「僕たちは日が昇るより前に旅立った」
そして僕らは鎌倉殿の次の動きを待ちわびた。
とはいえいくら僕でも坂東に潜入するのは至難の業だったから直接見聞きできたわけではないし、僕らが直々に誰かを使いに出せるわけでもなかったので、ただ、御館の元に報が入るのを待っていただけだった。
落ち着いていられない九郎はあの日から毎日鍛錬に励んだ。剣だけじゃなく、馬や、今まであまり触れてこなかった弓も。金と遊ぶ時間も減った。それでも金が寂しそうに九郎の所に遊びにくれば、金と遊ぶことに徹した。泰衡は、そんなに犬に肩入れするか、と、相変わらずの口の悪さで言っていたものだけれど、九郎の遊び方は激しくて十分運動にもなっていたし、そもそも大事な友を邪険にする九郎ではなかったので、泰衡の言うことなど気にも留めなかった。
僕といえば、大方、かの術についての平泉でできる下準備は終えてしまっていた。だからといって、いつ東国で動きがあるか分からない最中、京に行くことなど……できないほどには僕だって、九郎の傍にいたかった。
ので、薙刀を振るってみた。やはり泰衡殿に、これは珍しい夏なのに雪が積もるな丁度いいとか嫌味を言われたもので、実際久方ぶりすぎてしばらくは筋が痛んだ。ついでにと弓もたしなんでみたけれど、そちらはいよいよからきしで、武家の子息なのだから当然といえばその通りだけど泰衡殿よりも下手なほどで、いくらか悔しかった。けれどどれだけ構えを直そうと的が見えないのだから仕方がない、と、僕は早々に諦めた。
そんな僕らの様子を、御館がよく覗きにきていたのを覚えている。
九郎が気付いて駆けよれば、御館はいつだって笑顔で彼や僕を褒めてくれた。けれど、そうではない時は渋面ばかりを浮かべていた。僕は、ああ御館はきっと、九郎を鎌倉に行かせたくないのだな、と思っていた。
御館だけでなく泰衡殿もだった。あの性格だ、正面切って行くななんて言わなかったけれど、頼朝殿の発起の話が出た時以来、平泉に九郎が長く住まう仮定の話を……たとえば、10年後の話や、泰衡が後を継いだ時の話(これは九郎は不謹慎だ!と怒っていた)など、僕らがいつまでも平泉にいることを前提とした話を雑談に交えてするようになっていた。
もちろんただの願望などではない。そんな腑抜けた泰衡殿ではない。案に言っていたのだろう、ここにいろと。争いに加わるだけ馬鹿馬鹿しいと。それは、ここずっと京で起こっていた動乱を静観してきた彼ららしい考え方だった。
それを僕がどうこういうつもりはない。むしろ、僕らをそこまで思ってくれた彼らには今でも感謝は絶えない。
けれど、僕らは平泉で生まれ育ったわけではなかった。やはり僕らは都に想いを馳せていた。
あんなひどいところだというのに、あの街は僕たちにとって……郷愁などではないない、それはありえないけれど、大きな存在だったのだろう。いつかまたあの街へ九郎と。もちろんその暁には堂々と源氏の武士(とその郎党)として、と、悲願を背負った御曹司ではない僕も思っていた。
夏が過ぎた。一向に頼朝殿の情報は僕たちには届かなかった。けれどある日、高館の館を珍しい人物が訪れた。
「久しいな、御曹司殿」
低い声、相変わらずの強面で、けれど朗らかな声で訪れた彼を九郎は笑顔で迎えた。
「清伸殿!」
御館の郎党の藤原殿だった。特に、九郎はよくお世話になっていた筈だ。
「ご無沙汰しております」
「弁慶殿も元気そうでなによりですな」
「それより、どうしたんですか? 何かあったんですか?」
「ああ。何かあった」
あまりにも急な来訪だったので、隠しもせずに慌てる九郎に、藤原殿は頷いた。
「清盛入道殿が、君の兄上、頼朝殿の追討令を出したそうだ」
あまりに重大な話だった。僕らの空気は一変した。
「なっ……、それは、真ですか!?」
