「報せはいつだって突然飛び込んでくるもので」
報せはいつだって突然飛び込んでくるもので。
とはいえ僕は比較的、情報を自ら先に手にいれようとするのが好きだから、多少の心積もりができている場合が多いのだけれど、この時は予想すらしていたなかったので、僕はたいそう驚いた。
「弁慶!」
なんでもない晩夏の頃合だった。朝に泰衡殿のところへ出かけた筈の九郎が、すごい勢いでやってきた。
「どうしましたか?」
僕も、毛越寺にいた。静寂の中に飛び込んできた九郎に僕も僧たちも騒然とした。けれど九郎は気にも留めず、挨拶すらなく一気に言った。
「兄上が、兄上がついに挙兵されたらしい!」
その言葉に予定変更、僕らは伽羅御所の御館のところへ向かった。
「……それは、事実だ」
突然押し掛けてきた僕たちを、御館はいつものように歓迎してくれた。
そして、平泉の伝令がが見聞きしてきた事を惜しむことなく僕らに教えてくれた。
「どこで、誰と戦ったんですか」
「伊豆目代と聞き及んでおる」
「伊豆の……?」
「だが、目代を倒したものの、周囲の平家勢力に押され、敗走したということだ」
「兄上が!? それで御館、兄上は」
「なんでも、平家の武将が裏切り逃げる手助けをしたとかで、頼朝殿の命は無事だとか。きっと再起を図っている最中であろう」
そんな事を言われてしまったら。九郎は話の途中にも関わらず立ち上がった。
「行こう弁慶! 兄上をお助けしなければ!」
けれどそれは御館に一蹴された。
「ならん!」
「御館!?」
「今はまだ尚早だ。合流する前に見つかるやもしれぬ。そもそも頼朝殿の居場所も定かではないのだ、仮に貴殿が後を付けられたりしたらどうする。九郎殿はあのあたりの勢力も、誰が敵で誰が味方なのかすら知らぬのだぞ」
「だが、それでも兄上が……兄上になにかあったらそれこそ終わりだ!」
「それは東国の皆が一様に思っていることだ。だからきっと皆が頼朝殿をお守りするだろう。だから御曹司、ここは堪えよ。貴殿の出る幕ではない」
邪魔するだけなのだと御館は言った。きっぱりと。
珍しいことだった。
「それに、まだ頼朝殿の力は足りない。京の清盛が本気を出そうものなら、源氏が一気に滅びようぞ。そうしたら何にもなるまい。母君も亡き父君も御嘆きになれよう」
「ならばますます俺は今行かなければならないでしょう、御館。俺はこのために武を磨いてきました。きっと戦で功績をあげてみせます。だから」
「それでも、だ。そもそも儂は、九郎殿、貴殿が頼朝殿のところに行くのを良しとしていないのだ。貴殿もこの土地が気に入っていると見える。だからもう少し、もうしばらくここで力を付けられよ。それに、先程は清盛が本気を出せば、と言ったが、平家側も今は福原遷都に目を向けているのだろう? ならば源氏を討つことに力を裂くこともないだろう、ゆえに、もうしばらくは均衡状態が続くに違いない。それからでも遅くない。早まるな」
譲らぬ御館に、九郎はふるふると拳を握りしめた。瞳に浮かべているのは怒りではなかった。悲愴そのものだった。それでも御館は譲らなかった。僕らが普段垣間見ることもない奥州藤原家当主の冷徹さだった。意に反する事を言おうと息を吸っただけでも潰されるかのようだった。
それでも九郎は頷くこと無く、唇をかみしめながら飛びだした。
「九郎!」
僕も腰を上げた。そこに、御館から声がかけられた。
「弁慶殿、御曹司を……くれぐれもよろしく頼む」
「こちらこそ、感謝します、御館」
そして彼を追いかけた。
高館の家まで戻っても九郎はいなかった。馬に乗ってどこかへ行ってしまったらしかった。
僕は不安を覚えた。探しに行こうかとも思った、けれど、九郎を信じて待った。
一日帰ってこなかった。もしかしたら本当に鎌倉まで行ってしまったのだろうか、と頭をよぎらなかったといえば嘘になる。それでも僕は待った。もう一日経った。泰衡殿も心配したのか一度様子を見に来たけれど、すぐに柳之御所へ戻っていった。そしてまた僕は一人になった。
