶けこめず流れていくばかりで、僕はただそれを冷静に見つめてばかりだった。
そんなことをしているからきっと何かが少しずつ通り過ぎていって、気付かない。あるいはもう、既に状況は満ちていたのか。取り返しのつかないほどに。移行しなければならないほどに。
「紫陽花」
現に、唇をゆっくりと離しながらふいに九郎が呟いた言葉も、僕は聞き漏らしていた。
「え?」
「紫陽花は色の種類の多い花だろ? ……お前みたいだって思った事がある」
「僕、ですか?」
「お前は結局、掴みどころのないやつだな、と言うことだ」
幸いな事に、会話の流れはつかめたけれど、言ってる意味が分からなかった。けど言い得て妙だと思った。
「結構的確な例えかも」
「雨の中でしとしとと咲いているのはあまりお前っぽくはないけどな」
「ふふ、それはそうかも」
珍しく、素直に華やいだ声を零してしまった。だって紫陽花は偽りの花。まさに相応しくて、笑わずにいられなかった。
「嬉しそうだな」
「ええ、僕も好きでしたから、昔から。鎌倉にもあちこちにありますし、君の傍にずっといられるような気がしてしまう」
「そんなの……っ、居ればいいだろうが、何の問題も無い」
「確かにそうですけどほら、僕、あちこち行くでしょう?」
「ああ、それはもう一生治りそうにないな」
「ね?」
「開き直るな! って言っても、無駄か。仕方ない奴だな」
『ええ、だから僕がいない時でも、花を見るたび僕を思い出して』とは、言えなかった。言えはしなかった。
予感は既に十分に膨らんでいた。
考えなければならなかった……裁きの時が来たら……その時の、振る舞いを。
九郎の笑顔はやっぱり綺麗だった。僕は手を握りなおした。
どこに書いたかもどこに書けばいいのかも分からなくなってしまったのでここで補足だけど
「次に京に行く時は俺もつれてけ」っていう約束を35話目くらいでしてたんですけど
九郎は鎌倉殿のとこに来ちゃったからもう動けなくなっちゃったよ、ってことで無かったことになっている!
(12.26.2014)