「うむ。御館の命で京と坂東に入っていた者、それぞれからの情報だ。間違いない。入道殿は、孫である惟盛殿を大将に据えて大規模な追討軍を坂東に向かわせようとしているとか」
「それで、頼朝殿の方は」
「ああ。どうやら頼朝殿の元にも、坂東の有力な武家がいくつもお味方すべく駆けつけているらしい。もちろん、皆が皆味方、というわけではないだろうが」
「兄上が……ついに兄上が」
九郎の声は震えていた。僕は九郎を見た。しっかりと彼は頷いた。
「……行こう弁慶。こうしてはいられない! 清伸殿、情報感謝します」
けれど、そんな九郎を清伸殿が即、諌めた。
「御曹司殿、慌てすぎだ。もしや、今日出立するつもりではあるまいな」
「勿論です」
「それはよくない。明日になされよ。その勢いでは馬を潰しかねませんぞ」
「ですが、落ち着いてなどいられませぬ!」
「大丈夫だ、九郎殿。むしろ、そんなに無様では御曹司の名に恥じるだろう。今日はゆっくり休んで英気を養うが得策であろう。なあ、弁慶殿」
「それは……、」
「僕も賛成です。九郎、今の君は御館に賜った戦装束ひとつ纏って準備ができたとか思っていそうですからね」
「弁慶」
「そんな顔しても駄目ですよ。僕が京に行くときだって、何日も前から準備しているでしょう?」
「備えあって憂いなし、ですからな」
「……」
清伸殿のお陰で助かった。彼の穏やかな口調に、九郎は少しずつ落ち着きを取り戻していって。
「そうだな。明日にします。何もかもかたじけない」
と、力の抜けた顔で頷いた。こうなればもう大丈夫だった。
「何、それよりいつか九郎殿が武運をあげられた折に、いい布でも送ってくだされ。それで娘に着物でも作りましょう」
「ああ、必ず!」
「はっはっはっ、頼もしい! それでこそ御曹司殿だ。では、御武運を祈るぞ!」
そして、清伸殿もやはりしっかりと頷いて馬に跨り、軽く片手を挙げた後に去っていった。嘶きも足音も遠ざかっていった。消え切る前に、遠ざかる騎影を見送りながら、九郎が言った。
「ということだ弁慶、だからゆっくり支度しろ」
「そうさせてもらいます。だけど……」
「何だ?」
「いえ……、」
懸念があった。言ってもいいのだろうか、と悩んだ。けれど時間も無いし、やはり、知らぬふりで行く事はできぬだろう。
「御館は、やはり僕らが行く事に反対なのでしょうね」
「……ああ」
でなければ、御館が僕らに知らせてくれるはずだった。つまり、そういう事だ。
分かっていた。御館は裏のある人ではない。そう疑っていた頃もあったけれど、この頃はもう違うと知っていた。ゆえに純粋に九郎を心配して行かせまいとしてくれているだけだったのだろう。いくら京では帝と平家が覇権争いをしている最中だとはいえ、平家は未だ、容易く打ち破れる相手ではない、というのが常識だったのだから。
それでも九郎は言った。きっぱりと言った。
「けれど、挨拶はしていかなければならない」
「止められるかもしれませんよ。泰衡殿あたりはもしかしたら君を監禁でもするかも」
「それでも、俺は行く。御館には返しきれない程の恩がある。でもここにはもういられない」
ああ、それでこそ僕の九郎だ、と、僕は微笑んだ。
「分かりました。では、先に御館のところに行きましょう」
「そうだな」
けれど、御館は僕たちが思っていたよりも頑なに九郎の出立に反対した。隣に控えていた泰衡殿が口を挟む間すらないほどに、ならん許さんの一点張り。
それを裏切ることは、いくら僕でも悲しかった。九郎なら尚更だったろう。それでも簡単に屋敷の中を片付けて、明朝、僕たちは日が昇るより前に旅立った。まるで平泉に来た時と同じように、二人きりひっそりと旅立った。
御館が九郎を止めたことは正しかった、と、今になって知る。
そんな人に……僕のこれまでの生涯のなかで間違いなく一番の恩人であった御館に、結局僕は、たったの少しも恩を返すことができなかった。
(02.21.2013)