戻ってくる確信はあった。だから僕は高館で彼を待っていたのだけれど、けれどなにも手につかなくて、ぼんやりと庭など眺めてばかりで、僕を待つ九郎の気持ちはこんななのだろうか、と思えば、なんだかいっそう九郎が心配になって、四日目にしてついに、僕は九郎を探しに行こうと、支度をした。馬にまたがったところで、九郎が帰ってきた。
「九郎」
「……ただいま」
とても罰悪そうに戻ってきた九郎はくたびれていた。
「大丈夫ですか? ……風邪とか、ひいてませんか? 昨日は雨も降っていたけど」
「ああ……前に見つけた雨風をしのげるところで不貞寝してた」
「あの東の山の?」
「知っていたか?」
「前に連れてってもらったことがありますよ。忘れてしまいましたか?」
「そうか、すまない」
「謝ることではないですよ」
僕は微笑み、馬を繋いだ九郎に手を差し伸べた。九郎はそれをとらなかった。じっとみて、顔を背けた。
「湯を沸かしましょう。少し疲れたでしょう?」
「いや、俺は」
「いいから」
僕は強引に九郎の手をつかんだ。九郎の手は小さく震えていた。
「おかえりなさい、九郎」
僕は振り返らずに言った。うん、と、震えた声が聞こえた気がした。
(昔はあんなに勝手にどこにでも行っていたくせに。僕なんてしょっちゅうどこにでも行っているというのに)
「君が無事でよかった」
それだけで、君はどこにだって行けるのに。
九郎は兄の所へ行けない焦りを、一人で随分と片づけてしまったみたいで、その後も落ち込んでいたみたいだけれど、もう暴れたりはしなかった。
「僕はそれが少し寂しいな」
と正直に言ったら、
「……お前は俺が情けない方がいいのか」
と、九郎は彼らしい受け取り方をして、
「お前も俺が兄上の役になどたてないというのか」
更におかしな受け取り方をした。それでもそれきり黙って、彼がいつもするように癇癪を起こしたりはしなくて、僕は九郎が心配になった。
「卑屈にならないで、九郎」
「ならずにいられるか。俺だって本当は兄上のとこに行きたいのに。それなのに」
「それでも君は一人で行かずにここに戻ってきたんですね。それはどうして?」
「…………」
「御館の言っている事が正しいと思ったから?」
「………………」
冷やしておいた杏を出しながら僕は問うた。九郎はじっと眉を寄せたままぴくりとも動かなかった。違うらしい。
「僕は、君が行かなくて嬉しかったですよ」
「俺一人行っても事態をややこしくするだけだからな」
「まあ、それもありますね」
事実なので言うと、九郎は分かりやすくしょげた。
「……俺は、やっぱり邪魔なのか」
「君が邪魔なのかはともかく、今行けば余計な事にしかならないのは確かかな」
「でも俺も、俺も源氏の血を引く者として!」
「けれど君は行かなかった。それも源氏の武士として、でしょう?」
僕は知っている。九郎は無謀なこともいくらでもしてきた。けれど本当に危ない橋は渡らない。本当に人に迷惑をかけることはしていない。
「凛となさい。自分が正しいと思う事をしたなら、胸を張りなさい。怖れず前を向きなさい、九郎」
無力だから行かなかったのではない。兄に、御館に負担をかけることを怖れていただけだったのだ。
知っていた。他の誰も、もしかしたら九郎自身も気付いてなかったとしても、僕は知っていた。
だから伝わるように、伝えるように、まっすぐに横顔を見つめた後、僕は少し微笑んだ。
「たまには話でもしましょうか」
そして、少し改まった声音で切り出した。
お前はいつも話ばかりしてるじゃないか、なんて返されるかなと思ったけれど、九郎は僕を茶化さなかった。杏にも手をつけなかった。かわりに、僕の方を見ることも無かった。
「ここに来た頃の事です。言ったことあったかな、僕はその頃、源氏や平家や、君の事もどうでもいいと思っていた。ただ興をひかれてここに来た」
「言ってたな」
