「僕は大胆に近づいて」
朝出かけた僕が昼に帰ってきたら、やはりどこかに出ていたらしい九郎も丁度戻ってきたところだったようで、履物を脱いだところで出くわした。
「ただいま、九郎」
僕は微笑みながら軽く九郎にくちづける。そんな僕から九郎はいつだって大げさに慌てて離れる。
「ば、馬鹿! こんな所でなにをするんだ!」
「何って、したいと思ったからしただけですが……いけなかったでしょうか?」
「いけないに決まってる!」
九郎は僕を振り払うとばたばたと家の奥へと駆けこんで行った。
(逃げるようだ)
抱いた感想は、間違いじゃない。
最初の最初こそ、目を見張る勢いで僕を押し倒してくれたくせに、その後の九郎といったら常時この調子で、それは言うなれば、普段の……友としての、あるいは他の人と接している時分の九郎そのものだったから、僕もある意味、安心できたのだけれど、
それよりもからかいたくなってしまうから、困る。
九郎がいつもの真面目で気易い九郎に戻ったように、僕もふてぶてしく性格の悪い僕に戻ってしまっていた。
「九郎、待って」
僕は九郎を追いかけて……九郎はけっこう本気で逃げていたと思うのだけれど、こういうときは動転しているのだろう、住み慣れた建物の中だというのにあっという間に袋小路にはまってしまって、結局僕に追いつかれる。
「ふふっ、いましたね」
「弁慶」
僕は大胆に近づいて、答えも聞かずにもう一度口づけた。顔を傾け、微かに開いていた(おそらく、九郎は動揺していた)唇を食み、舌を捻じ込み浚う。九郎は小さく呻いて、なおも顔を背けようとしたけれど、それを許す僕ではない。両手でしっかりと頭を抱え込んで強張る仕草もしっかり堪能してしまう。甘い感覚。可愛い九郎。懸命に息を吸おうとして、そのたびに吐息を零して、それにますます僕は気を良くして、意地悪するかのように、更に深くまで口づけて、いつまでたっても消極的な舌を絡め、裏側をなぞり、吸う。こぽりと僕の口元から唾液が伝ったところで、九郎がぎゅっと強く目を閉じた気配がして、胸をぐい、と押されたから、僕は漸く彼を彼を解放した。
こういうとき、たいてい九郎は顔を真っ赤にしている。やはり予想通りで微笑んでしまった。
そんな僕を見ることなく九郎は言った。
「だから……やめろ」
「どうして?」
僕は素直に首をかしげる振りをする。答えなんて決まってる。
「……そういうことは、昼間からすることじゃない」
「そういうこと、って、接吻くらいだれだって朝でも昼でもするでしょう? それで照れるなんて、九郎は別な事でも考えているみたいですね」
「そっ、それは!!!」
誘導されたことは分かっているだろうに、髪の毛が逆立ちそうな勢いで九郎は動揺して、言葉を詰まらせて、拗ねたようにぷいと横を向く。
「……もっとしたくなるに決まってる、馬鹿」
だから僕は、昼間に仕掛ける。夜だったら……九郎は拒まないし、むしろ、火をつけてしまうだけで僕こそされるがままになってしまう。もちろんそれはそれで、悪いわけではないのだけれど、こんなささやかな戯れも楽しいのだから仕方ない。
「だったらすればいいでしょう?」
「こんな明るいうちからできるはずないだろう!」
僕は悪乗りしてもっともらしく顔を近づけて、にこりと微笑んだ。と、いい加減、九郎がぎりりと眉を吊り上げた。
僕は知っている。それは道徳心なんていう、彼が普段十全に持ち合わせているものから来るんじゃなくて、
「……こんなに明るかったらお前が見えすぎる」
という理由から来ていることを、知っている。
(そんなことを思ってくれるなんて、ね)
九郎も奇特だ、と思ってしまうこともある、けれどそれはさておき、僕は敢えて返してしまう。
「……てっきり、君は僕の外見まで含めて好きと言ってくれたと思っていたのに、違ったんですね」
すると九郎は目を伏せていても分かるほどの勢いで僕に向き直って、
「そうじゃない!! 抑えがき……、き、きかなくなるから、困るんだ」
詰まりながらもまっすぐに言うから。
「抑えなくていいのに」
たまらなくてもう一度彼の微かに下から口づけた。
今度は素直に最初から応じてくれた。温い感触は確かに、九郎が言うように、抑えられなくなる。もどかしくて僕は九郎の腕にしがみつく。九郎の腕が僕の肩にまわって更に近づく。息を吸うために刹那離れてもすぐにまた求めあう。思考は褪せて、体の力も抜けてゆくのに九郎を掴む指先には力がこもってゆく。そんなことをしばらく繰り返して、九郎がぐい、と更に強く僕を引き寄せたあたりで、僕はやんわりと九郎を押し返して、そのまま動きの止まった彼の腕からするりと抜けだした。
「弁慶!」
「ふふ、これ以上続けたら、僕もどうにかなってしまいそうです」
「お前は……」
九郎は心底恨めしげに(あるいは呆れたように)僕を見た。それでも、腰に手をあてたまま近づいては来ない彼を、唇をぺろりと舐めながら見やり、
「悔しかったら、せめて動じないようになることですね」
からからとそんな言葉を返す僕もさすがに酷いな、と、自分で思う。
実際に九郎が堂に入ってしまうようになったら、今度は僕ばかり恥ずかしいくなるに違いないから悔しいのに、それでも僕は微笑んで、
こうして彼を翻弄して、彼に言葉を紡がせて、そうして彼の想いを確認する。
彼に僕への想いを認識させる。
僕は我が侭だ。僕の愛は身勝手だ。
(01.10.2013)