「失敗なんて絶対できない」
一週間ほどたっても、僕はまだ九郎にきちんと向き合えずにいた。
すぐに答えを出すつもりは最初からなかった。九郎が返事はいいと言っていたのだから、短気を起こすまではそれを言い訳にさせてもらうつもりだった。
だからといって、元通りを装ってみても、そんなことはもう困難で。
九郎は随分と普段と変わらなかった……まるで全てが僕の願望の見せた夢だったのかもと錯覚を覚えるほどに。
それでも、たまに僕が言葉に詰まると悲しそうな目をした。
(こんな風になるって、思っていなかったのかな、九郎は)
短気なくせに変なところで我慢強かったり。
九郎の考えることはたまに分からない。昔も、今も。
でも、しびれを切らした……という風じゃなかったけれど、その日、朝の鍛錬の後、木刀をひとつ持って僕のところにやってきて突き出した。
「ほら」
「なんですか?」
「少し手合わせしたい」
相変わらずの唐突さや不躾さよりも、九郎が話かけてきた事自体に驚きつつもとりあえず、
「君とですか? ……勝てるかな。手加減してくれるなら」
にこやかに言ってみた、ら、案の定。
「そんなことで鍛錬になるか!」
と、ふくれつらのままぷいと踵を返し、長い髪を揺らして庭に出ていってしまったので、僕も呼びとめたりせずに後をついていった。
季節に違わず外は寒かった。庭でくるくるとまわる落ち葉が一層それを強調しているようだった。
九郎は庭のほぼ中央で僕を待っていた。外套を羽織ってくればよかった、なんて早くも後ろ向きな僕よりも薄着だというのに、冷たい風にも負けずにどんと立っていた。風が彼の髪や衣を揺らしても身じろぎもせずに僕を待ち構える堂々とした姿も、逸らしもしない目も、平泉に戻ってきた日の彼さながらで、僕は更に、気遅れのような物を感じてしまった。
「……君とこうして真剣に向き合うのも久しぶりです」
軽く握り、誤魔化すように切っ先を見つつ、風切りながら僕は口にした。
「さて、その時は僕が勝ったように記憶していますが……今日はどうでしょうか」
「……今に分かる」
「頼もしいですね」
(空気が重い、などと思うなんて、情けない)
そして向き直った。太刀を構えた九郎は綺麗だ。彼の心根がよく出ている。僕の好きな九郎。だからこそ。
ここで立っていても何も変わらない、意を決して僕は踏み込んだ。
小細工しても仕方ない、と、潔く上段から振り下ろした僕の刀身は案の定九郎に受け止められた。
そこまでは計算通り。でも、あっさりとはじき返されたのは、少しだけ予想外。
(……やはり随分と、しっかりと力がついてる)
(これは、苦戦するかもしれない)
二度、三度と刃を再び重ねた。それも全て簡単に跳ね返された。
この前の年の、背が伸びた九郎との打ちあいの後、ごく軽い手合わせは何度かやったことがあった。それでもこうして真剣に向き合えば、九郎の能力が跳ね上がったのがありありと感じとれた。
(多分、もう力では敵わない)
九郎が跳ね返すたびに腕の骨が痺れた。足元で砂がじりと鳴った。というか、そもそも跳ね返す必要はない、受け流せばいいのにわざわざ返してくる九郎は、きっと自分の力を測っていた。つまり、それだけの余裕があった。
(……だったら)
僕は敢えて一歩引き、突いた。それでやっと九郎は流した。でも避けなかった。やはり前ほど速さはなかった。でも十分僕よりは速く。
だからそのまま返し刃で踏み込んできた。
「っ!」
間一髪。僕の眼前をそれは通り抜けて行った。ぎらりとした視線とごく間近で交差して、さすがに肝が冷えた。たまらず僕は一旦後ろに飛んで間を開けた。
けれど九郎も追いかけてきた。しかも速い。橙の髪を棚引かせ、一歩、二歩と地面を蹴って、腕を引いて、突き。
軽やかに、けれど堅実に。惚れ惚れするような姿に目を奪われつつも、僕は何とか払った。でも九郎はすぐに型を取り戻してもう一度突いた。僕はもう一度流した。でも、受け止めきれない。追いつかない。
そして僕に生じた隙。
(しまった)
思えど無理だった。軽く刀を握りなおした九郎の袈裟切りが、まっすぐに僕の肩口に迫っていて、
それでも木刀が追いついたのはただの偶然だ。九郎ほど真面目ではなかった僕でも鍛錬の賜物はあるらしかった。けれど、自分でも驚き、目を見開いてしまった僕に、間髪入れずに九郎は更に剣を振るった。
(こんな近い間合いで!?)