「意外だな、覚えてたなんて。君の記憶力も結構なものですね。僕の事だから覚えていてくれた、なら嬉しいけど」
「……寂しかったから覚えてるんだ」
(僕が源氏を理解しないと言った事を、か)
僕は続けた。
「……あの頃には気付いていなかったけれど、正確には、僕はそういったことがぴんときていなかったんです。当事者である君とは違って、僕はあくまで一般人。源氏の御曹司たる君と出会ったとはいえ、やはり雲の上の出来事、のようなものだったんですよ。けれど、京で苦しむ人を見ているうちに、僕もまた……滅ぼしたくなりました。あの都を牛耳る一門を」
九郎はようやく静かにこちらを向いた。
「話を戻しましょう。だから、僕は君が戻ってきてくれて嬉しかった。君の事だから、無謀なことをしないと信じていたけれど、帰ってきてくれた時はほっとした。君が無事で、そして、僕を置き去りにしなかったことが嬉しかったんです、九郎。僕は君が好きで大切でけして失いたくないから。でも、それだけじゃない」
九郎は軽く目を見開いて僕を見ていた。僕はずっと心に秘めていた話をしていて、少し高揚していたので、少し大げさに、九郎の前にきちんと座してみた。
「君が行く時は、僕も連れて行ってください。君の友としてではなく、君と志を共にする郎党として」
「弁慶?」
「薙刀の腕は落ちてしまったけれど、薬や戦の知識なら少しは役に立てるでしょう」
「そんな」
ことはやめろ、と、多分九郎は言おうとしたのだろう。驚いたまま僕の腕に手をかけて、それでも、それでも九郎は紡ぐのも、僕を掴むことも、途中でやめた。伸ばした手を自分の膝に戻して。
「……ありがとう、弁慶」
と承諾した。のも束の間。
「僕こそありがとうございます。九郎、いや、九郎殿」
と、僕が頭を下げようとしたら、今度こそ遮られた。ぐい、と彼がよくやるように肩を掴まれ、僕の視線が九郎に向いた。満面の笑みだった。
「だが、お前は友だ。それは変わらない。それが条件だ」
いつものように眩いだけのものではなかった。やはり少し疲れ混じりで、けれど十分で。
心が弾んだのは僕の方だった。僕こそ、そんな笑顔を彼に向けたかった。九郎のように素直ではない僕が、正直に感情を表せていたかはわからないけれど、気持ちを紡いだ。
「それでは示しがつかない、と、僕は本当は言わなければいけないんでしょうね。けれど、君がそう言ってくれるなら、僕はこれからも君の好意に甘えたい」
「甘えるとかそういう問題じゃない! お前は、俺の大事な友だ。親友だ」
「それだけ?」
「またお前は……すぐに茶化すな」
九郎はそういいながらも僕にくちづけをくれた。柔らかな感触に綻んだ。離れる時に目が合って、少し照れを混じらせながらも、ふと不思議そうな顔をした。
「だが、なんで改めてそんな事を言うんだ?」
「ああ、それは、僕も少し覚悟みたいなものを見せたくなったんですよ、君に」
「どうして」
「最近の君はあまりに格好いい姿ばかり僕に見せるから、負けてられないと思った、というところかな」
「俺のどこがかっこいいんだ。みっともないじゃないか」
「それでも、君はもがいてる。源氏の名を継ぐものとして懸命に。そんな君が、僕は時折、羨ましい」
言いながら、九郎の瞳にかかった髪を梳いた。
「そしてそんな君が僕の事を随分と贔屓してくれるのが、僕は時折、誇らしい」
こんなひたむきな姿を隣で見ることを許されてきたからこそ、きっと、僕は平家を悪しと思うことができたのだろう。
だから改めて思った。
いつか九郎と共に京に入る日が来るのかもしれない、けれど、その前に、
やはりあの、僕が見つけた方法を、流血を避ける術を使わなければと、あたかも宿命かなにかのように感じていた。
(僕は終わらせる。僕のやり方で、あの傲慢な平家の執政を)
誓いを込めて、もう一度唇を重ねた。離れると、今度は九郎がいつもきちんとした姿勢をますます正した。
「じゃあ、俺も、お前に頼みたいことがある」