下手したら……それは普通、致命的だ。隙なんてもんじゃなかった。
ただ九郎は速かったし、正確だった。僕が攻めるより先に、横に振りかぶった木刀を僕の胴に叩きこんだ。
「っ、」
受け止めるので精一杯だった。掴だけじゃ無理で、峯も握って無理矢理受け止めた。両掌がいよいよ痺れただけじゃなく、そのまま飛ばされた。
かろうじて転倒はしなかった、けれど九郎もそれでもなお終わりにはしなかった。
僕も今一度地面を踏みしめ木刀を握りなおした。がっつりと受け止め、じりじりとせめぎ合う、でも、次第に僕が押されて来ていた。
このままではまずい。と、僕は思いきり力を込めて九郎を押し飛ばした。
開いた間合い。
「さすがだな、弁慶」
小癪なほどに爽やかな笑顔で九郎は再び斬り込んできた。はじいた。はじいても当然のように追いつめてくる九郎の刃。
「なんで」
そんな余裕ないのに、僕は気付けば呟いていた。
「なんで、僕なんですか」
それで怯む九郎ならよかった。だけど止まらず。
「なんでって」
動揺も見せず、軽く息を吸い込んで、刹那、目を見開いたかと思ったら、一閃。
僕は軽く飛ばされ、踵を滑らせて背中から落ちた。
木刀も見事にくるくると回転しながら飛んでいって、庭の隅にからんと落ちた。
それなりに痛かった。けれど呻くのも忘れていた。だから当然、起き上りもしなかった。陽の光を透過しない分厚い雲をただ瞳に映していた。そんな、手足を投げ出したまま動かない僕の視界に、橙の髪が映った。
「ほら、立て」
それでもなお僕はただ九郎を見上げた。
「立てって、もう勝負はついているでしょう?」
「一回だけじゃないか」
「一度で十分ですよ」
「負けず嫌いのくせに。もういいのか?」
「僕は勝てない喧嘩はしませんよ」
「…………そうか」
九郎はそっけなく言って、僕の隣に腰を降ろした。
風が吹いた。体を動かしてもなお冷たい風だと感じた。ざあざあと木々が鳴って、遠くから鳥の声がして、そちらを見れば白鳥が飛んでいた。すっかり冬だ。
なんて、目を逸らしていても仕方もなくて。
「髪、切ったんだな」
現に、先に九郎が静寂を裂いた。僕は綺麗に隊列組んで飛ぶ鳥を見上げたまま返した。
「そうですね、少し」
「勿体ない。お前の髪の色、好きなのに」
「……五寸程ですからね、すぐに伸びますよ」
『好き』という言葉にちりと胸を痛める間も無く、じりりと砂の音がした。九郎がこちらを向いた気配。だから、僕も切り出した。
「…………それにしても後先無しですね、君も」
白鳥が視界から消えていった。それを追うことなく、九郎を見ることもなく、暗い空をぼんやりと映して僕は続けた。
「僕が君では嫌だと言ったらどうするんですか?」
僕にしては結構な躊躇と共に発した言葉だった。なのに、九郎の返答は僕とも空とも裏腹に簡潔で。
「頑張る」
思わず、僕は九郎を見た。
九郎は口調通りの顔をしていた。
「頑張るって…………諦めるってことですか?」
「……それをお前が望むなら。お前と離れるのは嫌だから」
なんでもなく言う九郎。僕にはにわかに信じがたい言葉だった。
(それは……僕だったら、きっと僕なら)
この頃ならば、封じることもできたとしても、一度口になどしてしまったら。
(もう、耐えられない)
多分、僕は顔をしかめていた。九郎もくいと横を向いて続けた。
「でも、お前はそんな事言わないだろ」
「……どうして?」
「もしそうなら、だったら、お前なら最初に言う」
「それは……」
僕は言葉を詰まらせた。
(……ああ、その通りだ)
ぎりり、と胸が痛んだ。切ない、と称すにはおこがましい感情が僕を苛んだ。
「……君も、随分と卑怯な言い回しをするようになりましたね」
「だって……失敗なんて絶対したくない」
「ならば手段を選ばない、ですか。……なんだか、僕がいない間に随分源氏の御曹司らしくなったみたいです」
九郎はとても生意気だった。あるいは強いのか。なんにせよ、それは彼を象る一部ではあった。
けれど、こんな局面で、こんな風に振る舞うのは九郎らしからぬ事だ、と僕は思った。
(だからって、そんなに簡単に言って)
こんな話をする時、九郎ならもっと照れたりすると思っていた。なのに九郎のくせに焦りもしないで、当然のように言い放つ姿に、僕はただただ戸惑った。
(そもそも、好きって事だってそんなに簡単に言う事か? もうすこし、きちんと考えてから言う事じゃないのか?)
(僕一人で困惑して馬鹿みたいだ)
鼓動が早まって、ひどくやりきれない想いがして、僕は両腕を交差させて顔を覆った。
ぐるぐるとこれまでの事が僕の脳裏を回っていた。九郎と過ごした三年半の季節。それがどれだけ楽しかったか。つまり、どれだけ自分が九郎が好きで、どれだけ大切に思っているか、だ。
(『……だって失敗なんて絶対できない』、か)
本当は。
戻ってきてから、僕はひとつの手段を思い描いてはいた。
未来は曖昧なものだ。けれど、少し石を投じればある程度操ることができるものだ。
だから、よりそれを確固にするための卑怯な手を。まるで影よりも黒く。泥にまみれた水の如く……あるいは、僕の外套の色のような。でも、
(……でも、使うのか? 使ってもいいのだろうか?)
(九郎に?)
ますますやりきれない想いがして、だけど視界を閉じてしまうのも怖くて、僕は腕を投げ出した。曇り空のくせに眩しくてぼんやりした。
(何が最善なんだろう)
答えを出せなかった。しばらくそうしていた。けれど……どれくらい経ったころだろう、九郎がいきなり動いたかと思ったら、顔の上の僕の腕をぐいと引いた。
「九郎?」
「遠乗りだ!」
ごく間近で、九郎はごく真剣に言った。
「遠乗りに行くぞ」
「今からですか?」
「ああ!」
「でも」
「だから、返事は急いでないって言っただろ。いいから行くぞ!」
秀麗だと再認識する隙も無かった。立ち上がって、ひょいと僕をひっぱり上げて、やはり笑った。
「考え込んだらお前は長い。それはそれでつまらない」
「って、随分な言いようですね」
「事実だろ。ほら急げ」
一拍惑ったけれど、僕は後を追った。冬の風にさらされて、九郎の髪が大きく揺れて、ちらりと見えた耳は赤い色をしていた。
(ああ、僕には覚悟が足りない)
手を伸ばせば彼を手に入れられるところに、九郎はいた。
(12.08.2012)