「主としての最初の命令ですか? ふふ、なんでしょう?」
九郎を主扱いすると彼は大抵怒る。けれど、この時は九郎はそんな逸脱をしたりせず。
「次にお前が京に行く時でいい。俺も連れて行ってくれないか?」
言った。
今度は僕が、特別な空気などなかったかのように眉を吊り上げた。
「九郎、それは」
「危険なのは分かっている。今は特にそうだろう。だがだからこそ、俺もそろそろ見ておきたい」
「いえ、でも」
平泉に来てすぐの頃以来、九郎が僕にそう頼んだことはなかった。そして、その頃にしていたように、僕は彼を留めようとした。けれど、それより前に。
「源氏の御曹司と呼ばれるならば、それくらい知らなきゃいけないと思うんだ」
きっぱりと言われてしまって、僕は言い淀んだ。
平泉で、九郎は少しずつ仲間を作っていた。それこそ僕が昔、「君は武士としての心得を学べばいい」と、九郎を撒くために言ったように……というよりは、彼に惹かれた皆が九郎の力になりたい、と、九郎に集っていた。恩に着る、といつもの笑顔で九郎はそれを受け入れて、すっかりと彼は御曹司らしくなっていた。
だから、彼らに報いるためにも守るためにもその覚悟は正しい、と、当時の僕は思った。その正しさが九郎だと目を細めた。
けれど、僕は惑うた。
「……九郎、」
最早京は変わるはずだった。福原遷都。頼朝殿の挙兵。人が動き、対立が深刻化する。きっと院と平家の溝も深まっている。そのうち僕が龍脈を止め、清盛に呪いが返る。だからそんなところに九郎を迎え入れる訳には……いかないと、思ったのは、
彼が危ないとか、汚い僕を見られたくないとか、そんなこともあったけれどきっと、
(邪魔されたくない)
と、思ってしまったからだ。
それに僕は気付いた。気付いた故に、惑っていた。
けれど九郎は当然知らず、いつものように正面から僕に懇願した。
「頼む弁慶。大人しくする。お前の目的の邪魔もしない。必要なら変装だってする。お前のその黒いのを被ってもいいし、商人を演じてもいい」
「……君みたいな嘘のつけない商人がどこにいるんですか。やるなら、君は僕の護衛でしょう」
言えば、途端、くぐもった顔に光がさした。
「弁慶……いいのか?」
「君の頼みを、僕はすっかり断れなくなってしまいました」
結局、まっすぐに請われて、僕は簡単に折れた。
「弁慶!」
「ただし、一回だけですよ。それも、情勢が落ち着いている時が条件です。でもその前に君の兄上の所に行くことになるかもしれないな」
「……兄上をお助けても、いいのか?」
「言ったでしょう? 『僕も連れて行ってください』って。何年君を見てきたと思っているんですか。もちろん、僕は賛成です。でも、さすがに今回のように、状況が掴めない中で出て行くのは無謀です。だから、しばらくここから東国の動向を見守ることにしましょう。次の機会を逃さないように」
「分かった」
こくりと頷いた九郎に、僕もしっかりと頷いた。
「話を戻します。京へ行く時が来たら、僕の言うことは絶対に聞いてください。危なくなったら僕を置いてでも逃げてください」
「だがそれは」
「御曹司として……行きたいのでしょう?」
「……そうだな。分かった。だが、お前も危ない事はするな」
彼は真剣だった。僕も真剣に返した。
「僕は君ほど無茶じゃない」
「誰がだ、誰が」
「いやだな、これでも勝算のない戦いは嫌いなんです。君と違ってね」
九郎は茶化されたと思ったようだけれど、事実僕は慎重なつもりだった。
龍脈を止めるのは冬。陰の気が強くなる頃合。僕はそれまで待つつもりだった。
九郎と行くならその前だと思った。彼にも変わり果てた京の景色を見せ、彼の言葉を聞いてみたいと思っていた。
そうして、僕の背を後押しして欲しかったのかもしれなかった。
「秋が来たら、行きましょう、九郎」
結局、九郎が京の地を踏むのはあと3年以上先の事になるのだけれど。
(02.16.2013)